ビッチに学ぶ「幸せの要件定義」と「目的意識」。

最近ブログを読んでくれる女性の方々とやり取りさせて頂くことがあるのだが、みんなとても頭の回転が早く、可愛く美しい人ばかりだ。

言葉選びや気遣いから垣間見える、その思慮深さを目の当たりにするにつけ、今までの人生、たくさんのことを考えてきたんだなぁ…

というよりも、考えざるを得ない状況を乗り越えてきたんだろうなぁと、(馴れ馴れしくて申し訳ないけれども)、愛おしさを感じてしまう。

同じように思考の袋小路に入ったアラサーOLが何の役に立てるわけでもないのだけど、そういった思いに駆られてしまう。

それは彼女たちの言葉の節々に、自分自身と同じように、自己肯定感の低さ・がんじがらめになった高いプライドを感じるからだ。

そしてその向こうに「救われたい」気持ちが垣間見えるように思うのは、自意識過剰だろうか。

思慮深いからこそ、あからさまに甘えたりできなくて、それが「(特定の異性に)救われたい病」「(ありのまま)報われたい病」になってダダ漏れているように感じる。

わたしはここ最近、どうしたらそんな女性が幸せになれるのだろうと考えていた。
その出口のきっかけになったのが、敬愛する川崎貴子さんの以下のブログ記事である。

http://ninoya.co.jp/ninoya_log/alcohol_lovers/2398


<以下一部抜粋>

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私の友人達(アラフォー以降)は、女性特有のめんどくささが無い。

決断が早くロジカルで、悩みがあっても自分自身で整理することが得意な人が比較的多い。皆、例えストレスが溜まっても、「ガハハハ!と笑いながら山賊みたいに酒を浴びて終了。」というタイプなのだが、年下の友人達、特に恋愛相談に来る若いお嬢さん方は真逆。彼女達は大抵「こじらせ女子」だ。

可愛くてスタイルも良く、学歴も高いし仕事もデキる。そんな非の打ちどころのないお嬢さんにいったい何のお悩みが?と思い話を聞いていると、途中から雲行きはバンバン怪しくなり、彼女達の奇行の数々が露わになってくる。

その度に、「うわ!めんどくさっ!」と、私は彼氏、もしくはデートのお相手男性の代わりに心の中でシャウトしている。シャウトしながらも私は、彼女達の事が実はとても好きなのだと自覚している。

…(中略)…ま、今生私に好かれても何のメリットも無いし、「こじらせ」は、恋愛、結婚市場においてはデメリットばかりなので早々に卒業をお奨めし、卒業できる方法をアドバイスさせていただいている。 何故なら「こじらせ女子」は長く患うと完治しない病だから。
若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改めないと、「こじらせおばさん」「こじらせお婆さん」と、健やかに成長を遂げてしまうからである。

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この記事には川崎さんのお母様が永遠のこじらせ少女で、その反面教師論が綴られている。

同じように『永遠のメルヘンサイキッカー』の母を持ち、

http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/10/19/230033

「ヒィ、母の二の舞はムリっす」とその面影を自覚する度、戦々恐々としているわたしとしては、これを拝読した時、突き上げるような痛みと衝撃を感じた。

スマホの画面に夢中になるあまり、はずみでウォシュレットを「最強」にしたからだけではない。

「若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改める」ことの好影響。

恋愛や結婚に限った話ではなく、それは長い人生全般に言える話である。

既婚・未婚、彼氏の有無が「幸せ」を決めるわけじゃ、もちろんない。

だからこそ、「生き方」が大事なのである。


そしてある人と話していて、気付いた。

「幸せになる」ために必要なことはなぜか?

それはまず「幸せの要件定義」をすること、である。

幸せになりたいのに「なれない」のは、

「幸せを要件定義」が出来ておらず、

「(目の前の感情に流されるから)目的意識が弱く」、

「正しい努力が出来ていないから」、その一択である。


実はそういう女性に足りないのは、日頃「スペックで男選びすぎ」とか「Ca●Cam系にはなれないわ~w」とバカにしているような、いわゆる「ゆるふわもしくはキャイキャイ系女子」のその「目的意識の強さ」なのだ。

「自分が幸せな状態」を素直にイメージできていない。
自分の頭の中にないものを、そりゃ実現できるわけがない。


たとえば、不特定多数の男と寝まくる女が居たとする。

彼女が「世界中のイイ男とヤリたい」という目的意識の下に実行しているとしたら、それは敬意を表すべき目的達成意識もしくはミス・トレジャーハンターだが、「本当は特定の彼氏や旦那に愛されたいのに、寂しさに流されて」だとしたら、その打ち手は「不毛の極み」と言うほかない。

幸せの要件定義、目的意識とはそういうことだ。

「そんな極端な」と思うかもしれないけど、私たちは同じような過ちをしていることはないだろうか。

もっというと「幸せを感じる」ためには、自分に対してあぁだこうだと不要なエクスキューズや、不当な要求を、ちぐはぐとしないことである。

つまり「今の自分に対して腹を括る」ことだ。

前述の目的意識の強いビッチがもし、「たくさんの男性と寝ると、心がすり減るかもしれない…」「付き合う前に寝たら、本命になれないって言うし…」なんて言い出したら、あの国会で議員が全会一致で議席からズッコケるくらいのドリフ感である。

お前の目的意識、初期設定はなんだったか思い出せと。

それ無しにたまたま都合良く、背景や気持ちを救いあげてくれる人や状況に出会ったとしても、たまたま運が良かっただけである。

運用スキルが無いとその関係や状況は継続せず、その喪失によって、再び自らを損なうことになるだろう。

そういうタイプが、なぜ同じ過ちを何度も繰り返すのかと言うと、「自分の感情を抱きしめ過ぎている」からだ。そしてその感情によって、目的意識が流される。

どんな感情も、美しくてもったいなくて抱きしめちゃう。

「プライドが高いロマンチスト」の中身である。

それは、幼い過去や普段、いろんなことを理解したふりをして、自分の感情を抑え付けて来たからかもしれない。

だから自分の感情を「自分だけは気付いて、大事にしてあげよう」と潜在的に思うのかもしれない。

「自分を分かってる」という自己認知があったり、「キミは分かっているね」と他人に言われて、なおさらそこからすがりついて離れられないのかもしれない。

だけどそんなことは、世間は知らんこっちゃである。

自分は自分でしか救えない。

そして自分にすがりついて生きることと、自分を救うことは別物である。

自分の中に、自分自身を奮い立たせる母のような、「わたし」が生まれた瞬間、今までよりもほんのすこし、自分を救える自分になってる。

(ヤマザキマリさんの『とらわれない生き方』に「自分の中にマザーを持つ」という素敵な文章があります。

http://s.news.mynavi.jp/articles/2014/05/20/yamazakimari/

--「私は私の形」というのがこの本に出てくる「マザー」につながっていくんですか?
核心ですよね。必ず、自分を守ってくれる存在というか、「泣きわめこうが悲しもうが何してようが絶対に程よきところで収まるから大丈夫」っていうような自己コントロールを無意識にしていると思うんです。その心底から自分の様子を客観的に傍観しているような意識を「マザー」と呼んでいます。

依頼心を抜け出した者だけが、前述のミス・トレジャーハンタービッチになれる。

ビッチにはなりたくなくても、「幸せの要件定義」を行い、そのための「目的意識」を持つ者だけが、見る者に爽快感すら感じさせるような、「自分の目的意識に叶った幸せ」を味わえるのである

サポート本当にありがとうございます…! コメント等でお題のリクエストいただいたら、それについて書きます!