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貧しく多国籍で猥雑な。

なにか文章を書こうというとき、その前に踏まなければならない「段取り」がある。まずは酒かなにかでテンションを一度ブッぱなしておかないといけない。てなわけで昨晩、友人に付き合ってもらったのだが…三茶でテキーラあおってから、自宅のコタツで目覚めるまでの記憶が、すっかりない。つけてた時計は失くしたし、なぜかポケットから6000円でてきた。友人にはほんと悪いが、どうやらちゃんとトベたらしい。そしてトバした後はじっくり着地していく。二日酔いのまま散髪にいき、コーヒーを啜ってしばらくぼーっとしたら、ラーメン食って銭湯にいく、というのが隠しコマンドだ。こうすると身体と頭の中身がすっかり入れ替わる感じがして気分がいい。そうしてお気に入りのプレイリストをまわしておけば、だんだんトランスがキマってきて、ゾーンに入ってくる…まぁ、だからって、いい文章が書けるわけではないのだけど。。ここまでしてようやく、文章を書く気になる。というかたぶん、これまで文章が書きたい気分になるときがこういう場面だってのを経験的に学習していて、それを再現しようとしてるんだろうな。

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そういえば左利きのエレンで「集中力の質」という話が出てくる。私はたぶん「普通・長め・遅め」だ。なんか家系ラーメンの注文みたいだが。この「遅め」が難点で、とくに物書きとなると、書き始めるまでに踏まなきゃいけないコマンドがあまりにも多い。かつ、どれもあまりに不健康だ。つくづくそういうクリエイティブな仕事がデイリーワークじゃなくて良かったと思う。

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さてと、なにを書くかということでありますが。まあベタに今年の振り返りと来年の抱負をば?と思っていたが、やっぱりもっとフェチぃ話がしたいよなと思えてきた。だからマジメな振り返りとかは別の機会にでも。

それこそ昨年末は、周りからそこそこ反響もらえるくらいの文章を出したわけでありますが。これまた酒が呼び水になって、当時めちゃくちゃに溜まっていた「怒り」のようなパワーが卑屈にねじれて爆発したんだろうな。若さ・青臭さが匂いたつ、独特なクセのある味わいだ・・・

今年はそんな大作書くつもりはなくて、ただ昨年末の内容を引き継ぎつつ、これから具体的になにがしたいのか、性癖チックに語っていこうと思う。よく周りからも聞かれるのでちょくちょく話していることだが、まだ書きまとめたことはなかったので。

だいたいよう、酒の席でもそうだが、経験やら実績やら”過去”の話で盛り上がんのはつまんねえヤツだよな。今と未来の話で仲良くなれる方がいいじゃん?だから振り返りじゃなくて、これからのことを書くわけよ。ってMOROHAも言ってたような気がする。


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暮らしには〔システム〕と〔ブランド〕の二面性がある

昨年末のNOTEでは、カネなくてホームレス生活してたこと、少年時代の「ハコ」の話、そこから解放された生活の夢、みたいなことを書いた。ある意味、暮らしの〔システム〕面の話(=ライフスタイル)だった。それと対になる形で、暮らしには〔ブランド〕面というのがある。ようは表象というか雰囲気というか。たとえば、家電はP社とかの国内メーカー大手なんかより無印良品やバルミューダで買う、インスタやピンタレストでこういう部屋にしたいってのをイメージしてから、それに合うものを揃えていく、なーんてひとなら、分かると思う。機能性や「暮らし"かた"」のようなものとは別に、どんな風景のなかに暮らすか、という暮らしの〔ブランド〕の嗜好性というものが存在する。

昨年末は図らずも「暮らしのシステム」について原体験ふくめ語っていたので、本年末は「暮らしのブランド」について、目指すところを書いていきたい。これら両方があって初めて「夏井の令和VISION」などと息巻いていた話も実現に向かっていくように思われる。


貧しく多国籍で猥雑なネオン街「サイバーパンクシティ」のディストピア的な世界観

表象の話なので、文字でだらだら書くよりいくつかのイメージを出した方が、話が早いだろう。通信環境によっては表示できるまで時間かかっちゃうかも、通信制限勢にはスマンな(笑)

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上記の画像の通り、ブレードランナー、アキラ、エヴァ、パーフェクトブルー、攻殻機動隊、鉄コン筋クリート、カウボーイビバップ、アップルシード・・・辺りにでてくる世界観がある。それは「サイバーパンク」などと呼ばれる。

