独りよがりな褒め言葉

こんばんはー!
また少し時期が空いてしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
気がつけば新年度が始まっておりました。地獄の年度末がまだ終わっていない割とボロついた中お届けします。
今日はリサイタルだのコンサートだのに行った話ではなく、ちょっと思いついたので、務川さんのピアノが好きすぎる少し頭おかしいファンがお届けする誰が得をするのか全く不明な、褒めちぎり大会を始めたいと思います。
さぁ!読む勇気のある方どうぞ!!(やめろ)

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まぁ冗談はさておき、ファンの皆様にとってはまさに4/9は春の祭典ではないだろうか。
㊗️務川慧悟さん30歳のお誕生日ーーー!!!🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊🎊
どんどんぱふぱふーーーー!!🥁🥁🥁🥁🥁🥁

節目ですね。はい。ハイテンションな大人不気味と思った方正解です。
というわけで、本人もさぞかし感慨深いだろうと思ってはいたが、なにやら落ち込んでおられたご様子。今は復活したらしいかの御仁。
いやもう復活されてるわけですし、必要はないし、
一応当日に絵とか書いてみたりなんだりしたりして、必要ないってわかってる…でも思い立ったが吉日(使い方が違う)という言葉もあるし、せっかくの節目のお祝いとりあえず褒めちぎってみようとなったわけである。
過保護上等!!!!(なんの話?)

さて、30歳。実を言えば私にとって30歳になった年は個人的にはそこそこいろいろあったし、今にして思えばあの年をきっかけにしていろんなものが変化したと言ってもいいかもしれない。
まず、30歳になった年、彼氏にフラれた。
まぁ漫画の出だしとかにありそうなやつですね。
そこそこほんとどうしようもないフラれ方をしたわけだが、以前こちらにも書いたことがあったが、20代最後の2・3年は絶望の淵にいて、フラれたことが辛かったなんてことは残念ながらなかった。むしろ少し楽になったと言える。
全てにおいて何の感情もなかった。そういえば付き合ってたなくらいの朧げの感覚で、むしろフラれたときですら、あぁそうかもう気を遣わなくて済むのか。くらいの気持ちだった。まぁ残念ながらそこから長かったんだけど。
でもお陰で、何の感情もなく、ただただ毎日仕事だけをし、ただただ楽しみも悲しみもなく無為に消化していた日々に少なからずヒビが入ったわけだ。
ほんのわずかに入ったヒビは次第に大きくなっていく。気がついてしまえばそのままでいられなくなるのが人間というもの。
その一つが映画を見に行ったことだった。
これは別記事で少しだけ触れたことがある。
そこから、友人と話をしたし、転職もした。
ほんの少しだけ人としても感情が戻り始めていた頃、それでも今まで好きで大事にしていたはずのものを相変わらず取り戻せない期間を1年ほど過ごす。
少しずつ少しずつヒビは大きくなる。
そのヒビを今までより少し広げてくれたのは反田恭平氏なわけだが、好きで仕方がなかった音楽をちゃんと好きだと思い出した。
そのあとすぐに出会った務川慧悟という存在。
もう何回言葉にしただろうか。何回だって思う。色褪せはしない。
ヒビだっただけのものを全て吐き飛ばしてしまったのはこの人で、あれほどぼやけていた世界は、別のものなんじゃないかとすら思った。
今でも鮮明に覚えている。
浜離宮朝日ホールを出て、電車で帰る道すがら、この街はこんなに人が大勢いただろうかと思った。
そこそこ東京の中心部に住んでいる。当然人が多いのは認識としてはあるけれど、こんなにみんな顔が違っただろうかとすら思ってしまった。
あれほどの衝撃を私は30年も生きてきたのに知らなかった。
あぁ、私は人だったのかと思い出した。人のたくさんいる世界で人として生きているのかと耳に刺したイヤホンから流れる音楽を聴きながら、人それぞれみな自分の人生を生きているんだということを実感することができたのだ。

