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世界史の中の岐阜③日米開戦前のアメリカによる経済封鎖への対応

日米開戦では華々しい真珠湾攻撃やマレー沖海戦の戦果が語られるが、一方で開戦前の米国からの経済封鎖は語られにくい。いわゆる「経済封鎖」は、現在もイランや北朝鮮に対しても実施されており、本来はもう少し着目されても良かろうとは思う。

中でも、1941年(昭和16年)7月の資産凍結令が強烈だ。日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店(横浜正金銀行:戦後東京銀行/現三菱UFJ銀行)には1億ドルの金融資産があった。これが米国側の「対敵通商法(1933)」で全部没収される
 一方で当時の大蔵省で米国側の「資産凍結令」の解説をしたり外為法規則改正等を金融業界と対応策で奔走していた官僚がいた。

彼の名は野田卯一

 戦後東京裁判でも、弁護側としてこの辺の経緯を供述している。野田卯一といっても今は知る人も少ないが、岐阜県出身の政治家として有名。大蔵省出身で池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれたほどのキレ者だった。

 経済制裁は現在のイランや北朝鮮でも見られるが、規制・制裁する側の視点で考えがちだ。しかし、彼は、制裁・規制を受けての苦境を切り盛りしていたのだ。その一端が、『資産凍結令解説』などが、国会図書館でデジタル公開されている。

野田卯一『資産凍結令解説』千倉書房1941

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282052

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戦後は大蔵次官をへて岐阜県(旧岐阜1区)から衆議院総選挙に出馬。大臣などを歴任。かなりのインテリで著作も多いが、戦前の彼の苦境と尽力にもう少し光が当たってもいいように思う。

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ついでに戦後はオートキャンプ協会の初代会長をやっており、画像は協会のホームページからお借りした。戦後すぐに東名高速の建設を主張するなどの先見の明を感じるが、現在のソロキャンブームを予見していたかどうか。

ただ、孫娘の付録のような扱われ方には一抹の寂しさがある。

画像の揮毫は岐阜県にある料亭における彼の筆による。

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