かくしごとについて

さっきまで原稿を書いていた。
ライターの目線だと、Webメディアのいいところは「字数の超過に比較的寛容なところ」かもしれないと思った。
これが紙媒体のメディアだとそうはいかない。
木っ端ライターの書いた文章などは指定字数までキッチリ詰められる。
ヤクザを取材した原稿では、ほんとうに指まで詰められそうになったこともある。

一方でWebメディアは、1500字から2000字程度で指定された原稿に3000字を超える原稿が送られてくることもたまにあって、編集長の「まあ、面白いからいいんじゃないの?笑」程度の鷹揚さであっさり掲載が許されたりもする。
編集側にとっても、悩ましい反面、実は嬉しかったりするんだよね。「うわ、こいつ、またとんでもない長文を送ってきやがった(笑)」みたいな。

稼業の事情から俺は某Webメディアの編集長をやっていたりもするんだけど、編集者にとって良い原稿を削ることはライターと同じくらい辛いものがある。悔しさに似た気持ちかもしれない。
ライティングの技術的本質が“削ること”にあると理解してもなお、削るには惜しい文章がある。
たぶん、ライターごとのクセや書き方を理解したうえで、なぜその言葉がそこに置かれているのか、手に取るように分かるからなんだ。

むかし、メンヘラのライターが数千字を超過する原稿を送りつけてきたことがあった。
さんざん締切も破ったうえに、とんでもない馬鹿者だと思った。
いいからまず締切に間に合わせろよ、と。
しかし、原稿はほぼ完璧だった。
ときおり消耗して寝込みながら書き上げたらしい。どれほどの集中力でそれを書き上げたのか、一読すれば分かる。
それでも、削らなければいけなかった。
あれほど辛い編集もなかった。
深夜のファミレスで、編集者と俺、ライターと、3人そろって朝まで唸った。
結果的に原稿はそこそこ拡散した。クライアントの評判も良かった。
ほんとうに良い原稿の裏には、惜しくも打ち捨てられた数千の言葉と検討がある。
その行間を読むことを読者に期待するのは愚かだとしても、惜しくも語られなかった言葉には頭を下げるしかない。

一方、こと文章に関してはどうしても手を抜けない畸形の者たちがいる。彼らはすべてを完璧に書こうとしてだいたいぶっ壊れる。
そこに寄り添って、商品としての価値や客観性、場合によっては妥協点を与えるのが編集者の仕事だと思う。

20代のころは何者かになろうとして、ひたすら書き続けていた。結果、何者にもなれなかったけれど、書くことだけはやめられなかった。

読みたいことを、書けばいい。これは真である。
けれども、読みたいように書くだけではだめだ。
そこには客観性がない。
だから編集者が必要だった。

いま俺の周りには優秀な編集者がたくさんいる。
彼らとは同じ言語的互換性で話すことができる。
これはほんとうに幸せなことだ。

日付が変わって40歳になった。

結局、書くことはまだやめられそうにない。
たぶんこれからもしばらくは
クソみたいな文章を書き続けるはずだ。

CMのあと、さらに驚愕の展開が!!