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毒親の連鎖

娘が2才くらいから、私の生育状況や奥に仕舞い込んでいた感情に疑問を持ち始めていた。
"育児と共に親に感謝する"ものと思っていたのに、湧いてくるのは疑問ばかりだった。
何か違う。何かおかしい。私が親に言われてきた事、されてきた事。
そう思っているのに、自然な反応で出る自分の言葉や態度や表情や思考にうんざりして自分を責めていた。
アダルトチルドレンとは少し違う気がするし、時代とか土地柄とか文化とかそういう違いもあるよね、それに親は皆んな初めてなんだから迷うし間違えるし、いろいろあるよ…と誤魔化しながら揺れながら子育てをしてきた。

でも父の死去で、私の家族の本音が溢れ、もう誤魔化しが効かないほど根底から揺れ出したように思う。
その頃、娘は12才。
すでに学校生活の中でもがいていた。


多くの人が学校生活の中で嫌な思いをしたり、人との関わりに悩み苦しみ生きていると思う。
娘と息子の生きづらさを見ていて、私もそうだったし、大人になってもそれは続いていたし、人の悩みはだいたい人間関係だというし、そうやって大きくなるのだ、と思っていた。
もちろん、何とか力になりたい助けになる事ならできることはしたいと思って行動したこともあるが、子育ては年齢が大きくなればなる程、どこまで踏み込んでいいのか難しい。

子ども達が学生生活を心から楽しんでいない様子に心を痛めながら、やっと辿り着いた『毒になる親』という本。
衝撃だった。私だーと思った。
この時、娘は17才、息子は13才になっていた。
毒親は連鎖するという。
確かに、違和感を持ちながらも継承してしまっている自覚がある。
心が作られる大事な時期に私は毒親だった。
自覚なく毒を垂れ流していたと思う。
なんて事だ。今から何とかなるだろうか?


子ども達には人生を豊かに楽しんで欲しい。
自分を否定し過ぎることなく、自分で自分の人生を選んで、納得して満足して過ごして欲しい。

解毒する為にはどうすればいいのか、と思うあまり、子ども達にも『毒になる親』の本を読ませたりもした。
私が母や姉との関係に苦悩している姿も間近で見ていた。
それは私の子ども達への弁解でもあり、指針でもあり、懺悔でもあったと思う。
それが良かったかどうか、それしか方法がなかったのかどうか、全てわからない。正解などない。


社会人になった今も、苦しみながら生きている子ども達を感じて、毒親育ちでない人は人生を伸び伸びと生きられるのだろうか?とか、
私が今からでも自分に染み込んだ毒を出さずに接していけば変わるだろうか?とか、
私と同じように、子ども達も子育てをしているうちに疑問を持って、やがて絶縁してしまうのではないか?
自分がしていることだから自業自得だ。
それが子ども達の為なら、寂しいけど受け入れるしかない…。とか、
そんな事ばかり考えていたある時、夫の言葉が私のど真ん中を射抜いた。

『うちの子ども達を失敗作みたいに思うのはやめたら?』
『器用に生きていけるタイプではないけど、充分立派に生きているじゃないか』
『頑張っている子ども達に失礼だよ』

ハッとした。これこそが毒を持たない親の考え方だ。
"子どもを尊重する"ということだ。

"尊重"という得体の知れないものの本質を教えてもらったように思った。
失敗作の人などこの世にいない。
あなたも私も子ども達も。

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