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春と酒乱

暖かくなって来た。

関東では今年の最高気温が更新されたという。外を歩けば空気の違いが分かる。季節の流れは早い。桜は見る間も無くまた散っていく。地元でも開花が確認されたそうだ。

月が明ければ新しい年度が始まる。新年度。新生活。人はある種の期待と不安で胸を一杯にするのだろう。きっと誰もが一度は通るに違いない。

上京した日のあの感覚は、はっきりと覚えている。

18の春、桜が咲き始めた上野公園を浮かれ足でマイヘアを聴きながら歩いていた。入学書類を提出し終え、新たな大学生活に想いを馳せる。第一志望と一人暮らし。初めましてで溢れた生活。美しい桜。花見で集る酔っ払い。全てが最高だった。晴れて地元を飛び出した俺は浮き足立っていた。


小中高時代はいわゆる出来るキャラであった。勉強は嫌いではなかったし、机に向かった分が目に見える結果に反映されるそのプロセスは、ゲームみたいでむしろ好きな部類だった。そして成績もよかった。勉強で苦労した記憶は殆ど無い。それでいて手の抜き方も心得ており、程々な努力で程々によい成績を得ていた。イケ好かない少年である。

高校生になると小説にハマり、太宰をよく読んでいた。口癖は「10代で死にたい」。そんな勇気はないくせに、やれ学校を辞めるだ人生を辞めるだと豪語して、真剣に将来を考えて受験勉強に勤しむ同級生を嫌悪していた。受験は思考停止だと本気で思っていた。大人達の言う言葉を盲信して突然机に向かい出す姿勢が、当時は理解不能だった。だから、受験先の大学も自由の幅があるという理由で適当に選んだ。斜に構える事が当時の私にとって一番の正解だった。海と山とに挟まれた小さな街の小さな高校で、私は一番個性と中身がある人間だと思っていた。今思えば完全なる思春期の典型で、尖るもクソもないのだが。

何をすべきかが明確だという事は決して不自由なのでは無い、と気が付くのはもう少し後の事だった。


予定通り受験を終えて大学に入ると、薄々分かってはいたが、自分は決して一番なんかに成り得ない事を痛感した。東京の有名ななんとか高校出身の奴、有名ななんとか大学の学部卒でもう一回学部に入り直した奴、海外のなんとか高校出身で英語の方が喋れるんじゃないかって奴。想像すら出来なかった出自の同期を目の当たりにして、初めて自分が何も持っていない事に気が付いた。生来努力などして来なかった私はどうしていいか分からず、先にあるのは思考停止と怠惰だけだった。自分があれ程嫌悪していた思考停止を、晴れて迎える事となった。

海と山との間に挟まれた小さく細長い愛しき故郷は、暗く、窪んだドブ川だったのだ。ドブしか知らないカエルが道路に這い出たところで生きては行けない。車に轢かれて死ぬのが関の山だ。ドブガエルは自らがドブガエルである事にさえ、ドブの中では気付けなかったのだ。

上京し田舎を出た私が見たのは決して、見えないこともない東京の空の星なんかではなかった。そこにあったのは、どこまでも続く暗い闇だ。そこから私の心は転がり落ちていった。

目標など無い。バイトして食って寝てまたバイトして。命を消費するだけの生活。それを生活と呼べるのならの話だが。大学にもとりあえず行くがモチベーションなど無い。唯一世間体だけを気にするクソみたいなプライドだけが残った。そしてこの厄介なプライドのせいで私はまた、完全な腐敗に陥る事も許されなかった。

完全なる思考停止。

もはや何も無い。嫌悪していた存在に成り果て、考えるのを辞める事しか出来ない。今までの自分も、ただの大きな箱だったのだと常々感じる。虚勢と慢心と適当な努力で装飾された一見綺麗な箱だ。もちろん中身は何も入っていないが。中身を守るという箱としての役割すら果たせずに、もはや朽ち果ててしまった。



世の中はワニくんが死んだ事で持ちきりだ。

今年は桜でも見に行こうか。


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