見出し画像

【趣味人噺⑦】~コノウラミハラサデオクベキカ!!~ 学生時代にどうにも許せなかった先生方からのあれやこれやへの怒り5選を浄化させるべく書いてみる、の巻。

 結論から言おう!!・・・・・・こんにちは。
 "怒り"といえば他にパッと思いつくのは怒りの王子ロボライダー、なO次郎です。

仮面ライダーBLACK RX』より。
身体を液体化させつつ高速で移動が可能で、確か作中負け知らずのフォームだったはず。
怒り(水)の王子バイオライダーが水色、そして悲しみ(炎)の王子ロボライダーが黄色ということで、
子どもながらに"怒りと悲しみのイメージカラーが逆なんじゃ?"と思ったけど何か深い理由が?

 今回はいつもの映画やドラマ以外の話の中でも例外中の例外ということで、僕の学生時代の学校生活でのお話です。
 具体的には高校卒業までに体験した「それはないでしょ‼先生?!」と内心憤慨したエピソードをランキング形式でお届けしたいと思います。
 きっかけとしては常日頃の会社の上司との雑談の中で過去に腸が煮えくり返ったエピソードを話した際に「もういい加減許してあげなよ…」とやんわりと"大人になりな"と諭されることが間々あるのでいっそ笑い話にしてしまえば恨みを成仏させられるかなという目論見と、こないだの『ワイドナショー』での昨今の学校絡みのニュースに絡めての松ちゃんの「小学校の時、『なんで先生あんなこと言ったのかな~』ていうの、ず~っと胸に残ってるよね」とのコメントで確かにあれやこれや自分にも有るなと思い出したためです。
 とりたてて陰惨な内容ではないので、学校あるある噺の一例として読んで笑っていただければ之幸いです。ちなみに文中での各人の名前はアルファベット、僕の名前はOで記載いたします。また、私が小学生から高校生(1992~2003)までの間の出来事ですので、時代性も加味して考えていただければと存じます。
 それでは・・・・・・・・・・・・"激怒"!!

第4次スーパーロボット大戦』のみに登場した精神コマンドの「激怒」。
敵のHPは数千から数万なので普通に考えれば何の役にも立たない無用の長物ですが、
聞いたところによるとこのコマンド使うと乱数が変化して通常なら地形効果の高いマスから
動かない終盤の敵ボスが動き出したりするとか・・・マジで?


