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大喜利はフランケンシュタインを作るように

大喜利で笑わせるには、一見成立してるけどよく考えたら成立していない回答を作るべきです。
これはフランケンシュタインに似ています。一瞬人間かと思ってしまうけど、明るいところで見たら縫い跡がはっきり見える。
フランケンシュタインを作る博士の気分になって回答をつくるべきです。

どこで見たのか忘れたんですが、大喜利のお手本だと思ってる回答があります。

【お題】
この花火大会、予算が少ないのかな。なぜそう思った?

【回答】
ポスターに線香花火が描かれてた

お題も回答もうろ覚えです。すみません。
ポスターの真ん中に線香花火の絵がドンと描かれてる様を想像してください。

たしかに予算少なそうだなと共感して笑ってしまいます。
なんでそう感じたのか探ってみると、ポスターとは催し物の目玉となることを書くものであることから、そこに線香花火が描かれているということはこの花火大会の一番の目玉が線香花火であると推測できるからです。
目玉が線香花火の花火大会ってあんまり想像できないですが、とにかくしょぼいことだけはハッキリとわかります。
したがってめちゃくちゃしょぼい花火大会というのが読み手の中でイメージされて(そんな花火大会あんまり具体的には想像できないので、抽象的なイメージではありますが)笑えるわけです。

私に言わせれば、ここで使われているのは「限界突破」のテクニックです。
限界突破とは、にゃんこロボオリジナルの大喜利用語です。
先の回答で、最終的に読み手のなかで抽象的にイメージされた「めちゃくちゃしょぼい花火大会」というのは、そのしょぼさにおいて、現実的に花火大会としてありうるしょぼさを超えています。
なぜなら、先の「目玉が線香花火である、めちゃくちゃしょぼい花火大会」という抽象的イメージをむりやり具体的に想像してみてください。想像されたそれは「これを花火大会って言っていいのか?」と言いたくなるような代物だからです。
すなわち、いくらしょぼくすると言っても、花火大会であることを止めないようにするならば、表現できるしょぼさには限界があります。打ち上げ花火を一発も用意できないようなしょぼさを表現したくても、打ち上げ花火が一発も上がらない花火大会は花火大会とは呼べなくなるというジレンマがあるためにそれはできないのです。これが花火大会という文脈で表現できるしょぼさの限界です。

話が横道に逸れますが、これは花火大会という単語の限界ともいえます。花火大会の場合、打ち上げ花火が少なくとも一発上がればそれは花火大会と言っていいんじゃないかと個人的には思いますが、こういった、花火大会が花火大会であることを止めないでいられる範囲のことを私はその単語の「可塑性」と呼んでいます。そして花火大会、サーカス、落語、運動会、飲み会・・・のような単語は可塑性が高いため、そのお題が求めていること(先のお題で言えば「しょぼさ」)に応じていろいろとカスタマイズすることができます。こういった可塑性が高い単語のことは「可塑的単語」と呼んでいます。お題に沿った回答をするのが難しいと思ったとき、そのお題に近い単語のなかから可塑的単語を選んで回答に用いると便利です。

さて、花火大会という文脈で表現できるしょぼさには限界があるということでしたが、この限界を超えるのが「限界突破」です。先の回答では、目玉が線香花火であるような花火大会は花火大会とは言えないという限界に対して、あくまで「花火大会の目玉が線香花火だった」という旨の回答で応えたというところが限界突破であったということです。
もっと丁寧に言えば、「目玉が線香花火である花火大会だった」という旨の回答をしたいと思った→しかしそれは花火大会という単語の可塑性を超えるものであったためそれを直接書くことはできなかった→そこで直接ではなく間接的に描き、読み手に「目玉が線香花火である花火大会」の抽象的イメージを想起してもらうことにした。これが限界突破のしくみです。

そして限界突破を実現するための方法、それは回答に「ポスター的表現」を組み込むことです。
手順としては、まず「単語のもつ可塑性を超えてしまっている部分がある、しかしそこさえ目をつぶれば、そのお題ならではの回答だし納得感もすごい」という抽象的な回答のイメージを用意します。
いきなり難題ですいません。お題をこねくり回してる時なんかに「あと一歩なんだけどなー」みたいな回答ができるときありませんか?そういう回答がこれに該当するかもしれません。あとは「めちゃくちゃ」を含む回答ができたときにも、その回答にポスター的表現を組み込むことで、より洗練された印象になるかもしれません。

続いて、先の、本来もつ可塑性を超えてカスタマイズされている単語について、その具体的内容を示唆する性質をもつ「ポスター的単語」を探します。花火大会であればポスターです。ポスターにはその催し物の内容を示唆する性質があるため、花火大会にとってポスターとは「ポスター的単語」だといえるということです。

最後に、ポスター的単語を含むような回答を作ります。花火大会であれば「ポスターに〇〇〇が描かれていた」という形で回答することです。これによって、直接的に花火大会の様子を描いていた(「花火大会の目玉が線香花火だった」)のでは、むりやり限界突破したことに伴う矛盾が回答自体に表出していたところが、ポスターに描かれていた内容を描く(「ポスターに線香花火が描かれてた」)ことによってとりあえず矛盾は消えました。ポスターに線香花火が描かれてること自体は矛盾でもなんでもないからです。
これで回答の完成です。フランケンシュタインで言えば、縫合手術が完了したということです。

しかしもちろん、「ポスターに線香花火が描かれてた」という回答を見た読み手はそれが意味するところを無意識に想像するので、花火大会がもつ可塑性を超えたカスタマイズをしていたことは結局バレます。その縫い跡は明るいところで見ればすぐわかるということです。
でもそれで良いんです。一瞬人間かと思ったものがフランケンシュタインだと気づいたにしろ、一瞬納得した回答が矛盾してると気づいたにしろ、アハ体験的な快感があるのは同じです。すなわち、ツッコミどころを作るのが「限界突破」であり、それを(少し探したら見つかる程度に)隠すのが「ポスター的表現」であるということです。


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