Random Note with Laundromat

不精なもので、普段から「洗濯」という営みを2週間に1回くらいしか行わない。
しかし、図らずもそれは心地よい習慣だったりする。
大抵、なにか大きな出来事にむけて走り抜けた期間が収束して、少し肩の荷が下りたとき、気付けば私はコインランドリーの前にいる。
ぐるぐる回る洗濯槽を若干数分のあいだ見つめてから、私は短い散歩に出る。
2週間にいちど訪れるこの18分間が、日々の棚卸しにちょうどいいのだ。

小生が末席を汚す「マミアナ」なる集団による演劇公演が昨日に実施された。
池袋の小劇場にてたった2回の上演であったが、計77名もの方にご高覧いただいたようである。
まずは、貴重な休日を割いてお越しいただいたことに感謝申し上げます。大変有難う。

演目『LAST TRAIN TO LONDON』(2023.07.01)

当て書きされた台詞や演技はどうやら相当にハマり役だったらしく(いやむしろ私が役に嵌っていたのか)、
一部からは「怖すぎて泣ける」「彼は本当に普段からああいう態度なのか」とお便りをいただくことがあった。
前提として、全てとても嬉しいご感想です。有難う。

もちろん個人として普段からあのような振舞いをしているわけではないし、どちらかといえばもっとナイーブな自己認識をもっているのだが、
まぁカリカチュればあんな風にもなるよなとは思うので、ただ的を射貫くにしてはわざわざ憎らしい捻りをかけてきやがった脚本・演出には、本当に脱帽である(褒めてる。褒めてるよ!!)
とはいえ、もう少し真面目な人間であるということも弁明しておきたく、ここに記す次第である。
…弁明、それって誰のため?…わたしのため、じゃないかなぁ。

そもそも、一体いかなる作品が観賞態度の開示を要求するというのだろうか。
観客に感想を投稿させるなどという稀にみる暴力行為を敢行するのであれば、それに先立ってまずこちらから開かれるのが道理というものではないだろうか。
観客がなにに心を動かし、なにを持ち帰ったか、それを知りたいなどというのはあくまで僕らのエゴでしかない。
だから私は、まず私の方から開くことにした。
これは一つの願いであり、祈りであるといえる。
…それらもまた同様に暴力性を伴っていることは言うまでもないが。


○ ○ ○


しばしば、演劇という活動に参画するということから個人としてどのような影響を受けているのか、と問われることがある。

大抵の場合、私は「大きな虚構が自分のなかで常に横たわっている感覚」と回答している。

直前の1,2か月は特に稽古が集中する期間である。各自が自らの役や作品への理解を深めるにつれ「私の役では、ここはもっとこうするに違いない」とか「この役はこんなことは言わない」とか、
各々の解釈・解像度で細部への演技指導がやりとりされる様子はいつも面白い。

私の場合、役者たちとの(特に劇中でのやりとりが多いテツくんとの)日常的な会話や立ち振る舞いにおいても、役が下りてきてしまうことが多い。今後の関係性にまで影響を及ぼさないことを願うばかりだ 笑
他の役者をみても、当て書き台本だった今回はなおのことであったように感じる。

また、日常の些細な出来事すら、この大きな物語の伏線であるかのように感じてしまうことがある。職場で、家で、私は”素”なのか”演じている”のか、この事象は”現実”なのか”演劇”なのか、しばしば主体や世界認識が混濁してくるのだ。

例えば、あなたは雨の日に傘を手にして、ふとそこにスプリングフィールドM1903の「重み」を感じることがあるだろうか。あるいは会社でふと何の気なしに同僚を見下ろすかたちとなってしまったとき、つい試みにその髪を引っ掴んで彼の頭を振り回してしまいたくなったりするだろうか。
普通に考えれば、そういったことはないはずである。

もし人格にコンシステンシーなる尺度があるとすれば、演劇という活動はこれを非日常的な強度で揺るがしてくる。
現実世界の行動原理と並行するかたちで脳内に孕まれた大きな虚構の胎動が、私の日常的な所作を断層させる。

これは詩歌や音楽などの制作活動に取り組む時期や、引き込みの強い作品にマインドシェアが割かれている際などにも同様のことがあるが、
やはり自らの喉から発声され、その四肢の挙動でもって構成されるという点で身体性を伴う芸術活動に従事することによって受ける精神的干渉には、強烈で異様なものがある。

それが「演劇という活動に参画する」ことが私にもたらす感覚である。


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演劇というものは、他の芸術作品と比較しても、かなり残酷な表現手法によって鑑賞者に手渡されていると考えている。

小説やエッセイ、さらには短歌までいけば、これらはかなりロービットなデータ形式であるし、あるいは絵画もまた情報量の少ない表現形態である。
漫画や映画なども、まだ遡及することを許された媒体である点で優しいと言えよう。

しかし演劇は、足音や息遣いから目線や指先など、細部まで人間の生々しい肉体やその動きによって物語が紡がれてゆく。さらには音響や照明、客席の冷暖房に至るまで、鑑賞者が自由に操作できるものは限りなく少ない。これが演劇の情報量の多さである。

また公演は途中で停止することはおろか、巻き戻すことなど不可能な「なまもの」である。
眼前でリアルタイムに展開される物語に対して、その構造を解釈しつづける論理的な思考活動と、各シーンに素直に心を動かす情緒的な感情活動の、その両方を数十分ものあいだ継続させる集中力が要求される。
この不可逆的な表現手法は、鑑賞者に対して(同時に演者に対しても)実に優しくないよなとつくづく感じる。

