憂鬱な家族

わたしには2歳離れた兄がいる。

誰に向けたメッセージでもないが、兄と家族の問題を記録として残しておく。


幼い頃、わたし達は仲が良い兄妹であったと思う。元々女の子らしくないわたしは、中学校へ入る前まで兄や兄の友だちと遊ぶのが好きだった。

些細な兄妹喧嘩でも、力は流石に兄には及ばなかったが、成長と共に自然と暴力を使う喧嘩はお互いなくなった。気弱で優しい性格の兄は、わたしが何かで怒ってもすぐに謝るのだ。わたしはというと弁が立つようになり言い訳もうまく、ずる賢い子どもだったと思う。

小学生の頃、兄がピアノを習えば、わたしも真似をして習ってみた。センスもやる気もなくすぐに厭きたわたしと違い、兄はよくやっていたと記憶している。これまた父や兄の影響で、高校生でギターを始めたわたしだがやはり途中で厭きてしまう。兄は時間さえあればギターを弾き、大人になってもよくピアノを触り、流行りの曲なんかを”耳コピ”で弾いていた。

なんでも要領良くこなし勉強もそこそこに世渡りを覚えたわたしと反対に、兄は勉強がそれなりにできた。中でも兄は英語が得意で、これを活かした仕事に就きたいと就職活動に励むが、ネームバリューに惹かれ大手ばかり狙う所為か大きく挫折することになる。

大学生時代、兄がどんなアルバイトをしていたかあまり覚えていないが、社会のことがまるでわかっていないように思えた。その頃わたしはと云うと、短大に通いアルバイトや趣味に時間を費やし自分の人生を最高に楽しんでいたのであまり家のことに関与していなかったのだ。

話は戻るが、わたしは様々なアルバイト経験で得た”無理せず働けるのが一番良い”という考えがあるのだが、兄にはこれがわからない。”社会人とはスーツを着て会社に行って働く。それ以外はカッコ悪い”というような稚拙な考えをしているようだと、違和感を覚えた。2歳差で兄は四大、わたしは短大なので就職活動は同時期だった。わたしは当時の交際相手が東京にいて、卒業後は大阪を出て一緒に住むことになり東京の会社を数社受けたりしたがまぁ面接へ行くにもお金はかかるし大変なので、諦めて向こうへ行ってアルバイトをしながら就活すると両親に伝えた。

お互い学校卒業までの授業がない期間に早朝アルバイトを共にしたことがあるが、朝が早いからか兄はいくら起こしても起きられずよく欠勤していた。バイト先でおばさん達に「お兄ちゃんと違って真面目によく働くなぁ」と比べられるのは当然だった。バイトでさえ仕事に責任が持てないのにこのままで就職なんてできるのかと、朝起こすときに直接叱ったこともあるが布団の中から返事はなかった。

兄は相変わらず就活がうまくいかず、友人達はどんどん内定が決まり大学も卒業し、焦っていた。鬱病になってしまったらしく、一時期引きこもりほとんど部屋から出なかったという。そして、鬱病で通った病院で自分は発達障害だと云って障害者手帳をもらったそうだ。この当時のことは、わたしは本当によく知らない。東京で新しい生活を始めたわたしに、両親も知らせはしなかった。

さて、いつの間にか、兄は精神障害を持つ者となっていたのだ。わたしは結構後に母から聞かされて知った。しかしわたしの”障害そのもの”についての認識とは別に、兄のこの障害には違和感しかなかった。昔から付き合ってきた不器用でどんくさい性格に急に病名がついたからか。いや、報われなくて努力したくなくて投げやりになっているだけではないのか?と、どうも受け入れ難かった。

たまに実家に帰るが、兄はアルバイトを転々としていた。音楽が好きで、音楽で食っていきたいらしい。父はそんなことは無理だと云うが、否定されることに敏感になった兄は反抗的だった。わたしは夢を追うにも生きているだけでもお金がかかるということを説明し、アルバイトは続けるよう云った。母はあまり何も云わなかった。

実家を出て5年、今度は母が鬱病になってしまった。アルバイトをほとんどしなくなった兄が家の金に手をつけ大金を浪費していたのだという。わたしは仕事を辞め、1か月程実家へ行くことにした。帰ると、母が泣きながらもう帰って来てほしいと云う。結婚もせず喧嘩を繰り返すわたしのことも心配だし、兄に家をめちゃくちゃにされているから、側にいてほしいと。家族会議が開かれ、父は兄に誓約書を書かせ、わたしも兄に易しく説教をした。兄が反抗的にならぬよう、誰も声を荒らげて怒らなかった。兄は静かに反省し、情緒が不安定であることと自制がきかないことを理解していた様子だった。鬱で家事がままならない母を助け、兄を励まし、父には2人へ厳しくしてはいけないと云い、一所懸命に家族をサポートした。わたしが家を出ずに家族の中心にいて支えていればこんな酷いことにはならなかったのではないかと後悔して泣いた夜もある。

