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バスキアと芸術とTwitterと

まるで事件現場のような展示だった。

バスキア特有の生々しさを伝えるため、ほとんどの作品がそのまま展示された館内は、どうみても通常の倍以上のスタッフが要員されており、来場者はみな、どこか探偵のような神妙さでバスキアの絵に込められた意味やメッセージを拾い出そうとしているように見えた。

バスキアはとても鑑賞が難しい画家だ。脳内をそのまま転写したようなカオスな情報量は、かと思えば極端に抽象化された単純な落描きにしか見えないような作品まであって、音声ガイドに頼るひとが目立った。ちなみに音声は吉岡里帆である。危うくエロい美術館デートを妄想しそうになる。
展示は、国内初の大規模展示と銘打つだけあって個人的なノートに記した散文や素描などもあり、死後にTwitterを額装されているような趣きが少し笑えた。資料的な価値は大きかったと思う。
とはいえ多作な画家だ。1000点以上を数えると言われる作品は世界中のファンに「高価な財産」として私蔵されているものも多く、網羅的に作品を整理した資料は、Webを探す範囲では見当たらない。当然、展示されていた作品もごく一部にとどまっていたことが惜しい。要するに、お目当ての絵は見当たらなかったわけだ。仕方なく帰宅してから画像検索すると、検索結果からも消えている。どうやら展示会の情報に上書きされてWebの海に埋もれてしまったらしい。
なんてことだ。。。

ところで、27歳で死んだバスキアは、27クラブの例にもれず薬物の過剰摂取で死んでいる。どっぷり薬物に浸かったバスキアの、暗い錯乱や孤独をキャンバスに叩きつけたような悪魔的な作品が好きだったんだけど、その手の作品は少なかったような気がする。ひそかに気に入っていた作品がWebの検索結果から消えてしまったこともあり、少し展示会を呪った。

結局、バスキアの生涯と同じように唐突に終わってしまった印象の展示だった。展示数は80点だったらしい。展示の出口に待ち構えている物販コーナーでは、展示の短さもあってかバスキアの絵に高尚な解釈を与える評論家たちの弁に、やや鼻白んだ率直な感想を漏らす人たちもいた。キツネにつままれたような顔である。まあ気持ちはわかる。どう見ても良さが分からない絵はいくつかあったし、バスキアの絵の良さをほんとうに“理解る”ためには、たぶん薬物による幻覚を体験していないと難しい。物騒な世の中を反映して入り口では持ち物検査が行われていたけど、あれをもし尿検査に変えたら、期間中に何人かは別室に連れていかれたと思う。つまりそういう画家なんだ。目のまえの現実が歪み、脳内の思念と反転したような経験がなければ、バスキアの絵を理解することは難しい。中途半端なサブカル女子がインスタ映えのためにくるような場所じゃないんだよ。どうせなら紙の一枚くらい噛んでこい。バスキアに失礼だろ。
…とまでは言わないまでも、物販コーナーで立ち読みしたハンドブックには優れた解説もあった。

Q「バスキアは何を表現しているのですか」

A「彼が生きていた“時間”です」

なるほどなと思った。
バスキアの良さは自分自身をそのまま吐露したような“流血的な表現”にあると思っていたんだけど、それはとりもなおさず“バスキア自身が生きていた時間”でもありそうで、とすれば、方法論としてのバスキアの芸術は、原理的にはだれにでも可能な芸術なのかもしれない。たとえばTwitterである。もし嘘偽りない感情を厳密な精度で言語化し続けることができれば、その記録がいつか文学に近い色合いを帯びる可能性はある。

バスキアは描き続けた。一方でTwitterは
140字の遺書を書き続ける遊びである。

たぶんバスキアの価値は、芸術の値打ちが技術にはなく、だれもが備える普遍的な人間性にあることを絵画の形で示した点にあるような気がしたのだった。やはり、天才である。

#バスキア

CMのあと、さらに驚愕の展開が!!