ツイッターをSNSと思っていなかった頃のまま

ツイッター、Xになってしまってからもツイッターと呼んでしまう
ツイッターのことをSNS、とふんわり指すこともある
文章として話題に出す際に。

ソーシャルネットワーキングサービスかあ・・・と思い意味を検索した。
人と人との繋がりかあ・・・・と思う。

ツイッターのことを社会的な繋がり機能と思わずに使い始めた
何年前かもわからない随分昔のことを思い出す。

気持ちをネットに書き捨てることが好きだったので
ポロポロポロポロ書かなくても良いことを書いた。
もし帰る部屋に家族が居るなら話すようなことを書いた。
返答を気にせずに独り言をするのは楽しい。
会話をすることは間違いなく精神の安定にはたらくだろうが
多分返答がなくてもそうして少しずつ思ったことを零して忘れていけるようにすること自体にもほんの少し精神を安定させる働きがあるのだと思う。
それが依存につながるような気もするが
依存という言葉には程度のふり幅が大きすぎて一言では語弊があるように感じる。

脱線したけれども
最近のツイッターは本当に人とのコミュニケーションが前面に出ているように感じる。

自分は、趣味で適当で拙いイラストをツイッターに投げることもあるけれど
それは特別人に見てもらいたいというわけでもない
アカウントさえあれば、あわよくば(?)ひとに感想を送ることもできてしまえるし。
望んでもない情報が濁流となって自分が見たいものも何もかもを現在進行形で流し去ろうとするような勢いの今となっては微妙だが気になる人の活動を追えたりとかそういうことのためにやっている
あとは惰性というか慣れというか依存というか習慣というか・・・・

そういうとき

自分のような人間でもたま~に感想をもらったりする。
リクエストを募集しているのでメッセージを貰える機会はあるのである。

もともと性格が陰気で頻繁にふさぎ込んでいるので
自分としては特別落ち込んでいるつもりではなく人生のふとした一瞬でしかない、それでも弱っている時にタイミング良く好意的なメッセージを貰い、
ついそれを読み、感情が肥大化し、冷静ではないのかなと思うくらいに嬉しくなったりする。
さて、個人的にメッセージを貰ったならば個人的にそれを返せばよい。
あまりに感情的な文章は配慮に欠け、悪意なくとも良くない影響があることを無視はできないはずと思っているのでそれもできることならしない方が良い。
更には素晴らしいお題募集サイトは文章のやり取りをしなくて済むのだ。
そのシステムを愛している。

脱線したがそういう時、じめじめとツイッターに書き綴ってしまう。
書き綴ってしまいそうになる。
焦燥感がなくなったかのような気分で感謝とネガキャンを焦燥感の勢いをそのままに機関銃のようにドドドドド
きっとツイ消しもする。

しかし陰気に考えてしまうのだ。

どちらかというと私は何か作品を発表(大げさな。ネットにカスの落書きをアップロードすることである)して何かを言ってもらうことより
密かにずっとべったり見ている作品への感想を突如気がくるって作者本人に送り付けてしまったりすることの方が人生で見てかなり多い。

気持ちが二つに分かれてしまうのである。

私がふさぎ込むことは珍しくないしそれもツイッターなどというタイムリーに更新できるツールに頻繁に投稿していればその波はひとからも見てわかるはずなので

(メッセージをくれた本人に文章を作るのは、勢いがやってくれてもそれなりに極端な失礼がないかどうかは気にする労力があり、その点独り言としていったん気持ちを逃げさせるようにつぶやきを書き捨てるのは非常に楽な快感だ)

まさに落ち込んでいる時おそらく普段より冷静でなく嬉しそうな感謝の気持ちを書いたところで
もし見ている人からすれば(過去好意的なメッセージをくれた人がそこにいるとして)
ああ、このタイミングで感想を送ってあげた方が良かった。
私も絵のことが好きなのに以前に送っただけでは足りなかった。
やはり感想は常に必要なのかもしれない。
新鮮なリアクションのみに意味があるんだろうか
常に感想をできるならオーバーリアクション(語弊)で伝えなければ意味がないのだろうか
その人が送った文章は私が送った文章より力になったのだろうか(自分の送った感想の採点は一生明かされないため改善ができない、ただ良くなかったのかもしれないという判断がその時にくだされる)
と、思って疲れさせてしまうのではないかと思うのである。
どれも自分が考えたことのあることだ。
他者の気持ちを考えることって、結局自分自身の頭では
大勢の自分自身と生活しているようなことだ。
現実そんなことはない、嫌な思いも良い思いも自分の予想を外れたところで起こるんだから。
でもネットではそうはならないのだ。(私の場合)
結局文章なんていうものは、読解力というものは
文章がそのままの意味を持つことなんてない
肉声や表情によるヒントもない
全て自分の解釈なんていうもので歪んでしまって正しいものが何一つ見えない。
大勢の自分を相手に自問自答
そこにいないはずの自分相手に傷つけてしまわないように右往左往している。
自己愛でおぼれそうになっている。に過ぎない気がする。

どうしたら自分が間違っているとわかるんだろうか。
どうしたら自分が間違っていないとわかるんだろうか。

いつだって大失敗してからでないと答えはわからない。

感想って難しい。
感想が無いと意味がないというような作品を知りもしない人の投稿だって勝手に流れてくる。
自分の考えを常に詳細にわたって説明しなければならないんだろうか。
いや、今のツイッターはひとつの投稿しか見ずに他人からリプライが集まりまくってしまうような場所なのだ

SNSとして、人に見られる前提で文章を書くのってなんて大変なんだろう。
日記ではなくエッセイレベルの、世に出してはアウトかセーフかの判断
それがNGワードではなく精神面のフォローに及んだら大変だ。

誰も傷つけたくないだけなのになあ。

と思ったのでここに書いている。

今、絵を描く気力もわかない日々を過ごしているなかで
リクエストの繊細な気配りを感じる文章に胸がきゅっとしたわけだが

それはさておき
私はこれまで言ってもらった感想を常にいつでも新鮮な気持ちで思い出せる
その時の言葉はその時のもので、今がどうあっても構わない
ずっと好きでいてもらえたらそんな幸せなことはないだろうけども
そのことを表明しなければならないとしたら
暗記ゲームのように言葉をもらうたびにそれを最終に付け足して延々と延々と私は時間を忘れて過去への陶酔で感謝を書き続けるんだろうか。

基本的にキャッチボールとしてのコミュニケーション能力が破綻しているからこういうことになるんじゃなかろうか。
こちらには無限に湧き出るボールがあり、ひとが受け取れないような投げ方をしてずっとずっとがむしゃらに投げ続け、疲れては満足して寝るようなものになっている?

まあ、他者とのコミュニケーションになってしまったら恐ろしかろう。
人に嫌われるのも好かれるのもしんどかろう。

だからツイッターの使い方が間違っているのだ。
私は感情の扱い方が下手なのだ。

踊らされており、ばたばたしては他者へ迷惑をかけている。
はたから見れば踊らされているか踊っているかなどわかるわけがない。

他責思考。おわり。

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