『コウスケの風船』

 彫刻刀を版画版に突き立てて素早く表面を削るような小気味の良い音をたてながらコウスケを乗せたスケートボードがこっちに向かってくる。
 コウスケの音が近くなると二人の六年生は振り返った。おれの髪の毛を掴んでいた日焼けした手が開かれる。つんのめるようにしておれは必死に目の前の丸坊主から離れて、そのままアスファルトの地面に転んだ。涙と鼻血で頭がクラクラする。マンションの向こうに見える鰯雲が俺らに関係ないくせに目立っていてむかつく。
 ユウヤを助けなきゃ。あ、コウスケが来たからもう大丈夫なのか。
 オレンジ色の金属バットをだらしなく右手に持って眠そうな目のまま地面を蹴るコウスケは、まるで如意棒を片手に金斗雲に乗る西遊記の孫悟空みたいだ。そう思った間なくボンッという派手な音がして赤いトレーナーを着た六年生が不自然な角度に体勢を崩して倒れた。コウスケは振り切ったバットをそのまま自分の後ろに放って、素早くしゃがみこむようにしてスケートボードから降りた。そのまま轟音をたてて車輪の付いた板は滑っていき駐車場の壁に激突した。人が降りたスケートボードは速い。コウスケはもっと速い。
 しゃがんだ体勢から、コウスケはそのまま弾丸のように前方へ倒れ込むように飛んだ。地面を蹴る音とほとんど同時にドザッという湿った激突音が響く。半身になったコウスケの頭部と右肩がもう一人の六年生のみぞおちに沈み、さっきと同じように受け身のとれない体勢のまま人間が地面に叩きつけられた。さっきと違うのは倒れていく人間の叫び声だった。彼は裏返った声で何か言葉を発していたが聞き取れなかった。腹部を押さえのたうち回っている目の前の少年にコウスケが馬乗りになる。コウスケは自分のポケットから何かを取り出した。カチカチカチという音がしてコウスケの右手に握られたものに太陽光がぎらりと反射した。
「わっ、コウスケッ、やめろ!」
 振り上げられたコウスケの右手を両手で掴んで必死に後ろへ引く。
「止めないでよ、リョウちゃん」
 仰向けになった相手の喉仏を左手で覆ったまま肘を伸ばし、上半身の体重をかけたままの体勢で少し振り返ったコウスケの声はいつも通り澄んでいた。口元に控えめな笑みを含ませているのがわかる。鼻が高いからなのか眠そうな目のせいなのかコウスケの横顔はおれの学校にいる他の四年生の誰よりも大人びている。
「ねえ、カッターなんて使わないでよ」
「なんで」
「怒られるから」
「それだけ?」
「うん」
 分かったと言いコウスケはカッターナイフを折り畳んでポケットにしまった。
「リョウちゃん、他の奴は?」
 低い声でコウスケに尋ねられた。残りの奴らはパチンコ屋の立体駐車場にいるとおれは答えた。駅前のパチンコ屋は先月潰れて、まだ取り壊しの工事の最中だ。少し離れたところにある駐車場に関しては完全に手つかずにままで車が入ってこれないように金属製のポールが立っているだけだった。
「てかユウちゃんは?」
「そこにユウヤがいるんだ」
「あ、そう」
「おい、お、おまえら・・・・・・」
 がに股でしゃがんだコウスケの股の辺りから声がしたけれど言葉の続きは聞けなかった。コウスケがまるで発作でも起こしたみたいに素早く拳を振り下ろして黙らせたからだ。ケチャップをこぼしたような赤い染みがコウスケの白いパーカーに付いた。
 駅前のパチンコ屋に向かう途中で、コウスケは楽しそうに風船の話をしていたけれど、おれにはさっぱり意味が分からなかった。おれは後でされるであろう上級生からの仕返しを想像して憂鬱だった。
「だからね、オレのなかに風船があるわけ、オレはその風船が邪魔だから割りたいんだけど、どんなに息を吹き込んでも膨らむだけだし、針を想像して突き刺してみても食い込むだけでびくともしないの、わかる?」
「わからない」
「だからとにかく風船を割りたいってこと」
「どうやったら割れるの」
「楽しいとき、だけど風船は水色だから夕方くらいまでは空に混ざちゃってよく見えないんだよね」
「風船はコウスケのなかにあるんじゃないの」
「そう、オレの中には空もあるし風船もある」
「なんか大変そうだね」
