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「もっちり」その尊さ



私は相変わらず、独り身であるのに洗濯物に追われたりする穏やかでいてそうなりたかったわけでもない日々を過ごしている。
noteを始めたきっかけであるお笑いコンビ奇文学は何だかよくわからない状態になっているけれど、面白かった事や覚えておきたい事は今後も順次書き起こしていけたら、と思う。

「もっちり」は、ある日公園を歩きながら話していて相方のゆうちゃんが発した私の体型に対する評価である。

確かゆうちゃんが「俺はガリガリなので絶対に脱ぎたくない」という謎の持論を展開し、対して私は「何の躊躇いもない、何処でも脱げる」と人としてどうかと思う意見を言っていた。

そんな流れがあり、私が「コンビとして私の事を平気でデブ位言えなければ」と言った事に対して

「いや、デブでは無いです。デブって思ってたらそれは言えます。俺さやかさんデブと思った事無いです。なんか。なんか、さやかさんは『もっちり』です。」

とゆうちゃんは言ったのだ。

文字に起こすと大変伝わりづらいが、静まり返った井の頭公園で相方が何故か焦りながら捻り出した「もっちり」は爆発的に面白かった。

私はひとしきり笑ってから急に不安になって「ねぇ、それ他の女の子とかに言った事ある?」と確認した。私は相方という立場だからこの表現が面白いのであってこれを友人の女性などに言っているようなら、ゆうちゃんが本当に周囲から奇人のレッテルを貼られている可能性があると思ったからだ。
それに対し返ってきたのは、そもそも女性と体型の話などした事が無い。という、より心配になる返答だった。私は諦めた。

しかしこの「もっちり」発言は私に、これまで対等な1人の人間としか思っていなかったゆうちゃんが、安易にからかったりしてはいけない何か尊い存在である事を急に感じさせた。

夜の公園で稽古をして手が冷えてるのを暖めてあげようとすると、何故か焦って「バズっちまいますよ!」と訳のわからない事を言っていた時、漫才のネタの中で告白する場面を公園で練習していて人が通る度に「本当の告白みたいになっちゃう」といちいち中断していた時、ファミレスでM-1の動画を観るために片側の席に2人で座り、終わってからも私がなかなか向かいの席に戻らないことを静かに恥ずかしがっていた時、もっちり以外にもこの人の尊い純真さを守らなければならないと感じさせられた瞬間は枚挙にいとまがない。

冷静に考えると歳も1つしか変わらず、男友達と過ごしている時にはそれなりに下世話な話もするのであろうただの男子大学生の純真さを私が守らなければならない理由など何もない。けれど、どうしてかゆうちゃんにはそう感じさせる何かがある。


こういった人はいずれ純真さを失うのか、はたまたそれがそのまま特徴として残るのか。私はゆうちゃんという被験体でそれを確かめていこうと思う。


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