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フィクションと青春実録の織り合い

 母親に、もし離婚するってことになったらどうする?と聞かれ、お母さんについて行くよ、と言った。わたしに与えられた0.5秒の間に、沸々と湧き上がる複雑な感情から1番近い場所にあるものを掬い上げ、放り投げて目を逸らした。それの行方は見届けていないけれど、恐らく母親のひとつの錘(カルトン上の文鎮や、本の栞などの重り、印。または、布団に形取られた人間のいた形跡、沈没)となり、残り粕が地面に落ちて僅かな隙間に溶けて行くのだろう。50m続くでこぼこの地面は男性の喉仏を彷彿とさせた。昨日出た好きなバンドの新譜が最悪だったことを思い出して、3歩目の地面を強く、強く踏みつけた。

 日々の憂鬱はきっと、ドーナツを齧った後の唾液が付着したパン生地の表面とか、電車の手すりのベタつきから始まるもので、それはきっと、地学が自習になったとか、バンドマンからサインを貰えたとか、そういったもので終わる。そうしてまたきっと、ヘアカラー剤が床に落ちたとか、ライブの整番が悪いとかですぐに再開して、きっと、やっぱりバンドの新譜が良いとか、ドーナツを食べたとかで終わる。日々の憂鬱を語る音楽や書物は溢れるほどあるけれど、それらが日々の憂鬱を助長したり又は終わらせることはなく、ただの残骸として、男子中学生のゴミ箱みたいに本屋の隅に並ぶ。それらを創造したバンドマンや小説家や、インフルエンサーやゴーストライターの憂鬱は、セックスがしたいだとか、セックスに飽きただとか、自分はもっと上にいるべきだとか、あいつを少しだけ殺してやりたいだとか、所詮そういったもので、頭を下げて繋いだ手の温もりをジーンズで拭うことが日々なのだ。それらを羅列して、文字に起こしたり声に出してみたり(その声が歌声なのか喘ぎ声なのかは別として)、そのジーンズを脱いだり履いたりして生きて、生きて、生きて、あいつらは死にたいだとか簡単に思うだろうけどちゃんと生きて、生き続けて、ドーナツの唾液が付着した部分を女に与えて、飛び降り少女の散らばった肉片をレンズに捉えて、また声に出して、たまに30cm高いステージや他人の背中に乗ってみたりする。その間にふと思いついた何番煎じかわからないフレーズと意味のない韻をメモアプリに書き留めて、何故か悲しい気持ちで目を閉じる。バンドマンでもゴーストライターでもないわたしは、そう予想する。眼球から水分が奪われてコンタクトレンズと眼球の表面が一体化する頃に、あざとく賢い太陽が何も知らない顔をして昇る。眼科医でも天文学者でもないわたしは、そう予想する。

 今日は酷い晴天で、街ゆく老人は変わらず長袖を着て、若い女達は下品なキャミソールを着ている。その間を半袖シャツの中年男性がすり抜ける様に少し安心したが、額の汗を拭ったハンカチに添えられた彼の手が酷い深爪に見えて、気分が悪くなった。気持ち前を歩く母親に、もし離婚するってことになったらどうする?と何十回目かの質問をされて、お母さんの好きにしたらいいよ、と言った後急いで顔を上げて、お母さんについていくけどね、と付け加えた。母親の茶色いショートカットが縮れていて、首元の小さな黒子を突き刺しそうで涙が出た。今すぐ抱きしめてもらいたくて少し距離を縮めた。風が強くて、母親のうなじの匂いが少し漂ってきて、死にたいと思った。

 いつか見た映画の主人公がすごく不細工なのに赤いマニキュアを爪に塗っていたことを思い出して、足の爪を赤く塗った。自分を不細工だと思ったとかいうわけではなくて、ただ赤く塗った。昼間の眩しい青を思い出して、体内のあらゆる管を赤が走る音に集中した。乾かしている間ふと左手首の内側を見ると赤色が付着していて、血液かマニキュアかを確かめようと触ると少しへこんでいた。右手の人差し指の爪でえぐったら赤色が溢れてきて、マニキュアで良かったと思った。何日も帰ってきていない父親の部屋に行って、もし離婚するってことになったらどうする?と問いかけたら、暗闇から、好きにしていいよ、と返ってきた。村上龍の「インザ・ミソスープ」を読んで、売春婦のだらしない肉体を想像してから、服を脱いで自分の肉体を目視して、脈打つたびに大袈裟なウェーブを描く皮膚の暴動が大きくなる様を捉えた。くねくねと動き回るミミズのような生物が体内を走り回る感覚がして、遮るように下腹部をカッターナイフで綺麗に切った。子宮のあたりから落ちてきたぬめりのある、やはりミミズのような生物がS字に揺れて、体液と地面が叩き合う下品な音が拡大した。まだ乾き切っていない足のネイルが歪んでいることに気づいて、ミミズのような生物の表面の艶に映し出された、事象の粒を眺めた。喉仏、黒子、ドーナツ、バンドマン、眼科医、深爪、マニキュア、売春婦、わたし。母親は離婚しないと思う。当分は猛暑が続くと思う。もうすぐ生理が来ると思う。わたしではないわたしは、そう予想する。わたしであるわたしも、そう予想する。

(カルトンがひっくり返った時、またはその上の紙幣が飛んで行った時、錘は意味を成さなかったと言える)

(喉仏の羅列を踏んで歩く際に溢れ出る細々とした水たちは、唾液か、胃液か、涙か)

(それは、誰の涙?)

(ミミズは本当に存在したのか)

(ミミズの体液がわたしの分泌液だとしたら)

(布団に形取られた緩やかなウェーブを含む円形があのミミズのような生物なのだとしたら)

(体内からピチャピチャと下品な音が聞こえる)

(太陽がいつもよりも赤くて、体内の管を駆け走る血液が下腹部へと向かうのを感じた)

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