兄には仕事をしていなくても人としての生活を送りなさいと、朝は起きること・食事は3食以上食べすぎないこと・夜は日付が変わる前には寝ることをしつこく云って聞かせたがまぁ全然続かない。働いていないので朝に起きる必要がなく、食事は暴食になり、疲れていないので当然夜は眠れないのだ。犬の散歩や簡単な家事の手伝いを義務付けたが、やはり続けられない。眠気やだるさ、本人は発達障害の薬の副作用だと云うが…じゃあ薬で何かが良くなっているのか疑問だ。しかしわたしも怒るばかりでは仕方ないので、兄を買い物に付き合わせて外に連れ出したり、料理を教えたりすると気分転換になるのか、しばらく元気で犬の散歩くらいは行ったりしていた。

後半はわたしはアルバイトもしながら、1か月半も気を張っているとだんだんとわたしも疲弊し、同棲している方の家も心配だった。母は少しずつ元気を取り戻し、兄も障害者雇用として就職も決まるところだったので、実家を後にした。

わたしの方でも色々ありこの2か月後、同棲を破棄し実家に帰った。兄の問題行動もなく、母も良くなり実家では平和に過ごせていたと思う。

しかし数か月後、また事件は起こる。兄が隠れて所持していたクレジットカードでキャッシングやリボ払いを繰り返し借金をつくっていたのだ。障害者雇用で入った会社は身体を痛めて退職し、アルバイトをしていたがとても返せない金額になっていた。再び家族会議が開かれるが、今回も誰も怒らず静かに説教をし、どのように返済するかに提起をおいていた。しかし兄が父に逆ギレしたので父が拳を振り上げ殴り合いの喧嘩になった。母は父を、わたしは全力で兄を止めた。太っている兄の動きは全く抑えられないがありがたいことに兄はわたしには手をあげなかった。母がなんとか父を静めて別室へ連れて行った。父の拳で切れた兄の顔面を冷やしてやり、お互いの為にしばらく自室から出ないことをすすめた。家族会議は中断、延期になった。この件で、反省が見られない兄にわたしはどう対処すれば良いかわからなくなっていた。母もまた鬱になっていた。

数日後にもう一件同じことで隠していた件が発覚したので、急遽わたしは仕事の合間に抜け出し、母と兄の三人で話し合った。わたしはもう、この家から出て行ってくれとハッキリ告げた。家にお金も入れず手伝いもしないのに家の物を勝手に食べるのは泥棒と同じだ、家の金に手をつけ更に返せない借金をつくって、もうこれ以上迷惑をかけるなと。

しかし出て行くあてがないのはわかっているので、家の庭にある物置小屋に寝泊まりし、食事だけは差し入れてやるので家には入ってくるな・お風呂の時間だけは人が居る間に許可してやる・トイレは近くの公園へ、という条件で支援してやることを伝えた。母はショックで何も云えないのでわたしが考えた一番の策だった。この支援の間に寮付きの就職先を探して出て行くよう兄に話した。迷惑ばかりかけても結局許されてきたが、いつまでも甘えるな少しは自立してくれと頼んだ。この支援の条件が飲めないならもう荷物をまとめてすぐに出て行ってくれと云うと、少し悩んだ兄は「物置小屋はイヤだ」と返事をした。物置小屋と云っても4畳くらいはある、冬だったので布団や暖房器具も、食事もつけると云っているが「それでも?」と再度確認すると「イヤだ」と云うので、「じゃあ出て行って、もうこれ以上うちと関わらないで」と話は終った。キャリーケースに荷物をまとめ、家を出て行く兄に「安いビジホや漫画喫茶に泊まるお金もないだろう。もう後がないぞ、すぐにでも働け。これは返さなくて良いから」と5万円を握らせた。

兄が出て行ったあと、母とふたりで泣いた。悔しかった。どうして兄は普通にできないのだろうか。それが障害というならば、どう向き合えば良かったのだろうか。話し合いでわかったような返事をしても家庭内で罪を繰り返す、じゃあどうすればお互い救われたのだろうか。

その夜、父は静かに怒った。しかしあんな息子でも可愛い子供だと云って、可哀想だからもう一度自分から話すと。最後のチャンスだと。条件は同じで良い、家に入れたくないというのは皆一致しているので、最後に父として問うと。わたしは、もう縁が切れたので好きにしてくれ、立ち会わないので結果だけ知らせてくれと云った。

