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持論の証明か正しさの証明か
南米に1年間居住したり、お寺で瞑想修行したり、今はタイに半居住しているひろみです。
かなり前から続いている僕の密かな趣味として、「自分の考えを的確に正確に把握しようとする」というものがある。
趣味と言えばカッコ良くなるが、正確に言えば趣味ではなくそういう癖だ。
客観的に見れば気持ち悪い癖だなと思われそうだが、自分の考えを正確に認識しようとする努力は決して無駄なものではないなと思っている。
だが、これが案外難しいのだ。
持論の証明か正しさの証明か
古代ギリシアの哲学者タレスは「人生で一番難しいことは何か?」と弟子に聞かれた時に「自分自身を知ることだよ。」と答えたらしい。
僕がお寺で学んだ瞑想は自分を知るための作業であり、なぜそれをするのかというと自分を知ることが最も難しいからだ。
僕も前述した癖を毎日行なっているわけだが、「これが僕が思っていることなんじゃないか?」と思った5秒後には「いや、実はこれかもしれない」と思っている。
なぜこのようなことが起こるかというと、僕の考えでは認知的不協和というものが大きく関係しているからだと思う。
認知的不協和
何やら難しいが、僕は自分が正しいと信じたい事実と実際の事実が違う時に、そのギャップを埋め合わせようとすることと理解している。
よく例として使われるのがタバコだ。
喫煙者はタバコは体に悪いと知っていながらもタバコを吸い続ける。
彼らはその矛盾を埋め合わせるために「タバコを吸うとストレスが解消される」と考えて、その矛盾を埋め合わせようとしている。
この認知的不協和が気付かぬうちに、自分の考えを変化させていることが多々ある。
例えば、以前の記事で書いた家族のことはそうだ。
僕は本心では家族と仲良くしたいと思っていた。
だが、たくさん喧嘩したし、酷いことも言った、連絡もとっていない。
そうすると、素直にまた家族と話すということを僕のプライドが許さない。
つまり、家族と仲良くしたいのに、家族と仲良くするための行動を起こしていないという矛盾が生まれる。
その矛盾を埋めるために、「自分は家族と仲良くしたくない」「家族は僕にとって悪者だ」と真実ではない考え方に変わってしまう。
他にも良くあるのが、「自分が正しいことを証明したいのか。それともお互いにとってより良い話をしたいのか」だ。
家族との喧嘩、恋人との喧嘩、友達との喧嘩、ディスカッションの場などなど、どこでもいい。
喧嘩というと少しわかりづらいが、どれもお互いにとってより良くなる話をするための時間であるはずだ。
だが、感情が強くなるとその目的をわすれてしまう。
これも、一種の認知的不協和だ。
仲良くすることが目的なのに、そうではなく感情の解消を優先したいというギャップを埋めるために、後付けで喧嘩の意味を変える。
ディスカッションでもこれはよく見られる。
最近だと、元2ch創設者のひろゆきが色んな人を論破するが、あの時も僕の目から見るも何が正しいというよりも、持論の正しさを証明することに重きを置かれている気がする。
認知的不協和が生じることが悪いことではない。
だがそれに囚われてしまうと、自分の考えが見えなくなり、本当にやるべきことができなくなってしまう。
「自分が正しい」ではなく「何が正しい」を語る姿勢を忘れないでいたいものだ。
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