誰かと関わって生きること、それ自体子供の頃から得意ではなかった。
それでも、誰かと関わって生きていくしかない。でもどうにもうまくいかない。気がつけば周りの目に私は映っていなかった。
そうしているうちに私の目にも人は映らなくなった。その代わりに見えるようになったものは、周りの目に映らなくなった自分自身の変わり果てた姿だった。学生の頃の話だ。それから逃げるように普通の人間になんとか紛れようと足掻き続けた。
足掻けば足掻くほど沈んでいく。
沈んだ先に待ち受けているのは、人の枠から外れたあまりにも不安定な世界だ。
けれど、人であることそれ自体を諦めていたとき、手を差し伸べてくれた人がいた。
だからたとえ自分が人でなくても、人の中で生きようと決めた。
でも、社会に出て、普通の人たちに紛れて、普通から逸脱しないように神経を尖らせていくうちに、また沈んでいってしまった。気がつけば、誰も彼も同じものに見えて、自分もきっとそうなんだと、だったらもう自分でなくても同じではないかと、手を差し伸べてもらった恩も忘れて、ただ沈んでいくことに慣れていった。
そんな自分が、たった2時間のリサイタルに身を置いただけだ。
コンサートホールの入口も出口も同じはずなのに、リサイタルの間に別の世界に飛ばされてしまったのかと思うほどの変わりようで、そのあとの私の行動の変化は数少ない友人たちを驚かせる結果になった。
さて、自分のことはさておくとして、これが多分務川慧悟その人の最大の魅力ではないかと思う。
ことリサイタルにおけるかの方の空間全てを別のどこかに連れてってしまうかのような音楽の作り方。
コンサートホールを本来とは別の世界そのものに作り変えてしまうかのようにさえ感じてしまう。
聴覚はおろか視覚感覚さえ変えてしまうほどの全方位に張り巡らされた音作り。
コンサートそのものが芸術であるかのような陶酔感。
初めて演奏を聴いたのは2020年。そこから数年しか経っていないが、この空間作りの発展・進化のスピードは恐ろしいものだと思う。
そしてこれが録音になっても変わらないってんだから困ったものだ…

そう。ある種の1つの到達点に辿り着いたと言ってもいいのではないだろうか。
こちらですね。

はーい。務川慧悟ファンの皆さーーん。こちら必修科目ですよー!!履修しないと卒業できませんから気をつけてくださーい。(何の話だよ)

周知の事実であろうと思うが、ラヴェルといえば、のこのお方である。
一度聴いてしまえば、もう後戻りはできない。
完成されたという表現では的確ではないが、他の演奏を聴いてもなんか違うコレジャナイ感に陥ることは必須だ。
とはいっても毎回毎回同じではないその人のラヴェル。1人でも多くこういうジャンキーみたいな人。増えてほしいですね(おい)

さて。2020年9月11日それが1番最初にソロリサイタルを聴いた日であった。それからは聴く機会に恵まれなかったが、まだコロナ禍真っ只中で、とかく配信が充実していたし、ほんとね。YouTubeって便利です。コンクールの映像やリサイタルの映像なんかを公式があげていたりする。おかげで困ることはなかったけれど、世界的に演奏会は軒並み中止においやられ、はて、次聴けるのはいつだろうと思っていたそんなとき、急遽代役が決まった。
2020年12月。
note書くきっかけにもなった公演。
今にして思えばあれはもはや序章だったとしか言いようがない。
曲はプロコフィエフのピアノ協奏曲2番。
ここに記事を書く時に度々登場させているし、耳にタコかもしれないが、あのときの圧倒的にその場を支配するその様はまさに王たる風格があったと言っていいだろう。
その直前のイベントで彼はプロコフィエフのソナタ2番を弾いていた。
この曲でプロコフィエフの魅力に気づいてしまったというか当てられてしまったと言ってもいい。
そんな中聞いてみてとオススメされて聴き始めたピアノ協奏曲をタイムリーに演奏するなんて神の思し召しではないかと思ってしまうほどに、光の速さでチケットを取り、軽やかな足取りで会場に赴いた。
そこであれほどの圧倒的な演奏を見せつけられて跪かずにいられるだろうか。
曲そのものが野心に満ち、ヒリヒリとする感覚に身を焦がすような気分になる曲だが、そこから時折顔を出す、悲しみや叫び、怒りにも似ているし、切なさにも似ているなんとも言えない感情。
それを表現してみせるピアニストの凄みに息をするのも忘れた。
おそらく相当体力を使う曲だろう1曲を、超絶技巧はさることながら、あれほど音という音に隠れた感情を炙り出すのだから、神経もそれこそ相当摩耗するはずだ。
聴いているこちらですら、体力がいるのだ。
それをあの細い体で音に乗せることのどれほど負荷のかかることか。
全身全霊という言葉が似合うピアニストは数多存在するかもしれないが、1音1音を蔑ろにすることなく、荒々しさの中に細やかに散りばめられる丁寧さの恐ろしさに身震いすら感じる異彩を放つピアニストはそう多くないと思う。
何が言いたいかと言えば、この音を持ってしてみるみるうちに引きずり込み、従わせてしまう支配力。
特に人の業を思わせるような、どこか背筋をひやりとさせるような曲を弾かせた時のこの御仁の力は圧倒的だろう。
曲の世界観にあっという間に引き摺り込み、引き摺り込んだ勢いでそのまま振り回されて、ありとあらゆる感情は目の前で繰り広げられる演奏に釘付けになり、決して離してはもらえない。
今作っている音楽を決して壊してはいけない。そういうある種の強制力までおまけ付き。
そうすることで出来上がる音楽の素晴らしさを知ってしまった我々はきっとどう足掻いても手放すことなどできないだろう。
この時点でほぼ完成していたように思っていたこの御仁の能力が、ここで留まるわけもなく、さらに輪をかけてある種コンサートホール内すべての空間を手中に収め、異空間であるとともに、空間そのものを芸術にしてしまったのが2022年12月の東京4日間のリサイタル(関西を含めると5日間)だろう。
最終日。私は2階席にいた。それにも関わらずまるで目の前で演奏されているような感覚、めくるめく展開される数多の名曲たち。あの日奏された「夜のガスパール」はきっとどうやっても忘れられないだろう。
フランス音楽のイメージの強いお方だが、プロコフィエフよろしくロシア音楽も大変素晴らしい。
とかく近代ロシアの曲たちは技巧と狂気が入り混じるなんとも癖のある音楽が多いが、同時に密かに浮かび上がる切なさや艶めかしさ、ロマンティックな響きの表現。その魅力に取り憑かせるには充分な演奏だろう。

