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I hope I die before I die.

 死にたいやらの類と離れることは不可能である。昨日梅田のビルから飛び降りた地下アイドルは、死にたいだなんて思っていないのだ。死ぬと思ったのだ。死にたいと思えている時点で生きるのだ。生きてしまうのだ。もし殺してくれと渋谷の中央で叫んだとして、殺してやりましょうかとかいうおかしな人間が本当に現れたとしても、できるだけ痛くしないでなんてばかげたことを口にするのだ。痛みを通れない人間は必ず生きるのだ。食べものがなくなって身体に限界が来たとしたら、どんなに汚くてもこの水を飲むしかないと便器の水さえ飲むのだ、どうせ。

 今日も日が昇って、西に向かう半円の軌道を少しずつなぞる。少し早く朝を迎えた東の空の下で、朝から元気に人が死んだ。家賃二万五千円築二十年アパートの二〇三号室で、小鳥のさえずりと日の光に見守られながら、反対に言えばそれらにしか見守られずに、死んだ。
 そんなことは何も知らずに一〇三号室の男子大学生は、空き缶とビニール袋だらけの部屋で同サークル男女数人の下敷きになって死んだように眠っていた。かけっぱなしのプレイリストが二十三曲目に切り替わって、最近よく聞くコードとフレーズの邦ロックが壁の薄いアパート全体を包んで気分の悪いモーニングコールと化した。二〇四号室の老人は今から十六時間ほど後に眠るように死ぬ。三〇二号室のバンドマンはまだ眠っていた。 
午前七時三十分、向かいの団地で毎朝行われているラジオ体操のぼんやりとした音楽がアパートに訪れた。もう二日半寝ていない二〇三号室の漫画家は、三時間後に担当者が取りにくる、多分これがラストチャンスであろう原稿をやっと描き終えて、うぁー、という鈍い唸りと同時に床に寝転がった。もう随分と体制を変えていなかったせいであぐらをかいた足の感覚はもうなくなっていて、薄い桃色の座分屯に惨めな尻の形がくっきりとついていた。気が抜けたと共に強烈な空腹と喉の渇きに襲われ、かろうじて残っていた力を振り絞って立ち上がり冷蔵庫からコーラ缶を取り出した。風呂上がりでもなんでもないけれど(なんならもう何日も身体を洗っていないけれど)片手を腰に当てて豪快に身体に送り込む。久しぶりに良い気分になって、変なインディーズバンドの新譜を流してみたりする。適当に合わせて鼻歌を歌いながらテレビのリモコンを探そうとかかとに重心をかけて方向転換をしようとした瞬間、思いの外滑らかであった畳の網目が悪ふざけをして、漫画家はコーラ缶を持ちながら情けない吐息を漏らして体勢を崩した。重心が彼方此方彷徨って、シミがついた木のローテーブルにコーラ缶から茶色が大袈裟に飛び出した。茶色は、そのままさっき描き終えた原稿の上へ。漫画家は無心で自身が着ていた白いよれたTシャツで原稿用紙を擦った。表面の茶色が布に移り変わって、それと同時に深層までたどり着いた茶色たちは侵食を進めていく。黒髪ボブの主人公の小さな唇の輪郭と鼻先が混じって見えなくなった。モノクロの一枚がどんどん色付いていく様子を見た漫画家は手を止めて、まだ缶に残っていた三分の二ほどのコーラを、大きなシミがついた原稿に垂直方向からかけた。炭酸のBGMと、たまにTシャツに飛び散る問題児たちにも何も思わず、というか目の前の光景に疑問も悔しさも何も抱かず、ただただコーラを溢し続けた。最後の一滴まで丁寧に垂らした後、コーラ缶を水洗いして台所の端に置いて、シンクに放り投げたままの包丁を右手にとって、お辞儀をするような体制でまな板の上に自身の頭を置いた。団地のラジオ体操は終わったみたいで、さっきかけたインディーズバンドの別の曲がよく聞こえるようになっていた。その隙間で下の階からヒップホップのかったるいビートが、薄い床を伝って届いてくる。音楽とビートのリズムが合っていないことにストレスを受けながらも、水臭い木の匂いを嗅ぎながら右手を上の方へ掲げた。ずっとペンを握っていたせいでうまくぴたりと止まれない肩がジンジン痛んで、包丁の重さを実感した。目を閉じて意識を集中させて、刃の向きを定めて、自身の首へ真っ直ぐ下ろした。トン、と良い音が一回聞こえて、漫画家はシンクの中へ転がり落ちていった。包丁が床に落ちる音が聞こえて、何故か足のあたりが痛んだ。先ほどのトンという音が反復して聞こえてきて、シンクは音がよく反響するんだなとかいう新たな学びを得て、今どこで何をしているかもわからないお母さんのことを思い出した。お母さんの味噌汁の匂いがした。お母さんの味噌汁はいつも具材が何も入っていなかったけれど、いつも変わらず美味しかった。水が流れる音がして、蛇口を閉めるのを忘れていたかなとか思って、やっぱりお母さんの味噌汁を思って、そうしたらお母さんの味噌汁の味がしてきて、最後は自分が描いた漫画のことを思った。五ページ目の三コマ目の背景のビルを後回しにしたまま描き忘れていたことを思い出して、すごく腹が立って、お母さんの味噌汁をひっくり返して、台所でトントンと何もないまな板の上で包丁を扱うお母さんを思い切り刺した。台所からはいつものお母さんの味噌汁の匂いがして、すごく嬉しくなって後ろから抱きしめた。ちゃんと思い出したら、家の便器の水は何故かずっと空っぽだった。

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