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【名作迷作ザックザク㉕】最愛の父と自らの操を奪われた少女は憎悪のあまり転生し、黒後家蜘蛛すら凌駕する... 復讐心が高じて粛々と過去を清算する雪之丞変化映画『あばずれ』(1965)

 結論から言おう!!・・・・・・こんにちは。(´・ω・`)
 ふと、15年ほど前に一瞬放映されてた「友だちを大切に。」というソフトバンクの携帯のCMを思い出した、O次郎です。

※当時のなりふり構わん感じが顕れてしまってるというか・・・内部でのチェック時に決定権のある人が踏み止まれなかったのか何なのか。

 
 今回は1965年の邦画『あばずれ』についての感想です。
 CSの日本映画専門チャンネル"蔵出し名画座"枠の今月の放映作品が本作だったのですが、同じく今月放映された『かぐや姫』(1935)同様、原版もプリントも現存しないと思われていたものの短縮版が近年になって発見された幻の映画とのことです。

※ちなみに『かぐや姫』に関する記事はこちら。併せてどうぞ。

 よく"アーティストの作品の第一作にはその人の総てが込められる"と言いますが、本作もまさにそうした剥き出しの初期衝動を感じます。
 今から観ると濡れ場の数は多いもののその内容はというと非常に大人しい印象となってしまったものの、復讐に身を窶す少女の恍惚とそれを完遂した末の空虚さは人の生の珍奇と皮肉に満ちていてなんとも・・・という味わいです。
 松本清張さん的な悪女の世界がお好きな方々、読んでいっていただければ之幸いです。
 それでは・・・・・・・・・・・・・ナオミ・キャンベル!!

 ※ついでに思い出したCM。これは当時は問題になってなかった気がするけど今だといろいろ拡大解釈されそう・・・。


Ⅰ. 作品概要と監督

 冒頭、いきなり思い詰めた初老の男性が電車に飛び込むシーンから始まり、それを刮目する若い女性の目元のアップからタイトルバックへ。それがとある男女による計画的な追い込みだったことが示唆される…。
 そこから時系列を遡って少女:立子の父親:剛造と後妻:文枝との"新婚旅行"からの帰りのぎこちない晩餐(少女も晩酌に付き合っていたのでてっきり成人前後かと思いきやこの時点で17歳設定…)や、バーのホステス上がりの文枝と剛造との馴れ初め、剛造の経営する小さな町工場での文枝と会計役の男:早田との乳繰り合い、文枝の保険金工作とそれを知った立子との決定的な確執…という具合にスムーズながらスリリングに物語が進んでいく。
 まず出色なのが立子の入浴シーンで、彼女を懐柔しようと文枝が入ってくるがその姦計ぶりを喝破した立子に拒絶され、裸の睨み合いが展開される…。ピンク映画としての画造りを行いつつ、一糸纏わぬ堂々たる肢体で迫る文枝に穢れを拒絶するように手拭いで身を庇う立子の対立が実に鮮やかである。
 また、娘を第一に考えるあまり別居を仄めかすものの結局は文枝の色香に抗えない剛造の姿。老いさらばえた枯れ枝のような身体で一生懸命に文枝に組み付こうとするその姿はただただ憐れであり、それをがっぷり四つに搾り取る文枝の媚態は醜悪さすら醸し出す・・・

それはさながら『牝犬』(1951)での京マチ子さん志村喬さんのようで
こちらはスター俳優二人ゆえの華というか気品がありますが、
本作のピンク映画ゆえの場末感、寂寥感はより一層の悲惨さが有るもので。

 モタモタしていられないとばかりに覚悟を決めた文枝は篭絡した早田の怪しい伝手で雇った不良少年に立子を誘拐させ、何も知らない剛造に身代金をこさえさせて早田がその引き渡しの任に当たることになります。
 その際に剛造は早田の二重帳簿に気付いていたことを伝え、"誰でも魔が差すことはある"とやんわりと彼を許している点が余計に彼の人の見る目の無さ、食い物にされる素養を感じさせて暗澹たる思いにさせられます。

