勝間和代とニューエイジ思想

高校時代の同級生が、2007年ごろ、勝間和代に耽溺し、”カツマー”に変貌していた。勝間和代が推奨するライフスタイル(PCはパナソニック、自転車に乗る等)を取り入れていることをFacebook越しに見た。そんなに勝間和代は素晴らしいのかと思い、勝間和代の本を読んだ。そして気づいたのは、勝間和代のバックグラウンドにはニューエイジ思想(人間は神になれる!)が潜んでいるということだ。

その後、勝間和代以外のいくつかのビジネス本を読み、一方でニューソートやニューエイジ思想の著作を読んで分かってきたのは「19世紀の神秘主義思想が装いを変えて、ビジネス本に輸入されている」ということだ。もっと言えば、人は神にはなれないと限界を設けるキリスト教VSグノーシス主義と気脈を通じる人神思想の戦いは古代から続いている。限界を設ける思想=支配の思想とも変換することができ、そこに資本家の陰謀を感じる人もいれば、悪魔崇拝主義者の抑圧、スターリニズムを感じる人もいるといった次第だ。

陰謀論セミナーに行けばわかるが、どことなく疲れた人々、ルサンチマンを孕んだ人々を見かける。支配や抑圧は、する側ではなく、される側に立って初めて感じるものだ。抑圧されていると感じるところからの離脱の方法が、内的世界への沈潜、社会変革に向けたラディカルな政治運動だったり・・色々ある。人々の疲労を癒す意味では、いかなる思想も宗教だ。

本題に戻ろう。勝間和代を読んで、10年前の私はどう感じていたのか・・偶然、mixiに残骸があったので、それを引用したい。

まずは、「勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド」について。

勝間和代さんがニューエイジ思想の信奉者であることが明確にわかる著作。そして本書は巧みなプレゼン技術により語られる“成功”の物語。ゴールは年収1000万の男との性交、その男は女に依存することもなければ、女を自分に従わせるわけでなく、女と手を取り合い“成長”しあえるという実に都合のいい奴。元々は「インディでいこう!」というタイトルだった本書。周囲に経済的にも精神的にも依存しない女=インディと定義付け、インディとなるには遊びで仕事やってるわけではないことを証明する年収600万円の獲得、イイ男のパートナー、年老いても魅力的であることが条件とされる。インディになるには「しなやかな心」を作らねばならないとし、各種戦略を読者に語りかけるのだが、周囲に自然と協力してもらえるようにビジュアル面とデキナイふりをすることを推奨。要するにぶりっ子ということになり、依存しているようにしか見えないが、まだ“インディ”になっていないから良しとしているのか?この手の矛盾がちらつくのが本書。インディな女であることを認められるためにも資格を取得することが推奨され、効率的な学習が説かれる。
面白いのは“インディ”とは実は身振り(口が悪い人はええかっこしいと言うだろう)にすぎず、常に周囲の承認があると自分が想いこまなければ成り立たない依存的なものであること。章の狭間に唐突に表れるコラムが“過去は見るな!”と語る勝間さん自身の過去を語るものとなっており、本書の随所にみられる矛盾は、過去の自分と現在の自分のギャップを埋めるための“アイデンティティゲーム”に基づくものだったことがよくわかる。だが、その矛盾解消が「負け犬の遠吠え」(酒井順子)風の自虐・露悪的な内容にならないのは、勝間さんのプレゼンスキルと「7つの習慣」などで吹き込まれたニューエイジ的なポジティブシンキングによるものだろう。さらに気付くのは勝間さんはインディになるためには他人を利用するだけで誰かに還元するつもりはさらさらないこと。本書を出版して成功の技法を説いているように見えるが、実際は彼女自身が成長できるかどうか、という見事なまでに自己中心的なニューエイジ思想を体現しているだけにすぎない。(わかりやすいのは本書では倉田真由美を礼賛している点。ほかの本で出て来なければ利用しているだけだとわかる)ニューエイジ思想はカトリックと異なり他者としての神との対話ではなく自らを神にする思想でビジネスやエコロジーと遍在する。そして霊的技法に精通するものによるエリート主義に化ける。勝間さんが本書とは別に「年収10倍勉強法」などで説くノートPCを携え、オーディオブックを聞くなどの技法中心の語りは実はニューエイジ的な意味での技法を実社会での成功にリンクさせて説いているだけだと見えてくる。
男女雇用機会均等法で野に放たれた強い女が、ニューエイジ思想を身にまといデスクワークと見つからない<自分>に欲求不満な男女(受験戦争中耳にした落ちこぼれ論争などを発展させた下流社会論などで常に不安を抱えている)を導く現代社会が見える。野村沙知代や細木数子のような泥臭く狡猾でたくましい女から、洗練された装いにくるまれたエリート主義の女へ、時代は変わった。(もちろん、前者のニーズも当然まだ残っている)
勝間さんからインディペンデントしないといつまでたっても本書が語るところの“ウェンディ”になってしまいそうだ。