行き過ぎた資本主義社会、高度に発展した都市文明、圧倒的な所得格差、慢性的な不景気、多国籍な街ゆく人々、高い犯罪率、猥雑なネオン街、やかましい広告・・・輝かしいスカイスクレイパーを場末のスラム街から治安悪く眺め上げ、悪態をつきながらもそれぞれの小さな幸せやこだわりを抱えて、人間臭く逞しく生きるハードボイルドで個性的な人々・・・そんな「ディストピア」的な風景だ。

どう、フェチぃでしょ?(圧)
まあ「こういう系かぁ」って分かってくれればOK。別にこれは私独自の性癖とかではないし、いつぞやの誰かさんの「床と壁と屋根をなくす」とかより、ずっと理解しやすいように思う。こーいうの好きなひと、フツーにたくさんいるっしょ。

ちなみにこういう風景に流れる音楽としては、LOーFIヒップホップ、ディープテクノ、激情系ハードコアなんかが相性いいと思ってる。なんなんやろね、こういうのって言語化できないけど絶対コレ、みたいなんがあるんよね。

私が目指したい暮らしの〔ブランド〕すなわち「どのような景色のなかで暮らすか」は、この「サイバーパンクシティ」のそれと一致する。この世界観のなかで、昨年末に書いたように、家という「ハコ」から解放され生活のインフラとして街を普段づかいしていくアーバンホームレスなライフスタイルを実装したい。

しかし、だ。例えばアーバンホームレスなライフスタイルをそのまま布教しても誰もついてきてくれないだろう。だから今はまずシェアハウスをまわしながら、住人には程よく街と関わりをもっていってもらい、少しずつこの街で自分にとってのキッチンやリビングやお風呂や冷蔵庫みたいな場所を見つけていってもらい、暮らしのインフラの外部化を促す実験をしている。
それと同様に、このサイバーパンクシティもまた一気にそのまま実装しても拒否反応が大きく、また土壌が育たぬままに大輪の花だけ移植してもすぐ枯れてしまうように、嘘くさいハリボテになってしまう。だからこの街に合ったやり方で少しずつ風景に「サイバーパンク」をインストールしていかねばならないし、そもそもこの街が「サイバーパンク」という表象を咲かすに適する土壌である必要がある。


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そもそもなぜ「サイバーパンク」なのか?それは「この街が私をして言わせしめる」のである。

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なにも私はこの街に押し付けるつもりで「サイバーパンクシティ」を掲げるわけではない。むしろこの街が私をして言わせしめるのである、我が街の独自の価値を最大化させよ、と。
そうやってエリアブランディングとしての「サイバーパンクシティ」構想に至るまでには、なかなか大変な「お勉強」(フィールドマーケティング)が必要だった。丹念に歴史・文化から統計資料まで調べあげ、現在の生活者を考現学的に見つめ(ときには朝早く街をまわってゴミ袋を漁ってみたりして)、実際に店に通い人々と話を交わすなかで、ようやく「この街は、私だ。」とでも言わんばかりに街に憑依し(あるいは単に自意識が拡張されw)、右脳と左脳を何度も反復横跳びして、やっとの思いでひねりだしている。まだまだ素人なのでお恥ずかしい限りなのだが、それでも今はこのエリアブランディングに一定の納得感をもっている。

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https://shoku-academia.jp/lab2/より)

昨年末のアーバンホームレスなライフスタイルの提案が、ただの自意識の暴走による押し付けがましいVISIONだとするならば、今回の「サイバーパンクシティ構想」はこのエリアとともに在ることを通じて己の役割意識として獲得したMISSIONであるとさえ思う。

ゆえに、これは私の性癖のように語られるが、鶏と卵みたいなもので、私がサイバーパンクな世界観が好きだからこの街に惹かれてきたのか、あるいはこの街を憑依させるなかでそういう嗜好性がインストールされたのか、答えは「どちらも」ということになるだろう。

私が目指す暮らしの〔ブランド〕として掲げる「サイバーパンク」という暗号鍵は、純粋な個人的趣向ではなく、この街独特の「匂い」のようなものを可視化したものなのである。

あとなんか千葉市がMETACITYとやろうとしてることと重ねられることもあるだけど、たぶん中身は全然ちがうな。ニューロマンサーの舞台なのは羨ましいけど。


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どうやって「サイバーパンクシティ」を実装してくのか、その特徴とはなにか:公共空間における政治性、DIYスピリッツと刹那性

サイバーパンクという言葉は、そもそも「コンピュータあるいは自動制御の用語であるサイバー(cyber)[→サイバネティクス]と、非行少年や青二才をあらわ す俗語由来のパンク(punk)の合成語」であり、「技術的に増強された(technologically- enhanced)文化的諸体系において周縁化した人々」によるレジスタンスの物語である。要するにマージナライズされた社会的弱者が集うゲットーのようなものなのかもしれない。

