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寝れないからむつかしいほん読んでいるのか、それとも、むつかしいほんよんだからねれなくなったんか、そもそも、ぼくはどこへ向かおうとしているのか

夜も更けてベッドと格闘長期戦ともなれば、スマホ片手にいつもの手法でおべんきょ。

はい、題名はGauguinのあの作品名風ですね。『仏: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?』

深夜帯いや、最早朝方のトリノコエチュンチュン聞こえてきてやっべぇww っー烈火の如き熱り方をした脳味噌なテンソンで書き連ねているわけで。

今宵は1983年に出た、1991年生まれのわいにとっちゃあそれはそれは古い本、『構造と力』浅田彰 の読了後アウトプットの手法を披歴でーす。
ただ読みながら線引っ張ったところをツイート機能で140字に纏め、後はこのノートに時系列順にペタペタ貼っていくだけ。
あらカンセーイ、いーわ、デジタルはラクチンチンで。

何より、序章は最高に厨二の例のあのノリを患ってて、控えめに言ってさいこーでした、涎でました。

以下、残念ながらnoteを始めたとこからの記録なので200頁あたりから。

📝ゲゼルシャフト=昼としてのステート、ゲマインシャフト=夜としてのネーション。前近代の夜と近代の夜。
『構造と力』p186
📝…我々にできることといえば、安定した《表象のハイアラーキー》の崩壊を嘆くか、《戴冠せるアナーキー》への希望を口にするか、ふたつにひとつしかない。…選ぶべきは後者だと付け加えるなら、全くの蛇足と…なる…なぜなら、それが我々に残された唯一の切り札だからである。
『構造と力』206

この辺ツイートしているときに
乃木坂は与田ちゃんの二十歳の誕生日ということにはたと気づいたのでタグ付でおいわい。[](https://note.com/occidentaldada/n/na33298eb03e7)#与田ちゃんハピバ

📝言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。(パノプティコン機能をもつ)第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。
『構造と力』227
📝砂漠へと逃れ出るために不幸な道化たちにかけているのは何だろうか。…流れを千に分岐させて砂漠へ導こうと思ったら、悦ばしく多数多様な舞踏の術を身につけねばならないのである。…舞踏する者だけが、パラドクスを…そのまま笑いとともに肯定することを知っているのだ。
『構造と力』228
📝いずれかのレベルにはりつくとき、ひとはマジメになる。…先へ先へ遠ざかっていく理想と現実との距離を肩をすくめながら背に負うほかはないのだ。これこそ近代資本主義のイロニーというものだろう。…ふたつのレベルに同時に足をかけているという事実をそのまま肯定すること。
『構造と力』228
📝砂漠へ向かう者の合言葉は《イロニーではなくユーモアを》…これは、ある意味で言えば、ヘーゲルと手を切るにはアドルノではなくニーチェをもってせねばならないということである。あるいは、…ワグナーと手を切るにはシェーンベルクではなくケージをもってせねばならない…
『構造と力』228
📝いずれにしても、近代人、この不幸な道化は、身にしみついたイロニーを払拭することによって、本当の道化にふさわしいユーモラスな笑いをとりもどさなければならないのである。
『構造と力』228

以上であーる。
うん、お次はニーチェ読んで、ケージ聴くのが大事だよ!ってことね、きっと。

ふむ、まったくもってこの浅田の結論は、時代を経て、千葉雅也が『勉強の哲学』によってよりノリよくわかりよく復刻した、といってよさそうだ。

さて、個人的課題は、3年ほど前に読んだ筈の
東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を読み直す必要が出てきた、ということだ。
当時は自分にアウトプットの習慣がまだ確立されていなかったから、殆ど内容を覚えていないんだよなぁ。
この『構造と力』も踏まえて書かれたとのことだったから、当然なんだけれど、残念ながら、当時は『構造と力』なんて、もっと読めなかっただろう…どっちにしろ正解なんてない、どのルートを辿ろうとたどり着けば構わない。ノリつシラケつ、今後も濫読するのがよかろう。

しかし.一体ぼくは何処を目指して読んでいるのだろうか?? もっと高速に乱舞しないと、色々な踊りを身につけないといけないのか⁈

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