 他にもコウスケはフリースクールには給食がないけれど給食センターの献立と同じ内容の弁当を配達してくれる業者が来ることや、義理の父親と銭湯に行ったけれど刺青が体に入っている人の入店は禁止されている店だったので仕方なく二人でレストランに行った話をしてくれた。
 ずっとコウスケは楽しそうに話していた。
「でさ、父ちゃんさ、好きなだけジュース頼んでいいって言うんだけどさ、そもそもドリンクバーセットなのね、なんか俺も気遣っちゃってさ、飲みたくないのにメロンソーダ四杯も・・・」
 おれはユウヤのことが心配なのと徐々に熱を持ってきた鼻の痛みのせいで頭が回らなくてぼんやりと相づちを打ちながらコウスケの横を歩いていた。
 ぬるい風が吹き抜ける。雲は紫色の空をゆっくりと撫でて遠くへ去って行く。おれは段々この状況が面倒になってきた。公営団地の八号棟と九号棟の間の銀杏並木が続く舗道に差しかかり、黄色い葉っぱの山が道路の端に見えた。
 そもそもおれにもコウスケにもあんまり関係のないことだった。おれらの秘密基地が六年生たちに取られた。秘密基地といっても二つのビールケースにエアーガンとかスーパーボールとかトランスフォーマーのおもちゃを入れて、そのケースを鉄の階段の裏に隠して遊ぶときに取り出すだけ。大人が来ないことと他の奴らに見つかっていないことが取り柄の遊び場だった。どうせ本格的に工事が始まったら追い出される一時的な遊び場。そこに六年生達が来ておれたちを追い出した。それだけの話。
 一緒に遊んでいた他の奴らは諦めが良かったけれど、ユウヤだけはブツブツと文句を言っていた。ケースの中にビニール袋で包んだエロ本を隠していたらしい。秘密基地を取られて三日ほど経ってからユウヤは恨みがましい口調でおれに打ち明けた。
 おれはエロ本の中身も知らないしユウヤがそこまでこだわるのも少し気味が悪かったけれど、おれも六年の連中には腹が立っていた。だから昼に学校を抜け出して、ユウヤと二人でビールケースだけを取り返しに行った。 ケースの中にはエアーガンもスーパーボールも変形するロボットのフィギュアも猥褻な本も無かった。何冊かの週刊少年ジャンプと半分ほど消費された花火の袋、そしてチャッカマンが入っているだけだった。
 ユウヤは黙ってビールケースを蹴り飛ばしてチャッカマンでケースの中身を全部燃やした。花火の光と端っこから燃えていく分厚いコミック雑誌と黒い煙は、真っ昼間の明るさに不釣り合いで綺麗だった。
 翌日から六年の連中は犯人探しを始めた。でも、ユウヤとおれがやったことは分かりっこないはずだった。誰かがチクった。大事なことは他人に言うなって志限塾の塾長がいつも言っていたのに、ユウヤは自慢げに放火したことを同級生に話していた。そしてそのユウヤの自慢話を誰かが六年にチクった。
「リョウちゃん、どっちがいい?」
 駅へと続くアーケード街を抜ける時にコウスケは急に真顔でおれに質問してきた。
「ごめん、何の話かわからない」
「リョウちゃん、俺の話聞いてなかったでしょ」
「うん、今ちょっとぼーっとしてた」
「うそつけ、ずっとだろ」
 コウスケは口だけで笑った。コウスケは嘘と弱い奴が嫌いだ。両方ともなんか悲しいからだと前に言っていた。
「風船の話までは聞いてたよ」
「父ちゃんが首のところまで刺青を入れたせいで風呂屋の受付で断られた話は?」
「それも微妙に聞いてた」
「風船の話が大事だからまあいいや、じゃなくてスケボーとバットだとどっち使いたいかって訊いたんよ」
「おれはいやだよ、ていうか六年とこれ以上揉めたくない」
「じゃあどうするの」
「謝る」
「ユウちゃんもリョウちゃんも殴られたのに?」
「うん」
「なし、なしなし、お前何のために空手やってるの」
「心と体を鍛えて大切なものを守るため」
「それ塾長が言ってるだけだろ」
「おれはユウヤとかコウスケと違っていじめられないために空手してるんだ」
「馬鹿かよ、友達殴ったやつを殴るために空手やってんだろ」
「そしたらまた殴り返されて終わらなくなる」
「別にいいじゃん」
「よくないよ」
「ねえ、もうおれ一人で行くよ、コウスケのせいでめちゃくちゃになっちゃう気がする」