少年たちに純潔を汚される前の、立子が立子として生きていられた最期の瞬間…

 ついでの駄賃だとばかりに不良少年たちのリーダーである明に処女を奪われる立子。身代金で全財産を奪われた上に戻ってきた立子の襤褸雑巾のような形を見て全てを悟った剛造が冒頭の自殺へと雪崩れ込むわけですが、その彼の死すらも保険金という形でブラック・ウィドウたる文枝の私腹を肥やさせる展開になっていることが悪趣味ここに極まれり、というところです。自殺なのに保険金が出ているところが気にはなりますがまぁそこを突っ込むのは野暮というところで。
 その後、絶望して復讐を決意した立子は娼婦となって文枝への意趣返しのための資金を溜めつつ機会を探りますが、このシークエンスは"一か月後""一年後"というようなテロップで非常にアッサリと流されます。もちろん、予算や尺の都合という背景は有ったでしょうが、おそらくはこれこそは本作がモチーフとしてる『雪之丞変化』の気質であり、"人が変質するのに時間など要しない"という渡辺監督なりのリアリズムないし人生観ではないでしょうか。
 そうして彼女の"変化"の契機の一つとなった明と、売人と客という関係で再会しますが、力関係が完全に逆転しているのが面白いところです。

不良少年だった明は彼女の純潔を奪ったことをそれまでの何よりも重い罪と感じ、
それがゆえに彼女にどうしようもなく惹かれてしまったのですが、対する彼女は歯牙にもかけず。
それはさながら元婚約者の山口智子さんを吉田栄作さんに奪われたことで転落しながらも
最期に山口さんへの純愛を取り戻したヤッくんのように…。 cf:『もう誰も愛さない

 偶然に再開した明から真相を聞かされたことで俄然文枝への復讐心を確かにした立子ですが、暴力団や殺人まで厭わない立子の企みへの協力にしり込みする明に対し、「アイツらが生きているうちは、アタシが死んでいるようなもんなの…」というセリフは有無を言わせずパンチが効いています。

そして遂には文枝を前にして自らも銃を取る・・・!
全ての罪を他人に擦り付けるサイコパスではなくあくまで当事者として復讐に与する覚悟は、
"お前だけは強く生きてくれ"という父の遺言を忠実に実行しているようにも見えます。
もちろん、亡き父の望むそれとは正反対のベクトルですが。

 ラストは仇敵の男女である早田と文枝を轢殺し、証拠隠滅というよりは自分の過去全てを抹消するように今ではすっかり手下となった明もその手にかけます

"過去を清算する"といえば世代的に真っ先に思い出すのは思春期に観ていたコレ。
最終回後に果たして彼女はどうなってたのか。 cf:『無限のリヴァイアス

 自分の過去を知る者を全て始末した立子でしたが、ひとり波打ち際へ去っていきます。
 再び現れた彼女に怯えて許しを請う文枝に対して「いまさら生娘に戻れるわけじゃなし…」と撥ね付けたのがなんとも象徴的ですが、"復讐"という暴力装置に訴えた時点で彼女自身も自分を男手一つで育ててくれた愛する父を陥れた文枝一同と同じ穴の狢です。
 "お前だけは強く生きてくれ"という父の遺言を最も皮肉な曲解した形で実行し、たとえ身を穢されても憎悪や怒りに身を委ねず気高く生きる道を選び得なかった彼女にとり、"立子"としての自分も清算するのが必定だったということでしょうか。

完全に主従関係が逆転・・・それにしても別に正体隠してるわけでもなしに、
夜中にサングラス掛けてるのがちょっと狙いすぎなわけで…。

 
 さて、監督の渡辺護さんです。

 文中にも記述が有りますが、"濡れ場さえ盛り込めばあとは自由に作れる"というピンク映画のアドバンテージを見出したその最初期の監督としてその功績は評価されるべきでしょう。
 若松孝二監督の初期作品がソフトや配信で観られ、井筒和幸監督の一般映画が観られる現在の状況は、間違いなく渡辺監督の功績の延長線上に有るものと思います。

井筒監督といえばアゴモノマネも思い出しちゃうんやけど…。
ガキ帝国 悪たれ戦争』ぜひとも解禁して欲しいなぁ。



Ⅱ. おまとめ

 というわけで今回は1965年公開のレア映画『あばずれ』について書きました。
 この時期のモノクロ映画となると、今では大スターとして知られる俳優さんの初期作品あるいはチョイ役で出てる映画として知った顔を探したりしますが、こうしたピンク映画ではなかなかそうしたこともなく、それがゆえにストーリーそのものに集中でき、また登場俳優さんたちの朴訥さゆえに現実の延長線上感も強く、そのシビアさがまた良かったりするかなと思います。
 この枠の発掘作品はどれもハズレが無いので、また来月以降も同じCSの日本映画専門チャンネル"蔵出し名画座"枠の作品について書いてみる所存です。CS契約中の方はおススメぜよ!!
 今回はこのへんにて。
 それでは・・・・・・どうぞよしなに。



来月のラインナップは増村保造監督の『ぐれん隊純情派』だそうで。
・・・本郷功次郎さん、若っ!!!(´∀`)


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