インドネシアのSanghyang Adi Buddha
インドネシア建国5原則Pancasilaは以下の5項より構成される。
唯一神への信仰(Ketuhanan Yang Maha Esa)
公正で文化的な人道主義(Kemanusiaan Yang Adil dan Beradab)
インドネシアの統一(Persatuan Indonesia)
合議制と代議制における英知に導かれた民主主義(Kerakyatan Yang Dipimpin oleh Hikmat Kebijaksanaan, Dalam Permusyawaratan / Perwakilan)
全インドネシア国民に対する社会的公正(Keadilan Sosial bagi seluruh Rakyat Indonesia)
第1項「唯一神への信仰」は、アブラハムの宗教に基づく世界観を前提としている。しかし、実際には同国ではイスラーム、キリスト教カトリック・プロテスタントとともに、ヒンドゥー教、仏教、儒教が公認されている。一般にヒンドゥー教は多神教、仏教・儒教は神への信仰を必要としないが、インドネシアにおいて合法的に活動するために、それぞれ唯一神を設定する工夫が見られる。
ヒンドゥー教においては梵、儒教においては天の概念があり、これらを唯一神に対応させることができる。一方仏教は、「天上天下唯我独尊」とまで宣言しているとおり、唯一神はもとよりあらゆる神、さらにはあらゆる事象への信仰を不要と捉えることができる。
(仏教におけるsaddhā(信)については、様々な議論が行われている。『パーリ語経典韻文中の「信仰」について』参照:http://nbra.jp/publications/67/pdf/67_33.pdf)
インドのNavayānaにおいては、神への信仰の否定を教理としている。仏教における神は衆生の一つに過ぎず、超越的な存在、信仰の対象ではない。
この中で現代インドネシア仏教が構築した理論が、Sanghyang Adi Buddhaである。
後期密教におけるĀdibuddha(本初仏)とは、世界生成の原因とされる尊格であり、原初仏ともいう。ヒンドゥー教の有神論的見解が顕著であり、大乗仏教の密教形成期の最後の段階において発生し、ネパールやチベットに伝えられた。チベット仏教では法身普賢(毘盧遮那仏の法身)、持金剛仏、金剛薩埵が本初仏として尊崇される。ネパールにおいてはMañjuśrī(文殊菩薩)をSvayambhū(自然生じねんしょう)すなわち「自ら生じたもの」として信仰し、これを本初仏とする。日本仏教の場合、真言宗ではMahāvairocana(毘盧遮那仏)を、浄土信仰ではAmitābha(阿弥陀仏)を、日興門流では日蓮をĀdibuddhaに見立てる。
大乗仏教におけるDharmakāya(法身)、仏性の思想とも関連付けられる。4世紀頃までの中期大乗仏教では、法身(永遠身)と色身(現実身とも)の二身説だけであったが、5世紀頃までにはその本質永遠性と現実即応の関連づけ、すなわち統一が問題となり、それが仏身論に及び、法身と色身(応身)を合せた報身が立てられ、三身説が成立した。法身は、宇宙の真理・真如そのもの、仏性。報身は、仏性のもつ属性、はたらき、あるいは修行して成仏する姿。応身は、この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿である。
いずれも仏教がヒンドゥー化したことで発生した思想であり、思想の類型から見れば事実上のヒンドゥー教に分類できるかもしれない。
いずれにせよ仏教の実践は、個々人の内面的活動であって、国家の承認の下で行わねばならないものではない。釈迦の仏教に立ち返るも、Sanghyang Adi Buddhaと仏教教理の折り合いをつけるための思索を続けるも、各々の自由だろう。
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