これを都市空間に実装していくうえでは、従来の都市計画のように5年スコープとかで設計したマスタープランを実行していく、というやり方は合わない。もっとアジャイルに、いやカッコつけずに言うともっと場当たり的に、ローリングストーンでやっていく方が適している。戦略に対する”戦術”という意味での「タクティカルアーバニズム」こそが活動の合言葉となろう。

むろん昨年末の投稿にも書いた通り「それっぽい取り組み」のキラキラ感に憑りつかれて脳死でマルシェだのストリートピアノだのに飛びつくのではなく、ちゃんとSITEーSPECIFICであることが重要である。逆にいえば既存の「それっぽい取り組み」からはかけ離れた企画でも、エリアブランディングのアクションとしては正解になることだってある。・・・うーん、偉そうなこと言ってるけど、全部ブーメランでグサグサくるなあ・・・(泣)

まあ要するに、行政でも企業でもないハンパな事業体として、ゲリラ的にボトムアップに仕掛けていきながら、着眼大局・着手小局でステイクホルダー間をのらりくらり立ち回りつつ、ちゃっかり自分のシマはきちんと耕してる…そういう存在に、私はなりたい。

まだまだSITE-SPECIFICさに欠ける取り組みが多いし、不動産開発力も、そもそものエリアマーケティング力も全然足りてないけれど、それでもこの街で暮らしながら、これからもタクティカルに仕掛けていきたい(そしてどこか「自分のシマ」と思えるような風でいたい)と思っている。


言わずもがな勉強は続けている。自分の浅薄さは自分が一番わかっている。そしてここまで無知だとあらゆることが学びになるので毎日が面白い。

例えばエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの「ヘゲモニーと社会主義」だったっけか。違いを巡り交渉するというポリティックスが排除され、政治的なるもののない、摩擦のない空間になりやすい都市に、intangible quality:触知不可能性を帯びた質的なものを、息づかせるということを考えたりする。

アーレントは、空間が公共性を帯びるためには、そのスペースへのアクセシビリティが高いという物理的条件だけでは足らず、人間の活動が必要と述べる。「物理的な、世界としての特質を持つ ”あいだ” とは別の “あいだ” 、つまりは行いと言葉からなる “あいだ” が重なって、(公共空間は)生長する」として、なにやら触知不可能な何者か(”あいだ”)が重要である、という。たとえばゲオルク・ジンメルは空間を「境界」であると定義したけれど、これも「”あいだ”(独語Zwischen)」というわけだ。あいだとしての空間は特定の両者およびその活動のあいだにあって空虚であれば、彼らを隔てるものとなり、相互作用に充たされていれば彼らを繋ぐものになる。このように空間を自然な所与のものとしてでなく、物質性や可視性を超えた抽象的かつ具体的なものとして捉える認識を前提に、触知不可能な何者か(”あいだ”)を考えたい。

ポール・ヴィリリオが「開かれた空間に締め出される」と言ったのははグローバリゼーションに対してであるが、これは公共空間と私的領域に対しても適用できる。前者は「現れの空間」であり、後者は「隠されの空間」とも表現されるが、アーレントやジンメルっぽく言うならば、両者の境界が失われることつまり資本主義的な商品交換が目的的である領域(「社会」)に包摂されてしまうことこそが恐るべき事象だ。あくまで境界や差異がなくなり全体として資本主義ロジックに飲み込まれることであって、交換や消費といった営みと富の蓄積が優先され、その行為へと諸個人を誘い、やがてそれが慣行化してきて、みなが馴致してしまう。実は公共空間が私的領域に食われてるわけではなくて、公私どちらの空間にも変容がみられることがわかる。

要するに私的空間が「(資本主義的な)社会」へと包摂されると、それは親密で温かみのある保護的な空間(隠されの空間)という特質を失いはじめ、休息の場でなく、資産としての所有物へと変容し、そして資産化されていない空間としての公共空間は、資産化した私的空間の膨張にあわせて併合されていく。
ひととひとを関わらせ、互いに見られ聞かれる現実性を維持する運動の不断な現働性を超えて存続されることのない公共空間(現れの空間)は、本来なら私的領域と相補的で共存するべきものだが、この資本主義ロジックの拡大が公共空間への配慮より優先されるようになると、そのとき公共空間は見放され無人化するのではなく、侵され、併合され、崩壊していく。これをあくまで私的領域と公共空間の双方の質的変容ととらえていく視点だ。

