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エッセイ
今日は1人で新幹線に乗って用事のために出かけている。
用事は明日の午前中だから、私は前日に出発して、ホテルに泊まり、朝早くに用事のほうに行く予定。
すなわち今日はオフだから、私は気ままな気持ちのはず。
それなのに、なぜか、駅で新幹線を待ってるときや、大きな駅で乗り換えをするときに、とてつもない不安が、胸に現れてくる。
特に憂鬱なことなどないのに。
なんでだろう。
思い出してみると、私は、良く、こんな気持ちになってしまう。
幼稚園の頃、幼稚園で。
小学校の頃、小学校で。
中学、高校、大学、、。
あらゆる、お出かけの時。
あらゆる集合時間に早めに着いた時。
あらゆる移動の時に。
私はここにいていいのか?
邪魔じゃないだろうか?
責められるのではないか?
なにか取り返しのつかないことがもう直ぐ起こりそうだ、、
周りのみんなは、とても楽しそうだし、忙しそうだし、心を開いて話す相手が居るらしい。
1人きりの人も、きっと、家には暖かい家族が居て、帰りを待っている。そんなふうに感じる。
それなのに、私だけは、この宇宙で、冷たく、ひとりぼっちで、まるで、違う世界から間違えてここにきてしまったように感じる。
心が引きちぎれそうにヒリヒリと痛くてたまらない。
私にだって、家には、母と猫のモフモーフさんがいるのに。
友達もできた。大切にすると誓った。
沢山の素晴らしい思い出も持ってる。
それなのに、私はなんで、1人で歩いていたり、自転車に乗っていたり、駅とか、街とかにいると、、、「居る」と、、こんなに、辛い気持ちになるのだろう。
なにかをしてるのなら少し辛さは紛れる気がする。
ただ「居る」ということが、辛くてならない。
泣き出したいような気持ちだ。
しかもその気持ちは隠さなければならない。
なぜかそういうことになっている。
私は、なんてことない顔をしている。
いつも、へっちゃらの顔をして、人の迷惑にならないように邪魔にならないように歩く。
誰かを不快にさせないように、微笑みを浮かべてさえいる。
なんで私はこんな風なんだろう。
みんなもやはりそうなんでしょうか?
だれも話さないだけで、私のような人は沢山いるのだろうか?
亡くなってしまった姉は、私と同じだったんじゃないかと想像する。
だって、安全な安心を体験せずに一緒に育ったのだから。
姉が、本当は怖いのに、へっちゃらな顔をして、1人で大荷物を持って、販売のアルバイトに行っていたことを思い出すと、泣きそうになる。
そんなに大荷物をもって、電車を乗り継いで、痩せすぎの体を引きずって、いくらにもならないバイトをしていた。
ボロボロになった心を抱えて。
そう思うと、不謹慎に思えるかもしれないが、姉が統合失調症になってくれてよかったとすら思う。
家で、いじめられたり、「親友」に五万円を送ったりしなくて良いから。
統合失調症になったとき姉は話せなくなった。5年ほど言葉を発さなかった。
私はこの時、どうしても姉の言葉を聞きたかったけど聞くことができないから勝手に姉の日記を見てしまった。
「親友」に五万円を送ったことを知った。
しかも「親友」は「一円も入ってなかったからもう一度送って」と言ったと書いてある。
姉は、「ショック、、ちゃんといれたはずなのに、、どこかに落としたのかな」などと書いている。
そしてもう一度送ったようだ。
姉は、封筒にお金を入れておくってはいけないことを知らなかったのだろう。
現金書留で送れば、このような「親友」の嘘は通らない。
嘘に決まってると思う。
とにかく、1人きりになって、ただ座ったりしていると、
醜くて恐ろしい世間の記憶が、立ち現れて、とめどなく私を苦しめる。
私は、手を止めるとダメだ。
辛くて耐えられない。
ずっと土を耕したり、ペンで文字を書いたり、陽気な話をしていたい。
姉は星に帰った。
光の溢れる庭で、寂しい思いも、辛い思いもせず、ゆったりのんびり、幸せに満たされていますように。
そう思ってる。
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