日記

毎週金曜日にいつまでもいつまでも夜更かしをしてしまうのがやめられない。
腹が減っているわけでもないのに焦燥感のままに食い物を飲み込みまくってしまうのもやめられない。
結局煙草も吸っている。

ツイッターばかり見てしまうのも絶対に良くないと分かっているのにやめられない。
ついツイッターのことが世の中の全てのように思えてきてしまうこともあるが
気を確かに持たねばならない。

それはそうとツイッターやSNSによる
気持ちのシェアの簡単さは
内容よりもビジュアル的な、一秒以下の印象全てで判断されて流れていくものだと思う
バズる熱狂はそれこそ数字に気を取られがちで
その一瞬のタップの集合として数字としか思えなく
それがほぼ正しいとしても
そのうちのいくらかの人は本当に情熱があるものなのかもしれない

それでもビジュアルだけで判断して中身のわからないまま瞬時に評価のような何かが物事を人前へ人前へおしやってくるのは奇妙なものだ

昔は・・・・なんていういかにも精神面でも自分の老衰を感じる言葉を綴ってしまうとは。
昔は、例えば自分が良いと思ったものを周囲へアピールするのには
ある程度の忍耐や労力のかかる面倒なことで
それにすら気づけずにいられる強さの熱意が必要だったような気がする

ツイッターだけで見れば
そういった労力なく、詳細をしらなくてもリツイートという簡単な1タップで記事を共有できる
それに対する反応や判断もほぼ視覚による反射的な判断だ
嘔吐しに便所へ駆け込み、トイレットペーパーを巻き取るときくらいの速さでスクロールして
見ずにスクロールしているのではない、その間に気になるものがあればスクロールの指を止める、数分と眺めるわけではなく数秒でシェアできる
シェアするのはとても気軽にできる。
指がすべり誤操作でもシェアできる
もしかしたらそれを取り消しもせず忘れてしまったかもしれない

後から詳細が追い付いてくる、論争が目に入る、

ツイッター以外でもそういったビジュアルに転びそれで終わった価値観によるものが増えたように感じる
自分の偏った感想で見え方が歪んできているのかもしれない
大衆の評価がこんなにも虚しいものとは

流行りの映画や本でもそんなことはよくある
価値観を合わせる必要はないのに統一しようと思ってしまっているのだろうか。
大して美味くもないものを絶賛されているのを見るのは
私の舌がどこかでダメだと言われているように感じてしまっているのだろうか




病気や事故、加齢
周囲の人間が死んでいく想像に襲われている
職場でもそうだ
仕事場で感情やそこで不必要なおまけを付けずに行動を制していられる人間は希少だ
そういう人間は若くない
死んでいく気がする
今日にも明日にも
自分自身の死も考える
死のうとするより死んでしまいそうである
ささやかにやりたいことがたくさんあるのに
時間も金もない。


自分が馬鹿へ馬鹿へなっていっているせいか
最近のPCのアップデートにはうんざりする
なぜ無くて良いものばかりがこうも勝手にこちらを制止して増えて増えていくのだ
わかりにくくすることは金儲けに繋がる

面倒くさい値引きをする店にもうんざりする。

マツモトキヨシへ行きたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?