はいということでもう聴くしかないですよね?

いやもうほんとね…参ってしまいますよ…
ロシア音楽に取り憑かれ始めたのはこの方のおかげに他ならないわけです。
はーいここテストに出ますよー。
しっかり聴いておいてくださいねー(だから誰なんだお前)

初めの1年でずいぶん書いてしまった…
まぁ褒めちぎるために書いてるんですからまぁご愛嬌ということで。(やめろ)
さて、そんな演奏もさることながら、常に思考される頭の中もまたとてつもない情報量を有しているようだ。私がnoteを書くきっかけになったのもこの御仁だったわけだが、本人がnoteを書いている。
いかんせん私は口で語るよりも文字の方が数倍うるさい人間で、Twitterなんかで書いてしまうとまぁツリー一体いくつ作るんだ貴様状態で、これは困ったと思っていたら目の前になんとなんと尊敬してやまないピアニストがnoteを書いているではないか!
読まないわけにはいかない。
さてそしてその中を読んで驚愕する。
もとから聡明さなど見ればわかるのは当然のことだが、その文章力にもあっけに取られる。
1番震えたのはやはりこちらだろう。

残念ながら有料記事なので、読みたい方はぜひ!!ご購入を!!!!絶対!!損は一切なし!!
あれです。課題図書です。
読書感想文をみなさん書きましょう!!(うるせえ)

失礼。簡単にいうと、三島由紀夫とショパンについて書かれた文章なのだが、なるほどと思うと同時にどうにも務川慧悟その人を重ねて説明してしまえるのではないかというある種の恐怖も見せてくれる。
なにより、最後に演奏がついてくるのだが………
これを聴いて泣かずにおれるものではない。
心を締め付けるとはこういうことを言うのか、霞のような美しさとかこういうことかと、同時に人の持つ情念とはこういうものかと突きつけられた演奏の一つと言えるだろう。
ショパン。
クラシック音楽ファン特にピアノ好きならば知らないものは当然いない、日本でも愛される、なんだったらクラシックをあまり知らない人ですら好きかもしれない作曲家。
最近で言えば、反田恭平氏がショパンコンクール2位を獲得したことでかなり盛り上がったのは周知だろう。
だが、確かに反田恭平氏のショパンは素晴らしい。ピアノは素晴らしいが、それとはまったく別のベクトルで務川慧悟のショパンは圧倒的異彩を放つ。
聴いたことのある者ならば、彼がショパンを弾くなら聞かずにはおれぬだろう。
幻になってしまうのではないかと思うくらい儚く、ときに人の情念の強さを浮き彫りにし、まるで魂を削って音を出すかのようにしかしどこまでも丁寧に積み重なる音の1音1音がどこまでも我々の心に傷のように刻まれる。頼むからそのまま音と一緒に消えていかないでくれと思ってしまうような、しかし、ショパンその人が人間であったように、あたたかさやくすりと冗談でも言っていそうなそんなところまでが音で導かれていく。
本当にどうやっても目を離させてくれないお方である。しんどい……(※褒め言葉)