続けて読んだ、「断る力」について。

ニューエイジ思想の伝道者としての面影は薄れ、その代り自ら考えて自ら価値判断を行い、入れ替え可能な存在(コモディティ)から入れ替え不能な存在(スペシャリティ)へと進化するためのプロテスタントのごとき行動主義的禁欲を推奨し、Win-Winな関係を社会と築く“心構え”(半分精神論)を説く本書。あとがきによれば1000万円の男とのセックスが目標だったエゴ満載のニューエイジぷんぷん「インディでいこう!」の続編とのことだが、確かに自分ひとりを見つめるだけでなく、少しは他者への視線を持ち始めたことで内容も一新。「インディでいこう!」で提示された自分が変わるために他人を利用し、ぶりっ子に走るアプローチより利己主義が薄れ、ノートパソコンと自転車という相変わらずだった技術に関する語りからも開放された内容になっている。ぶりっ子していたから周囲からの評価が高いだけかもしれんよ、と指摘するあたり「インディでいこう!」を40代になって実践しようとした読者には劇薬のように作用するだろう。
しかし変わらないのは他者から自分がどう見られているか/見えているかへの強いこだわり。掲示板やmixiに自分について書かれていることをひたすらサーチしてはチェックし、自分に対する客観的な評価をつけるためだと語るあたり、確かにそういう面もあるのだろうが、苦悩すら感じる。(実際に他者から書かれた悪口を探して論駁する姿は痛々しささえ漂っている。)本書の中で、この葛藤は数々の矛盾となって現れている。「空気を読む」ことへの苛立ちを隠さないことと並列して、嫌われる理由について考察し、嫌われないようにすることを語り、嫉妬する人間は依存心が強く他人の評価を気にして努力しない人間と断定した後、嫉妬されているかどうかを自分を評価する指標にしようと語る。客観的であろうとする以上に、自分の意見を語ることに本心では怯えているのか、ほかの著名人(本作では黒木瞳、福岡伸一など。「インディでいこう!」の倉田真由美は姿を消す。)の発言を引用し、著作を引用する。自分の評価を上げるために、ほかの人(本書では黒木瞳)を褒める戦略も採用し、イメージ向上を図る様子も垣間見える。
漠然とだが、本書の次に書かれる人生観にまつわる作品は、筆者も年を取るから“六十にして矩を超えず”(孔子)やら“無為にして為さざるなし”(老子)のような他人の目を気にすることを感じさせずに社会と調和して生きることを推奨する老人向けの内容になるのではないかと予感される。もちろん「インディでいこう!」で記述された年老いてもますます魅力的云々のくだりは援用されるはず。(その前に募金しているアフリカに“美しく”引退するかもしれない。)だが書かれたとして、「暴走老人!」(藤原智美)に記述された“年老いて酸素消費量が低下するがゆえに時間の流れが速く感じられ、自分で自分の時間を管理できないもどかしさと情報化社会についていけないことで感じる孤独感によって暴挙に出る老人たち”に届くだろうか?増え続ける健康な老人は徒党を組んで、ヒマつぶしに悪さして回ることだってあり得る。そんなところに“心構え”のような精神論は通用しない。だから筆者がどんなアプローチを取るか楽しみだ。
余談になるが、老人たちはもう一度若々しくありたい。だから自分たちよりはずっと若い“熟女”モノAVを見る。そのジャンルにマザコン傾向のある<癒し>を求める若者が群がる。本書のカバーもインテリの女医を連想させ、女性には頼りがいのある姉貴だが、マザコン傾向のある男には性的な連想を導くだろう。(倉田真由美をフェードアウトさせて自分の理想の男性像をひっこめたのも、男性読者を確保するための戦略だろうか?)
男女雇用機会均等法が産んだ強い母たちと威厳を失った父、そこから産まれた<癒し>を求める弱い若者像と、一時期流行した熟女ブームが本書のカバーにおいて時代を超えてリンクする。

この約10年後、勝間和代が同性パートナーの存在をカミングアウトするとは全く予想できなかった。私は勝間和代のどんな著作より、このカミングアウトの方が価値があると思った。同性愛者に勇気を与えたという部分もあるが、勝間和代が繰り返し離婚していること、ニューエイジ思想に耽溺していた背景には、ある意味、生物学的な背景があるのだと深く理解できた。性的アイデンティティが思想を求めて彷徨う人間を形作ることがよくわかる。ミゲル・セラノは”人は自身の人種により思想を選択する”といったことを言っていたが、それにも似ている。昨今のポリティカル・コレクトネスの文脈からは容認されない意見ではあるが、一理あるとは思う。

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