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可能性をくれる二称的自由について

 分析哲学者の青山拓央さんの著作の中に「時間と自由意志」という著作があります。その中に出て来る「二人称的自由」という概念が凄く面白くてですね。形而上学や哲学を専門にしている山口尚さん(京都大学講師、最新刊の『日本哲学の最前線』が超分かりやすいのでおススメ!)の例を借りると分かりやすいので拝借するとこんな感じです。
 タリーズコーヒーで僕がつまらないブログを書いたり、本を読んでいたりする。周りのお客さんはいますが、お互いに干渉しません。ちょっと賑やかな席があれば離れた席に移動することで解決します。僕は自由を満喫できます。そして、僕にとって他のお客さんは「彼や彼女」であり、第三人称の知らない人たちなんですよね。
 それに対して、突然、「あなた」と呼べる知り合いが僕に気づいて席に座ってきたとしましょう。「やあやあ、紅條さん。またつまらないブログを書いてるんですか?」とか言って。僕はブログを書く手を止めたり、本を読む視線を「あなた」の方に移さなければいけません。
 「あなた」が僕に話しかけてくる自由が、僕の自由を制限してしまう。「あなた」が僕に関わることで得られる承認感や自己肯定感は、ひょっとすると、誰かの不自由につながるかもしれない。自由論と不自由論が重なった「二人称的自由」を着想に、自由意志、そして自由でも不自由でもない「無自由」という凄まじい着想に青山さんが辿り着くんですが、僕はこの着想点が凄く興味深くてですね。
 これをアイドルの世界にあてはめると、SNSや握手会で「あなた」と「彼や彼女」の間にいる人達から沢山の関わりを持つことになるなあ、と思いましてね。

 これが上手に機能している例はないかな、と考えていると、SKE48の鎌田菜月さんのブログを思い出しましてね。
 ちょっと読んでみましょう。

 高校卒業に必死だった鎌田さん。
 「鎌田のアンダーが見たい」という「あなた」たちの声。 
 高校を卒業するという視点から見れば、「あなた」たちの声は一人称の「私」を困らせる声になります。しかし、その声があったからこそ、アイドルとしての鎌田さんにチャンスが訪れたわけです。
 これは「二人称的自由」が良い方に機能した例ではないでしょうか。勿論、その背景に鎌田さんの努力があったというのもあると思います。
 また、このブログで印象的なのが、「でも勘違いしないでほしいのは、求める型や結果を押しこうもうとするお説教は別!」というのも、この「あなた」が関わることで生じる「不自由」を未然に防ぐ感じがして素晴らしいですね。丁度、新センターが発表されたSKE48ですが、「センターはあの子じゃないとダメだ!」とか「センターたるものこうあるべき!」という枠に収め過ぎるのは良くないですね(急に反社会的なことをし始めたら話は別ですが)。思えば、握手会でもメンバーの為を思って気になったところを言って下さる方もいれば、自分の考えるアイドル像で居て欲しいという支配欲が高い「あなた」もいるかもしれません。
 

 更に「あなた」と鎌田さんとの関係を感じられるブログを読んでみましょう。

 読みながら、泣きそうになりました。
 まだ滑走路だった頃から握手に来てくれた人。
 そして、「ちはやふる」を教えてくれた人。
 この場合のファンの方は、名前を知らないどこで何をしているかは分からない「あなた」でありながら、それを超えた影響のように感じます。
 そして、このブログを書く鎌田さんの一人一人のファンの方への思いも感じられます。そういえば、2017年の生誕祭スピーチでは「皆さん一人一人、応援して下さる方の代わりって、誰一人いなくて、きっと一人でも欠けたら、今の私はいません」と語っていましたね。
 たとえ、名前は知らなくても、自分の中の一部を作ってくれた人達がいる。
 上記のブログや生誕祭のコメントを見ると、それがおべんちゃらじゃなく、本当にそうなんだな、と考えさせられます。だって、極端なことを書けば、握手会で何をおすすめされようが、アドバイスされようが、ガン無視することもできるわけじゃないですか。SNSへのコメントやアメブロへのコメントも。でも、一人一人のことを大事に思える。それを飲み込める、取り込める器がある。鎌田さん推しじゃない僕から見ると、鎌田さん推しの方々は、推してて楽しいだろうなあ、と思います。

 これからも、自分に良い影響をあたえられる「あなた」に鎌田さんが恵まれ続けますように。そして、鎌田さん自身が実は我々に素敵な影響をくれる「あなた」ではないか、と気づいたところで、この記事を終えます。

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