Ⅰ. 生徒Oの怒りの記憶の数々・・・

・第5位  お怒りがヒステリックブルーなN先生〈小学校2年時の担任女性教諭〉

たしかほんの数年前にも世間を賑わせてたような・・・

 当時40代半ばぐらいの眼鏡を掛けたスラっとした先生でした。
 普段は優しいし冗談も言う方だったのですが、やや神経質なところがあり、不機嫌な時にはさぁ大変。
 授業中にドリルを各自で解いて、出来た人から教室内の先生の机に持参して採点してもらう、という形式の授業の際などに不機嫌だと「アンタ!!こんな問題も解らないの~?! もう、なっっさっっけっっな~~~~っっ!!」と不正解回答について盛大に溜息交じりに糾弾されます。別に僕に限った話ではなく、先生の満足のいくレベルでないと女の子でも容赦無く上記の名ゼリフを浴びせられるので中にはしくしく泣き出す子もいました。
 それに関しては子どもも強かなもので、陰でN先生のモノマネをしたりしてささやかに憂さを晴らしていましたが、許せなかったのはそれとは別の話。
 とある日、来る授業参観日に備えて教室の背面の壁にみんなの自画像を描いて貼り付けよう、ということでその日の最後の授業時間に自画像を描きました。なんとかみんな時間内に描き上げて先生が回収してまとめ、その日は事無きを得ました。
 翌朝、「各自の名前が書かれてないので、自分の自画像の裏に名前を書いて戻してください」との指示があり、みんなの自画像の山の中から自分のものを探したのですが在りません。
 それもそのはずで、なんとFくんが僕の自画像を自分のものとして既に名前を書いていたのです。
 他に入れ違いになっている自画像も無く、またFくんはクラス内でも大柄だったので残っている特徴的な一枚がFくんの自画像だと判断し、僕はそのFくんのものと思しき自画像を持って彼の席に行き、彼の手元を見てみると実際私の自画像でした。
 がしかし、Fくんは「これが自分の自画像だ」と譲りません。揉めているのを見かねたN先生が仲裁に来られ、双方の言い分を聞くやいなや「Fくんが先にこれを自分のだって言ったんでしょ?!じゃあそうでしょ!!」とのこと。
 あまりの先生の剣幕に僕は気圧され、先生とFくんに謝り、残ったFくんのものと思しき自画像に自分の名前を書きました…明らかに輪郭やら何やら描いた覚えのない自画像に。
 まだ幼児に毛が生えたような年齢ですし、自分の描いたものがあやふやになることも無きにしも非ずでしょう。描いた当日の内に児童の誰かが「裏に名前を書きますか?」と気付いて先生に提案出来ればよかったのですが、先生側もその指示を失念されていたがゆえに起こったトラブルに対して些か力づくに過ぎる対応だったのではないかと。
 幼稚園からずっと一緒だったFくんとその後しばらく気まずい雰囲気になったのもショボーンでした、とさ。(´・ω・`)


・第4位 耳無し芳一を量産するI先生〈小学校3年時の担任女性教諭〉

あの先生のことを思い出すと耳が疼くなぁ・・・

 当時30代半ばぐらいの、とにかく曲がったことが大嫌いでスパルタな先生でした。
 ちなみに上記のN先生ほどではないですが彼女もまずまずの気分屋で、同じく授業中にドリルを各自で解いて出来た人から教室内の先生の机に持参して採点してもらう、という形式の授業の際は不正当の場合は黙ってドリル冊子を床に払われたりしました。
 それ以外にも普段から厳しい眼差しで授業を展開し、生徒が悪さをしたり礼儀を失した行動をした際には烈火の如くお怒りでしたが、やはりユーモアに長けているところもあり、遠足の際などには満面の笑みで旦那さんの作った卵サンドを頬張ったりと、朗らかな面も有りました。他学年を担任されていた際にはそのクラスの車椅子の男子生徒を頻繁におんぶして教室移動介助をされたりしていたのも印象的です。ちなみに旦那様は僕が当時所属していたボーイスカウトの隣の団の隊長さんを務められていましたが、反対に常日頃から穏やかな方で驚いたものです。
 話を戻しますと事件はとある朝のHR前の運動場で起きました。僕以外のクラスメイトの男子5,6名がキックベースに興じており、僕は少し離れた石段でそれを見物していました。
 HR時間となる5分ほど前、ようやく攻守交代となりましたが(子どもゆえに守備が上手くないので1アウトでチェンジというローカルルール)、守備側となった男の子の一人が「オレ今日、花の水やり当番だからや~めた~!」といち早く退散。双方の人数が不均衡になるために残りの守備側の男の子も教室へと駆け、そのまま試合はそこでお流れとなりました。
 その一部始終を校内の窓から険しい眼差しで見つめていたI先生の姿を偶然僕は目撃し、その後の嵐の訪れを感じて身震いしました…。
 そして朝のHRでのI先生の断罪が始まります。曰く、「楽しい攻撃側がお終いになったからって試合を投げだして、ようやく攻撃に移れた子たちがどんな悲しい顔になってたかお前らにわかるか?!」とのこと。
 まず初めに"今朝校庭に居た生徒"が全員立たされ、その中から"ずっと守備側だった生徒"が除外されました。そして残った立たされている生徒全員が一時間目の授業時間までも延長されて怒声と耳を摘まみ上げられる叱責コンボを受けたのです・・・・・・"攻撃側でも守備側でもなかった"僕も含めて。
 かといって当時の自分でも"「自分はゲームに参加していませんでした」と訴えても「見て何も注意しなかったんだから同罪だ!!」とさらに怒られるだろうな…"という察しは付いたので、黙って他の立たされている男子と一緒に涙しながら耳を抓られるのにただただ耐えていました。
 終盤のほうでは自分のあまりの惨めなもらい事故ぶりに耐えきれず微かに笑いが込み上げてきてしまい、I先生から追加の制裁をいただいた痛みもまるで昨日のことのようです。(´・ω・`)