しかも、これに加えて、上演においては必然的に観客と演者の相互作用が発生する。
どこで拍手が起き、笑いが漏れるか、どこを見つめて台詞を吐き、どれくらい客席に近寄るか。
やっていて思うが、本当に同じ上演というものは二度とできないのではないかと思わされる。

むろん、その再現性を高める努力をプロフェッショナリズムと呼ぶのであろうから、そこに絶望しているだけではいけないのだけれど、
私はこのコミュニケーションによって生み出される「うねり」の首根っこをとらえて、神的なものへ捧げられるにふさわしい完成度へと錬成していくセッションとして楽しめるようになりたいと思う。

そんなこんなで非常に面倒くさい形態ゆえに、演劇というアートワークに込められる願いや祈りは一層高度なものとなっていく。

もっと分かりやすい「お土産」を持ち帰らせた方が、きっと”満足感”も得られるだろう。
しかし、ただハラを満たしたいというのであれば、飽食の今日において貴様はファストフードでも喰らっていればいいのであって、
そんな甘ったれた態度は、観客も演者に許さないだろうし、演者もまた観客に許しはしないのである。

私はそんな演劇なるものが、ときに耐え難いほどに憎らしいし、同時に他と比較にならないほどに崇高で原始的だと思っている。

笑ってくれたお客さん、有難う。拍手のタイミングすら分からずに呆然としてしまったお客さん、有難う。

別にこれ以上どうこうしてほしいとかいうことは何もないです。

もしひとつお願いできるとしたら、よかったら、あんな場面やこんな台詞によって、あなたのなかに生まれた「分からなさ」みたいなものを、無理に咀嚼せずにどうかそのまま、そっと胸に仕舞い込んであげてください。

そうやって抱きしめてきた豊かで曖昧なものの積み重ねが、思いがけないときに、あなた自身や、あなたの大切なひとを救うことがあると信じています。


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戦争や労働といった抗い難い大きな流れに呑まれる人々(それは劇中のキャラクター達のみならず、演劇を鑑賞させられる観客も含め)が、皆それぞれに不可逆な「時間」という電車に乗せられて、線路のうえを運ばれてゆく。

これは昨年の公演に通奏低音として流れていた、円環を成す路線バスとはまた違ったテーマ性を表象するように感じる。

そして、そこには電車を降りる者も、乗り込む者も、車内で語らう者も、さらには電車を停めたり崩したり作ったり、挙句に線路で寝転びだす者までいる。(どうやら当日は品川駅で本当に線路への侵入による遅延があったらしい。もちろんマミアナの差し金です。演劇史に残る壮大な演出。)

当て書きによって割り振られた演技は、それぞれの葛藤や信念や気質といったものを、滑稽にもシリアスにも映し出す。彼らの意思の強さや芯のブレは、そのまま鑑賞者の解釈や感情と共振していく。

私は本作に対して、どうも複数の別々のストーリーラインが背景にあって、それぞれの構成要素や結合子が断片的に抜き取られ再構築されてシナリオとして組み上がっているという印象をもっている。
それはまるで2枚のターンテーブルを繰るような作業であり、総体としてはその位置や形状を次々と変えさせられては別の文脈を付与されるパイプ椅子のようなものなのかもしれない。

そんなこんなで、ありうべき解釈のレンジが非常に広いなか、
果たして本公演というプラットホームに降り立ってしまった鑑賞者諸君は、それぞれなにを受け取り、そしてどこへ向かうのだろうか。

その先は各位の自由な解釈と活動に委ねられるものとして、
ここではごく個人的に、劇団マミアナの皆様に対して「おはよう まだやろう」とだけ、伝えさせていただけたら幸いである。


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さて、他人様に感想を書かせるのであるならば、まずは自分から、ということで始めた本稿であるが、
おそらく、よくても関係者のあいだで回覧されるに留まり、来場者各位の目に触れることはほとんどないのではなかろうか。
…まぁ、それでも少しは自分のなかでケリがつくので、無意味とは言わないけれど。

もし幸か不幸か、ここまで読み切ってしまったあなたが本公演の目撃者であるならば、下記リンクから感想を投稿できるというアナウンスだけは再掲しておくので、後はお任せします。
ただし、あなたが私の感想を読み切ってしまったということだけは、揺るぎのない事実です(圧w)
パンフレット記載のQRコードからでも同じフォームです。

どうやらマミアナという集団は、演劇や映画、文章作品といったものを一緒に制作するメンバーを、経験問わず・コミットメント自由に募集しているそうです。年会費など一切のサンクコストもないようです。
気になった方は、フォームの最後に希望を書いてみてもいいかもしれません(あるいは夏井に連絡してもらってもいけるのかもしれません。)

最後に。

とくに脚本家・ナリタ君と演出家兼役者・テツ君の2人は、作品としての完成度のベースを担ってくれていると同時に、
本番/練習会場の手配やスケジューリング・各メンバーへのコミュニケーション等々、本企画を推進するうえで必要なプロジェクトマネジメント全般においても大変な働きをしていただき、大変有難うございました。

また、共演者や応援してくれた方々も、本当に普段からリスペクトしています。
どちらかというとコミュニティを運営する側になることの多い生活のなかで、この集団においてはいちメンバーとしてのびのびやらせてもらえていて、そんな居心地よさに感謝しているし、
私ひとりでは知らないままであっただろう作品や体験へのタッチポイントをくれていることに、そんな時間をともに過ごせていることに、とても感謝しております。


…それでは。おやすみなさい。



書くための、酒と音楽にぜんぶ使います。