※どうやら学校で録音したらしいです。

そして、このお方の怖いところは次何かのリサイタルなりコンサートなりへ出向いた時、決して同じ務川慧悟には出会えないということだ。
あぁ!そうそうこれこれ!って思うところもあるけれど、そうそうこれこれ!……これ????があるのが恐ろしい(伝われ)
しかしながら、これこそが務川慧悟だと言う瞬間は常に存在する。音色のバリエーションはとかくありすぎるほとあるわけで、上記してきたことがらが、本当に目で見てとれるほどに丁寧に作られていることにある。
威圧的な音であったり、感情的な音であったり、灰色の音であったり、目で見て取れる情報の中に必ず、こんな音を出していながらこんなにも丁寧に指を運びコントロールする様が見える。
ぞっとする音もふわっと消えていきそうな音もすべてが大切に作られている。
クラシック音楽において、私はまだまだまだ入り口の入り口にいて、追いつくはずもないが、本当に膨大で、広大な情報を全て揃えてようやく真実の見えるところがあって、私なんかはきっと一生を終えるまで小指の爪ほどしか理解し、吸収することができないだろうと思っている。
しかし、おそらく演奏する側はそんな甘えたことを言っていられるわけもなく、誰も彼も必死に勉強し、研鑽しているのだろう。
そんな中で我々が恋い慕うこのピアニストのもつ音の端から膨大な学びの跡と研鑽の厳しさを嫌と言うほど思い知らされるのだ。
丁寧と言う言葉は、口にするほど容易いものではない。私はとってもズボラで雑な人間であるし、どれほど、頑張っても、それこそこのお方の小指の爪ほども丁寧にはならないだろう。
それをこうやって目の前で出し切ってもらえる幸福を知らないファンはいないはず。

ある話を読んだ時、天才とは完璧とは真逆に位置する存在だと述べていた。
才能の世界に生きる者たちは、みな等しくどこで終わるともわからない完成を夢見て進み続ける。
たとえ、どれほど苦しくとも人に疎まれようとも走らずにはいられないのだろう。
これも何かの物語からの抜粋だが、私たちのような人間が大切にするであろう何かを蔑ろにしたとしても進み続けるそういう者たち。
それは本当に凄いことで、私は数多いる普通になることを選んだ。何者にもならないであろう1人。
何者にもならなくても、モザイクアートみたいに何かしら形になることもある。
不格好に出来上がっても毎日進み続けることはできるわけで、でもやっぱり何者かになろうとする者たちに憧れずにはいられないのも事実。
憧れて、うらやましくて、そう思っている限りにおいて、おそらく1つの研ぎ澄まされた者になることは絶対にないのだろう。
だから、それを選び進み続けられる、進もうと思うことこそ賞賛されるべきことで、才能の世界に生きる者たちはそれだけですごいのだ。
とはいえ、評価というものはどこにいようとも、普通の世界にいようともついてくるものだ。
ハマれば天国外れれば地獄。
残酷なほどにそれはいつだって存在する。
それは事実。
でも、ハマった人が少数であってもその少数の誰かにとっては命を救われるに等しい体験になるかもしれない。
少なくとも私にとってはそうで、あれがなければ今ももしかしたらいつのまにかヒビを修復してまた何も感じずにただ生きる人であって人ではないものだったかもしれない。
まぁそんなことどうでもいい話。

正直褒めちぎりたいところはたくさんあるけれど、全部書いてたらそれこそシリーズものの本でも出せそうになってしまうので、ここらでお開きにしようか。
ていうか真面目に書いてて恥ずかしくなってきたのでしまいにします…はい…(照)

ということで、春の祭典結びの言葉とさせていただこう。
さて30歳になったかの御仁はいったいこれから何者になるのだろうか?

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まぁほらね。
我ながら気持ち悪いな………(おい)
せっかく書き始めたんで、ちゃんと書こうっておもったんですけどね、今まで書いてきたnoteの総集編みたいになってしまいましたね。
まぁ好きすぎるんだと思うんですけど、他書こうとするとどうやってもほんとより気持ち悪い方向に転びそうなんで、総集編くらいでちょうどいいのかなって………(何を言っている)

ともかく、最後までお読みいただきありがとうございました!大変胸焼けされたことと思いますので、ちゃんと胃薬とかお飲みいただき、ご安静になさってください(?)
30代になってやっと人として生きてるみたいなところがあるんで、個人的には本当全部一からやり直してるみたいなところあるんですけど、あのお方はたぶん今まで積み上げたものを土台にして、さらにもう意味わからんくらいすごいものになるんだろうなぁと思っています。
だから、お互いしわしわのおじいちゃんおばあちゃんになったときに、まだ、ステージと客席でお会いしていたらそれはとっても幸せですね。

ではそういうことでお誕生日おめでとうございました!務川慧悟さん☺︎