・第3位 実はホームシックだったU先生〈小学校5年時の担任男性教諭〉

田舎から都会に越すのであれば慣れますが、逆は確かに辛いよね。
リタイアするぐらいの年齢ならともかく、若いうちなら特に・・・

 当時30代半ばのスラっと背の高い快男児、という感じの先生でした。
 教え方に関しては非常に大局的というか、授業に常にバッファを持たせて出来る子には応用を、苦手な子には付きっ切りでフォローを、という余裕と意欲の両方が感じられ、年齢的にもスポーツ選手でいうところの全盛期という感じでした。
 なによりそれまでの経緯から、八つ当たりすることのない先生だったのが非常に尊敬出来ました。まぁ、ちょっと調子に乗る生徒がいると軽く一喝、という場面はよく有りましたが。
 そのU先生に関しては授業や指導方法というよりもショックだったのがその去り際。そもそもU先生は我々の担任になる前年までは兵庫県神戸市内で教鞭を取られており、ご出身もそちらの方面だったのですが阪神・淡路大震災で罹災し、ご家族ともども同じ兵庫県内の私の住む片田舎へ転勤されてきたのでした。
 5年生の終業式後のHRでのU先生のお話は実に感動的で、「縁も所縁も無い地方に来て正直不安だったけど、他の先生方も良くしてくれたし、何よりお前たちが優しく迎えてくれて本当に助かった…ありがとう。」と語る彼の目元はうっすらと潤んでおり、そろそろマセてきた我々生徒一同の心にもストレートにその言葉が響き、自然と教室内に拍手が起こりました。双方万感の思いの中、U先生は5年生最後の教室を後にされたのです。

"縁も所縁も無い云々"というフレーズでついつい思い出すのがこの方。
ちなみにこの方が議員をなさっていたのも兵庫県。

 そして春休みを挟んでの6年生時の始業式の日。なんと教員一同の中にU先生の姿は有りませんでした。慣習として5年生の担任の先生はそのまま同年次の生徒たちの6年生の担任も持ち上がりで担当することが殆どだったこともあるのでその例外ケースとなったのですが、そもそも同校を去られていたのです。ちなみに6年生時の担任の先生は1年生時と同じ先生でした。 田舎町ですので情報は共有され、近隣の小学校への転任でないこともすぐにわかりました。他の先生に折に触れてU先生の動向を尋ねるも曖昧な返事ばかりで要領を得ず、保護者会の父兄さんから情報が下ってきてようやく事情が分かりました。 次年度から既に三宮方面への帰任が決定しており、"田舎生活がどうにも水に合わないから早く都会に帰りたい"との意向を事前に示されていたそうなのです。 瞬く間にクラス内にその情報は共有されました。誰も口にこそ出しませんでしたが、「先生・・・そりゃ~ね~よ!」という雰囲気になりました、とさ。(´・ω・`)

後日、U先生から我々元5年生宛てに都会に戻ってからの生活ぶりの写真入ハガキが
学校へ届いたのですが、誰も返事は書かなかったようです…。


・第2位 イヤミと公開処刑がお好きなM先生〈中学校時の女性の音楽教諭兼吹奏楽部顧問〉

吹奏楽部といえば、地域の祭りや慰問会用に歌謡曲をブラスバンドの楽譜に
アレンジした曲を演奏できるのも楽しみの一つ。
僕の時代はL'Arc〜en〜Cielの『HONEY』や『DIVE TO BLUE』、
GLAYの『HOWEVER』やSomething ELseの『ラストチャンス』あたりでした。
 