もしもそうやって経済的自由が際限なく拡張されることで、公共空間を構成する政治的行為の行使の余地が奪われていくなら、行き過ぎたネオリベ的なディストピアのなか、共有の空間を奪われた人々は代わりに建てられた無機質な高層マンションの閉鎖的なセルに引きこもり、ショッピングモールやデパートのような均質的なゾーンのなかで消費するだけの「自由」を謳歌し、
もはやその感受性はマーケティングの論理によって条件づけられ、感性的に脱落しており、自らが享受する消費的な自由こそが真の自由と信じて疑わず、またその過程がなんであるのか、その外側でなにが起きているのか、自らは何を奪われているのかということにさえ、無知どころか関心も抱かず、盲目的になってしまう。そんなの嫌じゃん。なんか耐えられないじゃん。だから公私の領域における政治的なものとしての「触知不可能な質的ななにか(”あいだ”)」を、私はひたすらに探究していくに違いない。

・・・そんな風に空間の公共性について考えてみたりしながら、DIYカルチャーを地で行く活動をし続けていたい。なんていうかビジネスアプローチとして陳腐化したDIYだのD2Cだのクラウドファンディングだのといったものでなく、本物のDIYスピリッツを矜持としたい。それは場や企画の開発手法としてであり、また我が生き様としてである。
そして築ウン十年の古民家に最新家電を導入するヘンテコさを愛したいし、その辺を自転車で駆けるおじちゃんにはARゴーグルしていてほしいし、名もなき野良猫にはアップルウォッチみたいな活動量計が付いていてほしいし、不動産ビジネスモデル上もサブリースという「刹那性」を大事にしつつ開発を進めたい。
なんでDIYの精神性とこれらの刹那性が強く結びついているのかは自分でも分かっていないが、きっとなにかあるのだろう。私のスタンスとしてこの2つはかなり重要なクライテリアなのだ。そう、例えばそれらは平素より私が重視する「小学生の夏休みに裏山の秘密基地で毎日あれこれ思いつくままに遊んで過ごしてた時間」であり、「誰だか知らんがここに辿り着いたお前とは仲良くなれそうだ」感であったりする。感情をキャッチボールする場所なんて作りたくない、敢えて言えば感情のボールプールをつくりたい。ぷかぷか浮いて、誰のためでもなく、ただそこに在ることを許容されたい。それはDOINGでなくBEINGなわけだ。

もうそろそろ、なにを言ってるのか全然わからないでしょう?実は書いてる私も分からなくなってきた(笑)
ので、一旦、落ち着こうか(笑)


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アーバニズムという「複雑系」に分け入る:DIVE-R-CITYとは

ずいぶん長く「この街」という言い方をしてきたが、私のフィールドは池袋の北部の辺りだ。でも行政区画を踏襲した呼び方に思考を規定されたくないし、歴史的な地名をひけらかしたところで「いま、ここ」から乖離しすぎてしまうので、あくまで「この街」あるいは「この辺」などと呼んでいる。

“この「山に入り、山となれ。」的な体験はえてして大自然と紐づきがちで、山道をサイクリングしたり、大空の下でヨガをしたり、海に潜って鮑を採ったりすることで感ぜられるものと相場が決まっている。

しかし私は現代のアーバニズムもまた自然化してきており、その多様性やダイナミズムは十分に「山」たりえるものと考えている。つまり都市に分け入る姿勢があれば、そこに暮らすことで「街となる」ことができる。”

ジンメル的には、都市では人々は外的な生活像の複雑さと混乱によって永続的な抽象に慣らされ、空間的に最も近い人々に対する無関心を抱くようになる。
この街でも同様の現象は確かにあるものの、その人と人の「距離感」の土台には、東東京特有の下町的な「お互い様」関係の残滓がまだずっしりと横たわっており、適度な心理的距離感のもと、見守るような応援のスタンスがある。


そう、よく周囲にも語るのは小村氷室さんのトーキョーローカルスピリットのような。もう面倒だから詳細なエピソードは省くね。

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西東京や大阪、いわゆる田舎のお節介さとも違う良さ。これこそこの街のの懐の深さ、なんでも呑み込んじまう寛容さの核心なんじゃないかと思う。

そしてそんなリアルな多様性を自然界のそれにもなぞらえて、アーバニズムという「複雑系」にダイブしていく生き方を一種の業を積むようなこととして捉え直したりしている。どんだけ面白いかって、そりゃこの記事でも読んだら分かってもらえるんじゃないかな。そういうDIVE-R-CITYを肴に、色んなひとと人生を酌み交わしたいよね。



21.03.13
・・・随分まえに書いたのが残ってた!たぶん、以上!一旦、書きたかったこと全部書いたと思うから、公開しちゃうね!気が向いたらまた追記してくわ~◎








書くための、酒と音楽にぜんぶ使います。