後日、父と母と兄で話し合いが行われたそうだが、結果はやはり「物置小屋はイヤだ」ということであった。友人のところで住まわせてもらっているとのこと。話し合いの前にその友人に「家族だから謝ったら許してくれるはず」と云われ、ちゃんと謝って家に入れてもらいたいと兄からわたしに連絡が入ったが「お金で何度も問題を起こして家の手伝いさえやらない人間だと、その友人は知っているのか?もう謝って許される問題ではない。しっかり働く以外に道はない」と返事をしていた。

そしてわたしが家に帰ると、信じられないものを目にする。リビングのゴミ箱に、1万円札が3枚捨てられているのだ。兄がわたしへの当て付けに捨てて行った以外ありえない。お前が今一番必死にしがみつかなければならないものを、ただの感情で、こんな風に捨てられるのかと、心の底から呆れた。プツンと糸が切れた。今までどれだけ気を使ってきたか、励ましてきたか。厳しいことをしたが、それでも変化に期待して応援していると云ったのに。

もう何も期待しない。わたしにできることは精一杯やった。あとのことは両親によろしく頼んだ。

わたしから両親に兄の話を持ちかけることはなかった。それでも母がわたしに話をする。弁護士に相談し、兄を自己破産させると聞いた。なんとか寮付きの就職先を見つけることができ、そこで働くと聞いた。もうどうでも良かった。どうせ人は変わらない…。それでも心のどこかでは、人様に迷惑をかけないよう慎ましく真面目に働いてくれ、そして月並みに人として幸せを感じられる人間になってほしいと願ってしまう。

うちの家は、どちらかというと裕福な家庭だった。家族内での喧嘩や反抗期もごく普通だったと思う。ほしいものは与えられ、それなりにちゃんと愛されて育てられた。祖父母や従兄弟がすぐ近所におり、ものすごく恵まれた環境だった。どうしておかしくなってしまったのだろう。それが障害というものなのだろうか。兄のお金を家族が全て管理すれば問題は起きなかったのだろうか。管理しきれなかった所為だったのだろうか。働かない場合どうすれば良いのだろうか。就労移行支援を受けて一旦就職もした。続けられず再就職もせず、しかし就労継続支援は絶対イヤだと云うし、どうしたら仕事をしてくれたのだろうか…。どんな短時間のアルバイトでも、自分の支出に見合った収入を得られれば問題なかったのに。家のお金に手をつけたりキャッシングでお金を使うだけ使って、働かないから問題なのだ。

その後、母から聞いた話しでは、兄が入った会社は新型コロナの影響か就職後まもなく倒産し、兄は生活保護を受けることになったという。住むところはあり、恐らく仕事はしていないという。あれから兄からわたしの方へは何の連絡もない。


同じ時期に、元農水事務次官長男殺害事件があった。両親とテレビニュースを見て、いたたまれない気持ちになった。うちは暴力がなかったから良かったが、もし兄が暴力まで振るうようであったら、と思うと殺人犯になってしまう気持ちが、なんとなくわかってしまった。うちの場合は根が優しい性格の兄で良かった。

障害に関係なく、働ける身体なのに働かない大人はたくさんいると思う。お金があり、働く必要のない人は別だ。働ける身体でも、働けない心を持っていたらどうだろう。障害ではなく鬱病などで働けない理由もあるだろう。様々な理由で働けない大人と、家族はどのように向き合えば良いのだろうか。本人だけでなく、家族を含めたカウンセリングが必要なのではないだろうか。働くことのハードルをもっと下げた企業が増えるべきではないだろうか。休みやすく働きやすい環境で雇ってくれる企業が増えれば良いのに。しっかり働ける人と同じ賃金でとは云わない。しかし責任を伴わない仕事でなければやりがいはないと云うかもしれない。反面、責任が重荷で苦しいと云うかもしれない。誰にとっても、自分に合った仕事を探すことは本当に大変だ。

誰へ向けたメッセージでもなく、事実を綴っておきたいと思い、これを書くことにした。まとまりがなく主観的ではあるが、忘れないように残しておきたかった。

いつか兄が更生して、両親へ借金を返済しに土下座でもして元気に帰って来ることを願う自分がいる。家族みんなの心に空いた穴はそれ以外では埋まらない。それが叶わなくても、どこかで人としてしっかり前を向いて生きていてくれれば、それで良い。



あとがき

昨年結婚したわたしはこの秋、母になる。産まれてくる子どもが健康であればじゅうぶんだと願っているが、兄のこともあり、少し不安に感じることがある。たぶん母はもっと責任を感じていて、わたしの妊娠を祝ってくれなかった。悲しかったが、でもわたしは夫と一緒にきっと立派に育ててみせる。

2021年5月 nyamo

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