無題

日記にタイトルなどあるわけがない。
なんとなくフォントサイズが大きい書き始めに対して
大人しく表題のようなものを書き入れてしまうのは何故なのか。
メモアプリで無駄に改行してからベックスペースにて戻り本文サイズで書き始める無心の数秒を思う


最近聞かなくなった、と書きかけてそれって本当だろうかと思いまた脱線支離滅裂思考が始まるかに思えた。
これは日記なので、思いついたまま口から出すように打ち込んでいるが
本当にすっかり文章をどうしたら良いのかがわからなくなっており、
主語の間にいろいろな無駄が入り込み、その先が繋がらなくなっていることに気づく。
これを他者へあてた文章でやってしまっているんだろうな。
これ以上ひどくしてはいけない絶対に。
やはりビジネス文書テンプレが一番素晴らしいのじゃなかろうか。
要点、詳細・・・・
文字を書きつづけるツイッター的快感を求めてやっているからそこへ辿り着かないのでは?やはり一旦全貌を俯瞰して、箇条書きにでもしたものをとりまとめれば済むだけの話なのだ。
話言葉に慣れ切った家庭問題ツイートのめちゃくちゃな文章を流れてくるままに読み流してそれに違和感を覚えなくなったら終わりである。
自分だけなんだろうか。結局誰がどうしたのかわかりにくい怒りのみが伝わるツイートばかり流れてくるのは?
目的として怒りを発散するためであろうからそれを正す必要はないのだ、
自分が気持ちを置いていくために日記を書くのと同じく。
文章がくるっているのか
自分の読解力が衰退していって正しいもの(?)すら理解できなくなっているのかは謎、学生時代が悔やまれる、学生であれば常に模範解答合わせくらいはできる時代であったのに。学生時代に思い浮かぶ疑問はなんて学校生活から逸脱したものばかりだっただろう。
世間一般的思考ができない、普通を目指し続けている中で
学生時代にもっとしっかり勉強しておけば良かったなどといくらでも他人の口から聞けるような普通の弱音が出てくるとは皮肉である。

最近聞かなくなったキモオタのキモの部分だけで生きている・・・・ことについて暗い気持ちを無駄に弄んでぐるぐるしているくらいなら
一度書き捨てておいた方が良いのではないかと思ってPCを開いたのだ。

陰気なことは恥だ。
自分の場合は陰気なことは恥としている。
客観的に見て、人間として生きている限り見た目の印象に基づいた挙動が必要だと思う
意地悪な言い方をされれば身の丈というものだと思う。
他者へ何かを強制するような考え方は持っていない(と思いたい)が
自分に対してはそうとしか言えない
それが一番社交?対人においてきちんと対応できる条件だと信じて生きている。
見てくれがよろしくない、なんとも鈍臭くも巨漢である。
それでいて体力が無いのでは何の役にも立たない。
せめて体力や精神的屈強さが求められるのである。
そしてできるだけ気持ちの悪さを内面に持っていないのだというギャップも必要になってくるのである。
気持ち悪さの帳尻(?)を合わせる必要がある。

現代でいうオタクというのはかなりこう・・・広範囲のものとして希釈した言葉になっていて
ふんわりとした・・・・デザイン的趣味のもの、のような
極端な恥に繋がる呼称ではなくなったようにも思うけれども

呼称?段々単語の意味や使い方にも自信がなくなってきた。
こういう言葉の勉強ってどうしたら良いんだろう。
言葉の教養ってどうやったら身につくんだっけ。
本を読めば良いとは聞く気がするが、本を読むことが好きでもどうにもならないことはある、漢字の読み方だってそうだ。不安ばかりしかない。
外国語を学ぼうとするみたいな気分になってきた。
正しい理解てそういうことか。
辞書をひき、単語ひとつひとつを学び、本などで使用例として並びと繋がりを学ぶのか。
学生時代を経て社会人になってからが人生長いとは思わなかった。
もっと早くさっさと死ぬ予定だったのに何をしているのか。恐怖ばかりだ。
社会人になってからの勉強がわからない。学生時代に勉強の仕方を身に付けなかったせいである。
なぜきちんと目前の勉強に取り掛かることができないほど余計な事で思い悩んでしまうんだろうか、学生。
道徳や倫理などと時間を分けても勉強と区切り情緒とを器用に学ぶことができなかった。
単純にコンピュータのようにただひたすらインプットの時間として交流を絶った方が良かったんじゃなかろうか。(自殺率が上がりそうだ)

