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本当に祝福されない子どもはいないのか

"祝福されない子どもはいない"
毒親育ちにはドキッとする言葉だと思う。
私も母から『本当はもう子どもはいらなかった。』『お父さんは男の子が欲しかったからがっかりしていた。』と言われてきたので、自分を祝福されて生まれた子どもとは思っていない。

なので、こういう言葉を見ると、理解されないのだな〜とか、上っ面だな〜とか、こうやって偏った常識ができるのかも…とか、何度も思ってきたことを繰り返し思うだけだ。
そして、そう思いたいよ…と虚しく思うのだ。


でもある時、ふと思ったのだ。
祝福は誰からの祝福? 親だけ?
祝福されるのはいつ? 生まれてきた時だけ? 
祝福されていないと祝福できないの?と。


そもそも祝福とは何か。
幸せを祈り、祝うこと。
無条件でありのままを肯定し認められること。

すごく暖かい言葉だ。
すごく暖かい世界だ。
憧れる。理想的。嬉しい。笑顔が溢れる。平和だ。
次々とポジティブな言葉が浮かぶ。



さて、私は我が子達を祝福しただろうか?
祝福されたと思っていない私だけど、ちゃんと祝福できただろうか?


産まれてきた時はただただ安堵した。
でもその安堵の中に祝福も含まれていたと確実に思うのだ。
それは本能のようなものかもしれない。
もし本能の中に我が子を祝福する気持ちが本当にあるのなら、この世に"祝福されない子どもはいない"のだと思う。

ただ子育てのまっただ中に、毎日祝福の気持ちでいられた訳ではないし、もう少し〜だったらという欲も常にあった。
そういう日常の中、本能の気持ちを忘れたり、歪んだりして確執が生まれるのかもしれない。
私もそうなっていた頃があるかもしれないと思うからだ。



でも今、私は我が子達の幸せを心から願っているとはっきりと堂々と言える。
子どもの幸せの為に出来ることがあるなら、何をおいても頑張りたい。
今までも今もそう思っている。
だけどそれは、子ども達が望むならだ。
そして、本当に幸せを祈るなら、何もしないという選択肢も持っていなければならないと思っている。
ここが私にはとても大事な気付きだった。
つまり、それが信頼であり祝福に繋がるのだと思う。


小さな頃に祝福されたりしたりする感覚を刷り込まれていない私は、子ども達に教えてもらったように思う。
環境や出会いが変えてくれるのだ。
親からでなくても誰かと何処かで、祝福したりされたり出来るのだ。


ただ大事なポイントとして、祝福されているのに受け取れないとか、気付かないという可能性を失くしておかないといけないと思う。
私自身、そういう時期があったと思う。
幸せを願いすぎるあまり無条件で認めてあげられなかったり、比べてしまって捻じ曲げて受け取ることしかできなかった。
そういう世界は結局、誰も幸せになれない。

今思えば、自分は祝福されている筈と思っていたことを、ことごとく覆されていった時期だった。
私の祝福が空っぽになってたからだ。


でも必ず祝福はやってくる。
親や兄姉から祝福されなくても、まず自分で自分を祝福してあげよう。
そうすることで、誰かを祝福してあげる本能の気持ちを思い出すことができる。その為の練習だ。
そうして、出来るようになったら暖かい世界がやって来る。
今は強くそう信じている。


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