 当時40代半ばの小柄で三つ編みがトレードマークの先生でした。
 僕は当時吹奏楽部員で、僕が入学する2年前までは前任の朗らかで比較的緩い指導の先生だったらしいのですがM先生はなかなかに手厳しい指導で、特にコンクールが近くなると合奏中に生徒のミスへのダメ出しがヒートアップして振り回すタクトを折ることもしばしばでした。その場で大声で怒鳴るだけで気が済まない場合は対象の生徒が練習終了後に呼び出されて静かに滾々とお説教をいただく次第です。相性の良い生徒は普通に相対していましたが、僕はどうも苦手意識が先行していました。
 事件は三年時の夏休み直前に起こりました。確か毎年大きなコンクールが7月末ないし8月頭の日曜日に予定されており、直前の月~土が最終調整の終日練習(通常の夏休み中の部活動は半日練習)、というのが例年の流れになっておりました。
 それに加えて三年時は独自のカリキュラムとして福祉体験があり、三年生の全生徒が日取りを事前申し込みのうえ、夏休み中に一日、福祉作業所を訪問させていただいて交流し、夏休み明けにレポートを提出する、という流れだったと思います。
 例年の部活動の動きに鑑み、また三年生ということで8月は実家から車で一時間ほどの親戚宅に泊まり込んでの夏期短期講習受講を計画していたため、福祉体験は早めにお伺いしようと夏休み初日(当然上記の"直前の月~土"より前です)の希望で学校側に申し出ておりました。当然、福祉作業所側の受け入れのご都合もあるため、希望日取りの締め切りは6月末ぐらいだったと思います。
 で、夏休み直前になってなんとなんと今年は夏休み初日から終日練習が始まるとのM先生からのお達しがありました。今さら福祉体験の日程変更希望など出させていただくわけにはいきませんので、部活終了後に急いでM先生へ事情をお話しして夏休み初日のみ午後からの福祉体験に参加するべく午前中いっぱいで部活練習を抜けさせていただきたい旨お願いし、やはりというか「コンクールが近いのに自覚が足りない!!アンタ頭ボケとったんやろ!?」と大変なお叱りをいただきました。言い訳を申し上げると後が恐ろしいので黙って平身低頭頭を下げていたのを思い出します。
 不可解なのはその後の動静で、夏休み初日、予定通り周囲に恐縮しながら部活動を午前中で早退させてもらい、地域の福祉作業所に向かいました。
 他の部は大会が近いということもなかったので他部の同級生は何人も参加しており、「実は部活途中で抜けてきちゃったんだ」とのヒソヒソやり取りもそこそこに福祉作業所の事務員さんが集合先の会議室へいらっしゃり、その方から全体説明のお話が始まりました。その時です。
 
 福祉作業所事務員さん「~~~という具合に動いていただきます。・・・そういえば参加者の生徒さんの中に部活の大会が近いにも関わらず本日体験にお見えになっている人が居るとか聞きましたが、大丈夫なんでしょうか?・・・続いてですが、~~~」

 聴衆の中に中学生の他にも社会人の体験希望者もまばらにいらっしゃる中、自分が嫌味を言われているということに気付いてヒヤッとしましたが、部活内の私のミスが校外の施設職員の方の耳にまで入っているという事実に肝が冷えました。
 その福祉事務所の職員の方はPTAの役職も務められてはいたのですがそのご子息は吹奏楽部ではなく、なによりそれより以前にその職員の方と僕に直接的な接点は無く過去にその方に失礼を働いた覚えが無かったので出自不明の相当な恐怖体験でした。
 全体説明が終わってから周囲のクラスメイトに「なんかO、目の敵にされてたな……まぁ、ドンマイ!!」と同情してもらったのが唯一の救いでした、とさ。(´・ω・`)

・第1位 従順な生徒には対応に粗が見えるH先生〈高校1年生時の担任男性教諭〉

ちなみにO先生は僕が三年生の時に部活指導中に
結構な怪我をして近隣の病院に数ヶ月入院した際に
看護師さんと親しくなったそうで、
そのままご結婚されたとか・・・めでたしめでたし?

