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ご感想によせて:講師の高橋秀典先生から


講座へ感想をお寄せくださいというレスポンスに、以下のように書いていただき、涙が出るほど嬉しかったです。このような確信を持っていただけたこと自体が、小さな労苦への報いだと心より感謝しました。

                                   (大津 注:ご感想は、今からでもお寄せいただけます)

「この学びを通して、いちばん大きなことは、罪人に過ぎない自分の弱さを確認しながらも、それでも主の前に自己肯定感を持っても良いのだと、意識を転ずることが出来たことです。それがイエス様の視点であると実感させていただき、本当に感謝しかありません・・・・『罪を認めて悔い改める』導きが、間違えて自己否定感を持たせてしまうようなことにならないように、この視点を自分自身が正しく捉えることはとても大切だと、あらためて思わされています。」

それで調子に乗って一言書かせていただきます。

これは拙著「現代人の悩みに効く詩篇」での詩篇139篇の解説です。僕は自分の神経症的な傾向を受け入れるのに苦労していました。組織をまとめて奉仕の動機を与えることが本当に不得手で、こんな自分が牧師やっていて良いのかと悩んでいました。そのような自己不全感への反省から生まれたのが以下の記事です。

「役立たず……と思えるとき……」の慰め

「主(ヤハウェ)よ。あなたは・・私の思い(意図)を遠くからでも読み取り、
歩むのも休むのにも、生き方すべてに通じておられます・・・
それはあなたが、私の奥深い部分を造り、
母の胎のうちで組み立てられたからです。
私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました。」
詩篇139篇抄訳

フェイスブックで多くの友人たちが被災地での支援活動にいち早く向かっているのを見ながら、「僕も何かがしたい……」と焦っていました。すると横で妻が、「あなたが行っても、かえって迷惑になるわよ。あなたは、そんなタイプじゃないから……」と言ってくれました。
同じような葛藤を味わっておられたかたも多いのではないでしょうか。そして、このようなときにそれぞれの気質の違いが明らかになります。

「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」
私たちは、自分のことを分かっているようで肝心なことが分かっていません。ところがこの詩篇では、「主(ヤハウェ)」と呼ばれる神は「私」以上に、私の行動やことばを分かっておられるということを「あなたこそ、私の座るのも立つのも知っておられ、私の思い(意図)を遠くからでも読み取り、歩むのも休むのにも、生き方すべてに通じておられます。ことばがこの舌にのぼる先から、主(ヤハウェ)よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」と告白されます(2─4節)。私の創造主は、私がいつ、どうして活動するのか、休んでいるのか、すべてに精通しておられ、私が何を話そうとするのかさえもご存じだというのです。そこでは、自分が知られていることは「恐れ」ではなく、「安心感」の源とされています。
そればかりか、「私の人生は真っ暗だ。今まさに、人生の真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、自分の創造主であるかたに向かって、「あなたには、闇も暗くなる…光のようです」(12節)と告白しながら、慰めを受けることができるというのです。
その関連で、「あなたが、私の奥深い部分を造り」(13節)と言われますが、「奥深い部分」とは原文で「腎臓」と記されます。それはいけにえの動物を屠(ほふ)るとき、最後に出てくる最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。つまり、神は、真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られたかたなので、どんなときでも、私たちの人生のすべてを理解しておられるというのです。
当時は、「心」が心臓にあるように、「感情」の座は、腎臓にあると理解されていました。それで、ここは、「神は、私たちが自分でコントロールをできないような感情さえ造られたかただから、何も隠す必要はない……」という趣旨に解釈できます。

そして続く14節は「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」と訳すことができますが、これは感動に満ちた自己認識です。ある人は自分の生涯を振り返って、自分の醜さにあぜんとしましたが、このみことばに接したときに、自分をそのままで受け入れることができたと言っていました。
人はしばしば、本来の自分を否定し、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがありますが、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます。
そして、私たちは自分のあるがままの姿をそれまでと違った目で見られたとき、「みわざがどれほど不思議かを、このたましいはよく知っています」(14節)と心から感謝できます。
レーナ・マリアさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇139篇の英語訳(NIV)をそのまま歌にし、神に向かって、「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」と繰り返し、まごころから歌っています。
私はそれを聞きながら不思議な感動に包まれ、身体が震えました。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。
実際、彼女には生まれながら、その障害を補って余りあるほどの好奇心や冒険心が与えられ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として豊かに用いられています。
私たちは、障害や欠点と、美しい賜物(たまもの)を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたものとして神の作品なのです。弱さの陰には、それを補う強さが隠されています。

