言っておくけどこれを読んだからといってぱやちの先生のこと好きにならないでおくれね。

ぱやちの先生のことを呼ぶとき、僕はやはり「先生」とつけてしまいたくなる。

先生、という括りをつけるとき、その対象のことを何らかの「職業」に就く者として認識しているのだろう。自分とは一線を跨いだ関係にある、そんな空気を醸し出す称号のはずだ。

僕は、感情や突発的・無意識的な行動から自分が何を考えていたかを後出しに探るという手段をとりがちなので、今回も僕の「ぱやちの先生に対する異常な執着」という突発的かつ無意識的な行動から僕という人間を探ってみよう。

ぱやちの先生を知らないという不届き者は、一度Twitterをフォローし、ツイキャスやら日頃のツイートやら、そしてカメラテストの動画、ひいては本人の所持しているYoutubeアカウントをチェックしてみてほしい。古参ぶったことを言うのもなんだが、ぱやちの先生の真髄はちょっとやそっとのぞいてみたくらいではわからないのではないかと思うので、こんなnoteは読まなくても良い。

まず、"ミスiD2020"のファイナリスト同士であるにも拘わらず個人的な場所に名前を出し、身勝手な自分探求とかいうための材料のように扱うということについて、一体どうなんだという問題がある。

非常に問題である。

ぱやちの先生自身もオーディションの参加者として自分を表現しており、ぱやちの先生には「ぱやちの」という存在がある。世には「生物(なまもの)ジャンル」と呼ばれるものがあるように、実在の(しかもご存命な)人物に対して勝手に分析するという行為は一歩でも間違えれば失礼に値するのではなかろうか(ここでは故人・二次元キャラクターならば好き勝手扱っても良いのかという議論は置いておく)、という話である。そして私自身同じファイナリストであり、noteを書くという行為は客観的に”私の戦略・アピール”であると受け取られるであろうし、僕はぱやちの先生の話をすることによって自分を引き立たせたいだけなのではなかろうかという懸念がつきまとう。かといって、授賞式終了後というなんらかの"意味"が付与される後であっても、私の意図とは異なる意味合いが含まれてしまう気がするので、この絶妙な期間の存在に感謝しつつこれを書くこととする。

僕はもう、着ぐるみ同士になることで着地点とできないだろうかと思っている。ぱやちの先生がぱやちの先生として存在するならば、僕にも幸いなことに田村佐和としての田村佐和がいるので、それで対応すればいいことではないかと思っている。無論これは僕が勝手に思っていることで、了承も何もない。ぱやちの先生は優しいので、ということに死ぬほど甘えきった価値判断である。僕は、仮に自分が百合営業まがいのためにぱやちの先生に執着しているのだとしても、可能な限りずっと営業を続けることで許しを得ようと思う。

そして、(書き始めた今は序盤であるが、)絶対にこのnoteを書ききり、ネタを大量消費し、完全に食いつくすことで、その執着の信頼度・信ぴょう性を高めたいという決意をここに表明する。