「ユウヤを助けたくないの?」
 パチンコ屋の前まで来てもコウスケは譲らなかった。何のために空手をしてるんだって何回もしつこく言ってきてダルかった。結局武器を使うのはやめるとコウスケがおれに約束して、おれは六年の奴らには謝らないことをコウスケに約束した。
「それで何人いるの?」
「ユウヤを入れて五人かな」
 ユウちゃんは入れなくていいんだよと言ってコウスケが笑った。おれもつられて少し笑ってしまった。たしかに。ユウヤを抜いて四人だよ。わかった四人ね、バットとか無しなら作戦考えないとな。
 パチンコ屋の駐車場横に建っているアパートの三階の外廊下の端っこから少ししゃがんだ体勢のまま駐車場を見下ろすと、ユウヤは五人の少年に囲まれて正座させられていた。上半身を裸にされて後ろに立っている二人がエアーガンでユウヤの背中を撃ちながら笑っている。
「ユウちゃんを入れないで五人じゃん」
 低い声でコウスケが言った。風が吹いてコウスケとおれの髪がふわっと一瞬だけ浮き上がる。コウスケの目には紫色の空が映っている。よく見るとコウスケは女みたいな顔をしていてなんだか綺麗だなと思った。
「コウスケ、やっぱり警察とか呼んだ方がいいんじゃないのかな」
「それじゃユウちゃんが浮かばれないだろ」
「ユウヤは死んでないよ」
「俺はさ、小さいときに両親がいなくなってさ、父ちゃんはいるけど血繋がってないんよ」
「ごめん、コウスケ何の話かわからない」
「風船の話、俺にくっついてる風船はたぶん一生なくならないんだよ」
「うん、それもいまいち分からないけど」
「まあ聞いて、でね、楽しいときとか何かに夢中になっているときだけ風船を割ってそのまま広い場所にいられるんだよ」
「うん」
「俺ね、お前らと遊んでるとき割と楽しいよ」
「風船が割れるくらい?」
「時々はそれくらい楽しいな、前に港で釣りしてフグしかひっかからなかったのとか」
「あれ、楽しかったね」
「でも今は風船が膨らみすぎて風船しか見えない」
「なんかそれって苦しそうだね」
「当たり前じゃん、だから今から風船を割るの」
「わかった」
「風船膨らませたのあいつらだから」
 じゃあ行くかと言ってコウスケはスケートボードとバットを足元にそっと置いた。待って、行くってどこから。アパートのコンクリートの床にカランという音が響く。
「正面から向かっても五人には勝てない」
「じゃあやめようよ」
「やめない、奇襲かければいいんよ」
「え、こっから?」
「そう、こっから」
「無理だって、骨折するよ」
「しないよ、体育館の二階より少し高いぐらいだろ」
「ぜったいやだ」
「じゃあ正面からバット持って突撃だな」
「無理」
 深呼吸しろとコウスケに言われて塀の上に頭が出ないように気を付けながら大きく呼吸をした。リョウちゃんいい感じ。体に力入んなくなるまで息を吐いて。コウスケの声は澄んでいてよく通るから駐車場まで聞こえてしまわないか心配になる。
 急にユウヤのくぐもった悲鳴が聞こえた。こめかみが熱くなる。もうどうでもいい。コウスケのせいだ。ユウヤのせいだ。あいつらのせいだ。
「リョウちゃん、たぶん俺もお前もやられるよ」
「わかってるよ、だからいやなの」
 三、二、一で行くよとコウスケは小声で言ってきた。知らない、任せる。しゃがみっぱなしでそろそろ足が痺れそうだった。
「お前の風船も割れるから大丈夫だよ」
 おれには風船なんてない。
「三」
 ただもう全部がむかついてきて頭がパンクしそうだ。
「二」
 コウスケが腰を浮かせる。口元だけが笑っている。全部終わったらコウスケもユウヤも塾長にチクってやろうと決めた。おれには風船もないしエロ本に対するこだわりもない。ただ今は広いところに行きたい。
「一」
 コウスケとおれは地面を蹴ってアパートの三階の塀に腰掛けるように体を浮かせた。
 急に目の前に広がった紫色の空が綺麗で、頬に当たる風がひんやりとしていて気持ちいい。コウスケが空手の稽古の時にかける号令くらい大きな声で叫んだ。

「リョウちゃん、飛ぶよ!」

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