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裂帛

 あの一瞬と踊る。 

 湖、水面の膜を水鳥の羽根が切り裂く。腐乱したそれがただただ青くて、水底からト短調が泡となり芽吹き、その腐乱が死を意味することを知る。届いた別れの手紙の封を、別れの手紙なのだとしても、鋏の刃を綺麗に拭って真っ直ぐ切る。僕たちは何もできない。分かりきった悲しみはすぐに身体への伝達を行い、爪先の脆さにて始まりを示す。ふとした瞬間右耳がこの世界から離れ、代替の電子音を刺す。右側から話しかけないで。もうすぐ帰ってくるので、それまで聞こえないから。水鳥、目から流れる涙を切り裂いてくれ。風に吹かれた前髪の束が角膜を傷つけ、違う意味を持った涙が流れた。身体への伝達は、同時に精神への伝達を意味し、嫌な緊張感や不安感が、こころを外縁から変形させていく。元は丸であった(丸であって欲しい)こころがへこんで、そこにあった中身が隣へ移動し、それの外縁は突出する。僕のこころは、今どんな形を。あの手紙はやはり別れの手紙であり、綺麗な鋏で綺麗に切る必要はなかったわけで、でもその一手間が身体や精神への伝達をほんの数十秒遅らせる唯一の手段だったのかもしれないと、それなら仕方がないと、思う。血液に満ちた憎き子どもたちが改札前で一列に並び、大きなボードを持って献血を呼びかける。血を分けてあげてください。両脇や数歩後ろに立つ、血液に満ちた憎き大人たちは喜びを露わにする。誇らしい。これは、誰のため?奇を衒う。僕の身体を流れる赤の通り道が渋滞することなど例に無く、改札機とカードが触れる電子音が身体の膜を揺らす度、通り道も他人よりは大きな、しかしわずかな振動を覚える。憎き子どものひとつの膝小僧に大きな絆創膏が貼ってあって、怪我したばかりなのだろうか、血液が絆創膏の表面に映る。充分な者が、不充分な者に成り変わることはできない。それが虚像だとしても、成り変わるフリすらできない。してはいけない。憎き子どものこの一瞬が、数年後彼らの片鱗となる時、その時彼らの血液が不充分だったとしても、その片鱗はとても貴重で、幸運なことだったと思うだろう。風が吹いて、でも昨晩前髪を切ったから、また僕の角膜を傷つけるなんてことはなかった。でも確かなこころの変形を感じ、改札機とカードが触れる電子音が身体の内側に響き渡り、右耳はまたこの世界を離れた。涙が流れると、水は肌を覆うファンデーションを少しだけ削り取り、そのささいな凸凹を色彩にて際立たせる。夕方のグレーが綺麗だ。ビルの改装工事の金属が金属を叩く音がやってくる。そのひどく精密で一定な音は人間が生み出しているものだ。ト短調が聴こえる。僕のこころは、今どんな形を。

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