 当時まだ20代半ばの、長身で筋肉質なスポーツマンタイプの数学の先生でした。おそらく教員生活未だ2,3年の方だったと思います。
 僕の進学先は県立高校だったのですが、芸術科目は選択制となっており、一年生の一学期の終わりに「美術」「音楽」「書道」の三つの中から自分の希望を提出し、夏休み明けにそれぞれが希望した芸術科目の授業が始まるシステムでした。
 僕は絵がど下手で習字も墨汚れが嫌で気乗りしなかったため、消去法で「音楽」の希望を提出していました
 そんな夏休みのある日に担任のH先生から自宅に電話がかかってきたのです。内容は以下のような感じでした。

H先生「おう、O!勉強しとるか?! あんな!『書道』の授業が定員割れでこのままじゃ開講できへんのや! オマエ、『音楽』から『書道』に移れや!!」
僕「えっ?!! あのー、ちょっとその・・・いきなり言われても・・・」
H先生「ええやんか!オマエ字も汚いことやし!ためになるやろ! ほんじゃOKな!!(ガチャン・・・プーップーップーッ)」

 文字通り呆気に取られました。一年時に私が属していたクラスは特に男子は結構ヤンチャな性格の生徒が多く、日ごろから従順な態度を示していた(自分でいうのも難ですが)僕なら御しやすいと白羽の矢を立てられたのでしょう。"正直者が馬鹿を見る"ではないですが、彼らのように若いH先生を軽んじるような言動はせずに礼節を持って相対していたつもりだったのにそれを無碍にされて怒り半分呆れ半分でした。
 しかもこの話には後日談があり、夏休み明けの二学期初日、結局「書道」は開講されなかったようで自分が「音楽」に振り分けられていることが分かりました。
 たしか掃除の時間中にH先生に経緯を尋ねに行ったのですが、

僕「あの~H先生、夏休み中にお電話いただいた芸術科目の変更の件なんですが…」
H先生「あ~、あれか。『書道』無くなったんや。見りゃわかるやろ。」

だそうです。
 社会的立場の差はあるとはいえ、人対人の礼儀として何かしらの説明は有ってしかるべきだったんではないでしょうか、とさ。(´・ω・`)



Ⅱ. おしまいに

 という訳で今回は僕の学生時代の学校生活でのお話、高校卒業までに体験した「それはないでしょ‼先生?!」と内心憤慨したエピソードをランキング形式でお届けいたしました。
 どの先生方もきっと赴任当初から先輩の先生方から厳しい指導と押さえつけを受け、家庭でもいろいろと雑事に追われて日々相当のストレスと闘われていたのだと察します。
 しかしながら他人に咬みついてはならず、どうしても咬みつくのであれば力の強い者へ。自分より力の弱い者に当たるのは一番安易で一番卑怯です。
※U先生に関しては些か事情が違いましたが… 
 というわけで批判するだけなら誰にでも出来るので、"明日は我が身"ということで僕自身も同じ穴の狢にならないよう気を付けねばと思います。
 取り止めが無くなってきたので本日はこれにて。
 それでは・・・・・・どうぞよしなに。




※発売日までに絶対PS5手に入らんやろうなぁ・・・。(´・ω・`)
 

 
 
 


もしももしもよろしければサポートをどうぞよしなに。いただいたサポートは日々の映画感想文執筆のための鑑賞費に活用させていただきます。