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9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書調印から考える (2021年8月)

8月15日は「終戦」ではありません。

8月15日は昭和天皇による玉音放送で日本国民への無条件降伏を表明したに過ぎません。現に8月15日以降も現にソ連は戦闘を停止せず、逆に千島・樺太に攻撃を強め、戦死者・犠牲者も多くいます。

ソ連・ロシアにとっては、9月2日が対日戦勝記念日とされていますが、これはいわゆる戦時国際法の考え方としてはこちらの方が妥当だとおもいます。

正式には降伏文書の調印した9月2日が停戦日と考えるべきです。(むしろ「戦時国際法」の常識が通じてない日本側も問題があることを考えたほうがいいように思います。)

降伏文書調印は横浜沖に投錨・1853年のペリー来航時のポータハン号の停泊地点に停泊中の戦艦ミズーリ艦上で行われました。ミズーリは現在記念艦としてハワイ真珠湾に展示され、ペリー来航時の星条旗も掲げられています。

日本側代表団の服装に注目してみましょう。

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梅津美治郎(陸軍参謀総長)以下、軍人は陸海軍とも正装たる軍刀がありません。降伏文書調印直前に、米軍から外すよう指示があったためです。これに従うのが、まさに「降伏」に他なりません

また、陸海軍ともに正装ではなく、戦闘略装です。戦闘略装で停戦に応じることで、戦闘意志の継続意思を表し、敢えてその意思を停止するという表明に意味を持たせています。

一方で重光葵外相以下、書類を抱えて持っている加瀬俊一(後に初代国連大使)と岡崎勝男(後に外相)の外交官はシルクハットの当時の正装です。米軍に対する敬意ではなく、「天皇陛下の使節たる立場」との意味で正装なのだそうです。

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以上は、加瀬英明先生(加瀬俊一氏の子息)の著書によります。

外務省の加瀬俊一氏は、この8月9日に破棄されたばかりの、日ソ中立条約(1941年4月)調印(松岡洋右外相)でも(右から3人目)立ち会っています。

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緊張した表情の杉田一次(陸軍・戦後は陸幕長)は開戦初期のシンガポール陥落(1942年2月)での英軍降伏の際の山下奉文中将の(有名な「Yes or No?」)の通訳でもあります。戦後、「私の通訳が拙かった」という趣旨のことを述べていたようです。

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海軍の略装の横山一郎は、真珠湾攻撃直前に米国で駐在武官でした。日米開戦を避けるべく日米諒解案の取りまとめに奔走するも幻に終わり、真珠湾攻撃の後ただちに拘留され、日米交換船で帰国しました。

帰国後、軍令部のヒアリングでアメリカの日本への反攻経路を問われ、サイパン・硫黄島等を報告・回答しています。また、この戦争がどのように終結するかの問いには、「敗戦は避けられず、うまくいっても日清戦争以前の状況に戻る」と述べています。

それぞれの回想録は興味深いものがあります。歴史的な一コマであると同時に、流転する皮肉な運命を感じずにはいられません。

追記:加瀬英明先生は令和4年11月に長寿を全うされました。記して生前のご教示に感謝します。

横山一郎『海へ帰る-海軍少将横山一郎回顧録』原書房、1980年
杉田一次『情報なき戦争指導-大本営情報参謀の回想』原書房 1987年8月
富岡定俊『開戦と終戦 帝国海軍作戦部長の手記』 中公文庫2018年(解説戸高一成)
軍事史学会編『大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将日誌』錦正社2003年。
福井雄三 『開戦と終戦をアメリカに発した男 戦時外交官加瀬俊一秘録』毎日ワンズ2020年

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