というかもうぱやちの先生に迷惑をかけるぞと決めた。決めたのである。好き勝手にやることで、僕は他の人にできないぱやちの先生困らせをする、つもりである。

本当にこのnoteはとりとめのないものになる。支離滅裂になる覚悟だ。だが変に整理してもぱや地の先生のことなどうまく伝えられない。許してほしい。

いつも死にたい死にたいと言っているけど、なんでかふつうにんげんたちは「死にたいって言ってる奴って絶対死なないよな」とかいう。でもぱやちの先生がいつか本当に死んじゃうんじゃないかと思って、不安になる。だけれど僕もいつしか、またツイートしているという認識になってしまうのかな。カメラテストの動画で「本当は一ミリも死にたくありません」と言っているのを見て安心したけど、果たしてそれは本心かと思ってもしまう。ぱやちの先生に、死にたくないとか言わせているものはなんなんだろう。先生はよく「自分は偽物のうつ病」ということを言う。これは、精神科にかかるような生死をさまようほど錯乱してしまうような、通院や薬の服薬を迫られているほどではないけれども症状としてはそれに通ずるものを感じている、と言うことだと勝手に思っている。ぱやちの先生が、死にたいなら死にたいって僕の胸の中でだけは言えたらいいのにと思う。僕はそれをひたすら強く抱きしめて、泣き疲れて眠るまで背中に手を添えて、朝には美味しい朝食を作って、お仕事はお休みにして、サンドイッチを詰めたカバンを持ってお外に散歩しに行くんです。なんて夢小説も本心ではあるけれど置いといて。ぱやちの先生は優しいし頭が良くて大人だから、いろんな人のことが見える。見えるから、その中で自分がどの位置にいるのかまでなんとなく見えてしまって、悲劇のヒロインになりきって悲しみ嘆くことすら自分でできなくしてしまっている。他の人と比べようが比べまいが、ぱやちの先生が辛いことには変わりはなく、僕が好きなぱやちの先生が悲しんでいると言う事実が辛い。でも、果たして心の底から死にたいと言えたところでそれは直接的な救いになるわけでもない。ぱやちの先生は死なないかもしれないけど、だけれど本気で死にたがっている。ぱやちの先生が、自分は嘘つきだなんて言わなくなるようにしたくなる。ぱやちの先生が死にたいなら、死にたいって言える世界がツイッターで良かったのかもしれない。リアルではなかなかできないから。

僕の行為は正しいのかな?偽善では?承認欲求では?

でも多分、ぱやちの先生にあって、今からホテルに行きましょう僕と付き合ってください結婚してくださいと言うことが僕にたとえ可能だったとして、ぱや地の先生が求めていることがそうじゃない気がしてしまう(いやもちろんそうである可能性もある、女の人が好きかもしれない、嫌いかもしれない、寝るだけならオッケーかもしれない、それは私の知るところではない)、ただ僕が勝手にそう思っているだけである。

世は男女平等を謳うけれども、そんな中でも専業主婦願望や亭主関白希望はあっても良いと思うし、個々人がどう思うかは個々人(そしてパートナー(パートナーがひとりであるかどうかさえ))の自由であるだろうと言う私の考えを大前提として

ぱやちの先生は、男性に抑圧される女性というパターンへ憧れている、その安心を求めているのではないだろうかと思う(どこかでその話もしていた気がする)。ぱやちの先生の性癖を細かく解釈することは僕にはまだできていない、が、これは僕の勝手な考え方となんども断りを入れるが、性癖と言うものはただ何らかの衝動があって、その向かう方向が異なって突出して初めて目に見えるものだと思う。わかりやすい例だとSMの話だが、ただ何か攻撃的な行為に対する衝動があって、それが「誰かを」攻撃したい、に向くのか、「誰かに」攻撃されたい、とを言う方向くのかが変わるだけで、根本は同じではないかと言う発想である。ぱやちの先生の、男に甘やかされて一生働かなくて良くなったりしたいと言う気持ちと、男をぶん殴って土下座させたい気持ちと、逆に土下座させられたい気持ちとは、どれが本心どれが虚構とかでなく、ぱやちの先生の中にある衝動のいろんな方向に飛び出したもの、なんじゃないかと思っている。だから僕にできることはせいぜい(その欲望を文字通りに一つ一つ叶えることができないならばせめて!)、その衝動が何を叫びたがっているのかを解読しようとすることだと思っている。できるなんて傲慢なことは言えないけれど。

抑圧されたいと言う欲求は私自身とてもわかる(勝手に)。一人でいると何か考えてしまうから、ぶん殴られたり命令されたりして早く楽になりたい。当たり前になってしまうくらい、ずっとずっとぱやちの先生は今まで頑張っているから、さみしいって言うのを憚っているように、見えたり。