脱線して遠くに来てしまった。

だからこそネットでじめじめと現実でもじめじめと平行して二種類の陰気さを引きずっている。今も引きずっている。

理想は、現実では明るく、ネットでじめじめする、である。
そうはうまくいかない。簡単な話ではない。
根がじめじめしていれば可動域が違うのだ。
陰気は谷折り、陽気は山折り、
その時どう頑張っても私は山折りにはならない。
谷折り用の印刷がされた折り紙である。
本当に意志が強ければそれも山折りにする人もいるんでしょうが

キモオタになれない、ではなく
キモオタではないのだと言い張っている状態である。
そしてそれは悲しくもただのキモとなっている。

その希釈されたオタクの概念が言葉と共に世間へ流通し
なんていうかニュートラルな・・・・
テレビで流れたからなんとなくアニメを見たとか
それがまあ面白かったとか
ゲームはやったことがあるだとか
好きなゲームがあるだとか
そういう・・・・自分としてはオタクとも思わない爽やかな普通の人
(いや、もう現代は爽やかなオタクがほぼ大半なのかもしれない)
(オタク的、知識欲にずぶずぶの魅力的な人間、憧れや敬意を覚えるようなそんな静かで情熱に浮かされた人・・・・が生活をおざなりにしているという単純な足し引きではないのは今情報のスピード感で時間の節約が上手い人間はより多彩なものを手にすることができる、爽やかな風貌に整える余裕のある、オタク・・・・・)
がかなり実生活(?)にも出現する。

自分は悲しくもどんなに改善したと思っても何やらおたくっぽいようで
(清潔感や髪の乱れや姿勢や話し方や表情など多くに問題がありすべてを解決するのは難しくまだ改善を続ける必要がある)
たまに気を遣われ、先手わたくしオタクなんですよ、という歩み寄りをいただくことがちょこちょこある。

そういう時に何もわからないです、という風を装ってしまうのだ。
こんなにも見てわかる嘘を?となっていることだろう。
それでもやめられない。
身近にそういった友人がいたためしがない
というのは少し言い過ぎだが
二十年以上前に、今と考え方も違い随分めちゃくちゃな陰気陰気陰気陰気憂鬱学生時代くらいのものである。
しかもその頃の友人など今は何をしているのかどこにいるのかさえ知りもしない、自分も相手もきっと顔も名前も思い出せない。
それは無としてカウントせず構わないだろう。

実質、オタクというほど熱弁をふるえるような知識も無い、実態はそのデザイン的意味合いの表面をすべすべ~となでた程度の鑑賞力でただキモいだけなのかもしれない。
昔はまさに私のようなキモい者に対してキモオタって指してただろ
オタクがなんであるか知ったことではない方面から生まれた呼称ではないんだろうか。
それならばキモオタである
オタク的知識量・知識欲への憧れがあるからキモとオタを切り離したくなっているんだろうか。

オタクってなんだ。
スナック感覚、ファストフードのような手軽でそのへんに転がっている言葉としてオタク、を使ってしまっただけで
私のこのあこがれる気持ち(=だから自分はキモなのだもう駄目だ)
を指す何か別の正しい語があるような気がする。

また脱線してしまった。
こうして広い入力スペースで書いていると
いかに文章が崩壊しているかが見て取れて良い。良くはない。
スマホの細長い入力スペースで
次から次へと気持ちの高揚のまま文章を書き続けることがいかに危険かがわかる・・・・
自分の書いたものなど読み返す気が起こりにくい。
誤字がないか読み返すこともあるが、読みたくもないといううんざり感が半分以上心境を圧迫した状態で読んだところで何か間違いに気づくはずがない。

ぐだぐだ書き続けて面倒臭くなってきてしまった。
何が書きたかったのだっけ。
(肉体的にも精神的にも、疲れた、の一言が勝手に出るくらい疲れることは必要で、無駄なことを考える余力を凌ぐ疲れた、が必要と思う)


このクソのようなくだらないどうでもいい無駄なことを考えるに至った理由があるのだけども

文字に書き起こしてやっとばかばかしいと思えてきたので
読書にでも戻ろうと思う。


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