「気質の三分類」
  ただし、多くの場合、肉体よりも心の不自由さが問題になります。これは見え難いと共に、矯正が可能だと思われるからこそ問題が複雑になります。しかし、昔から、気質は生まれつきのもので、それは人間の最も奥深い部分の腎臓によって決まると考えられてきました。
たとえば、イエスは特に三人の弟子をご自身の働きのために豊かに用いられましたが、その気質の基本を次のように分類することもできましょう。
第一は分裂気質(内面が分かりにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼はほかの弟子の人物描写は驚くほど見事ですが、自分のことは、「イエスが愛しておられた者」と呼ぶばかりで、ほとんど語ろうとしません。このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人をよく観察する目があることで交わりを保つことができます。
第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いのいいことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。そこでは、爽快(そうかい)と悲哀が共存しています。しかし感情の起伏が激しくても、自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友によって支えられます。
第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前は迫害に熱心で、回心後は使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。沈着冷静なようでいて、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります。そこでは、冷静さと激情が共存しています。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。
つまり、それぞれの気質に、神はそれを補う絶妙なバランスをお与えになっているのです。私は自分が好きではありませんでしたが、パウロに似ているかもしれないと思えたとき、うれしくなりました。また、分かりにくい感じの人もヨハネに似ていると思えると尊敬できるようになり、お調子者のような人もペテロに似ていると思うと、それが愛嬌(あいきょう)に見えてきました。

「意外に分かっていない自分の性格」
これとは別に、ユングの分析をもとにすると、私の場合は、「内向」よりも「外向」の傾向が強いので周りの人々の動きに刺激されやすく、「感情」よりも「思考」が優位なので行動が遅く、「直感」よりも「知覚」によって動くので何事も慎重を期すことを第一にすると思われました。
しかし、その後、この分析を発展させたMyers-Briggs Type Indicator (MBTI)の性格テストを受けてみると、私は自分が思っていたのとはかなり違う性格であることが分かりました。しかもそれは、時とともに変わってきたとも思えます。
とにかく、最新の分析では、人は、外交派か内向派、知覚型か直感型、理論派か感情派、審判型か見守り派の四つの視点から分類でき、この組み合わせによって2×2×2×2の16の性格に分類することが可能です。
それによると私は内向、直観、感情、審判型ということになるようで、その性格特徴は、「忍耐強く、独自性があり、自分に求められていることや、望まれていることに応えるために意欲をもって、最善を尽くそうとする。控えめながら、押しが強く、実直で、他者を気遣う。強い信念にもとづいて、世の中に貢献するための明確な視野をもつことにより、信望を得ることがある」などと解説されることがあり、ふさわしい仕事として、「カウンセラー」などと記されていました。
私は71の英語の質問項目に応えながら、自分が間違ったのかと思いましたが、この結果を見ながら自分を見直すと、自分の大震災以降の行動パターンの理由が見えてきました。つまり、自分の性格は、自分で分かっているようで、わかっていないことが多いのです。
そればかりか、このように見られたいという傾向も自分の性格判断に強く表れます。そして、自分にとっての理想の性格パターンで自分を測り、評価し始めてしまうと、自分自身を受け入れることが難しくなります。
ただし、これは「私はこのようにしか生きられない……」という居直りを許すものではありません。ときと状況によって、私たちはみな自分の枠を破って行動すべきときがあるからです。

私はかつて、「あなたは罪の自覚が足りないから、神の赦(ゆる)しも分からない……」などという勧めを聞きながら、神に向かって大胆に生きる前に、いのちの力を自分で抑圧してきたように思います。
しかし、健全な罪意識は、「私は神の最高傑作として創造されている!」と自覚する中から生まれるものではないでしょうか。なぜなら、罪とは、その人の欠点を指すものではなく、その人が神を愛し、隣人を愛する生き方を目指しているかを問うものだからです。
自分の存在を感謝できるなら、「私は自分の気質や性格を生かして、もっと、神と人とに仕える生き方をしなければならない」と示されるはずです。
そのとき人は、自分を「役立たず!」などと責めることなく、与えられたすべての賜物を積極的に生かし、世界と人に向かって愛をもってかかわっていくことができるのではないでしょうか。(文章:高橋秀典 牧師)

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