ぱやちの先生はみんなを救う、僕のことも救ってくれる、他のひととも同じように。それが受け入れられないことすら受け入れてくれる。本当に、ぱやちの先生にもぱやちの先生を好きな人にも申し訳なくなる。僕なんか大したことのないくだらん人間なので(あんまり田村佐和としては言うべきじゃないことはわかってるんですけどぱやちの先生の前では完全降伏なのでどうしようもないです)、人に優しくしたくても理想の通り優しくできていなかったり不十分だったりの繰り返しで、もっと然るべき人がいるのに、、、と感じてしまう。誰にでも優しくすること、特別を作らないことはぱやちの先生がぱやちの先生でいるための揺るがぬところだ。ぱやちの先生は、愛を証明するのが難しいことだとよくわかっている(そこが大好き)。ツイッター越しにそれを達成するのがいかに難しいかわかっているからこそ、岡山まで飛んできてほしいと口にするのだろう。0が好きっていっていたけれど、0って完璧だからいいよね、って思うのかな。私もわかる、完璧でありたいし完璧なものしか信じられない!って言う何かの強い欲求がある。(だけれど自分はそうなれないし、それになりたくてもがいてる姿ってのが愛おしく見えたり美しく見えたり、と言う気持ちが、僕の中にはあるし、先生の中にもあったりしないかなと予想します)。誰も愛さないこと、みんなを愛すること、一生一人だけを愛すること。

僕にとって、ぱやちの先生は仲村佐和。

誰よりも、綺麗でありたい。セックスセックスセックスセックスクソセックスの恋愛は、誰かとくっついたら次は誰かとくっついたり、囲まれた狭い中で勝手に出会ってくっついただけの相手との人生だったりして、汚くてたまらなくて向こう側を探した仲村さん。なのに自分も、自分こそがそんなモヤモヤやムラムラを奥底に抱えていて、自分が世界で一番汚くて気持ち悪いから、脳みそごと誰かにぐちゃぐちゃにされたくて。変態は、変態であると自分を認識することによってそのテキトーな嘘もの恋愛の輪を断ち切るのだと思う。ぱやちの先生はセックスせっくす言っているし、本能に踊らされて思考停止できるあの瞬間に焦がれている欲望ももちろん本物だと思うのだけれど、やろうと思えばやれちゃうこのご時世やろうとしないのは、ぱやちの先生が綺麗だからだと勝手に思っている。勝手に。それだけが理由とは言えないだろうし、僕が言えるのは見える範囲から推測できるだけのことですけど、理由の一つとして。

人を好きになるとすぐ、上から目線に「この行動にはこんな意味があるに違いない」だとか「この人はこういう人だから」とか、独占したくなったり、分析してしまう。かつてもこんなことを一般の人にしてしまっていたが、本当に良くないことだったと反省している。話していないこと、伝わらないようにしていること、気にしていること、見られたくないこと。見ず知らずの行為もない相手の知的欲求独占欲なんかに四六時中付け回されるのは、恐怖になってしまうということ。(アイドルなり芸能人は、一人間ではあるけれどもその程度が緩くなっていると認識している、もちろんそれも個人によって異なるので一概には言えず、ミスiD含め距離感が近いことなどを嫌がる人にはしてはいけない、職業以前位一人間としての尊厳を優先するべきであろうと考える)

でもぱやちの先生はそれを愛だと受け入れてくれた、嬉しかった、メンヘラを食い物にされる以外でこんな形の愛が報われることあるんだ、と初めて知った。理解してくれることと必ずしもイコールではないと思っているけれど、それはぱやちの先生も同じタイプの人間だからだと思う。先生も同じように嫉妬して心配して気になって誰かをストーキングしているんだ。同じものを持っている。嬉しい。

審査最終日前日、玉座みたいな日に、絵を貰った。

あれにかかっているのは、絵に対する労力だけじゃなくて、それ以上の何かだ。これは、断言する。

ぱやちの先生もはこれからどうなっていくのかな。これからも孤独でいるのかな。正直、ずっと孤独でいて欲しい気持ちといつか愛する人に愛されて幸せになって欲しい気持ちとがごっちゃになっている。ただ一つ言えるのは、誰も、誰もどうか殺さないでということ。僕が願えるのも、願っていいのも、多分それだけだ。

あげるの躊躇っちゃう前にあげちゃいます。大好きですという話です、要は。

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