見出し画像

ほとんど起こらなかったに等しいライドシェアの話

2024年は辰年なので2月の旧正月の際、シンガポールでは様々な場面で龍をシンボルに使った催し物が開かれた。

シンガポールの中心部にMarina Bayというエリアがある。高級ホテルと会議場とショッピングモールとカジノがあり、すぐ近くにオフィス街もあって、観光客とローカルの市民でいつも混雑している。ここでは旧正月前後の土曜の夜に毎年、ドローンショーが行われる。

8時開始なので7時半頃に会場につくことを目指す。近くのホーカー(フードコート)で家族で夕食を済ませ、歩いて現地に向かう。会場を目指す歩行者の流れがなんとなくあり、それを追いかけていけば迷わない。もう日は落ちているが、マリーナをぐるりと囲むようにほとんど切れ目なく人だかりができているのが見える。正面から見ないと駄目なものではないと聞いていたので、ある程度近くから見えそうな緑地の端にある石段に腰を下ろして待っていた。

ドローンショーが時間通りに始まり、最初は漢字で「春」という形を作ったりしているうちに強烈なスコールが降り始めた。迂闊にも人数分の傘を持っていなかったので急いで荷物をまとめて一番近くの地下街の入口に逃げ込む。人混みで身動きがほとんど取れなくなる。ガラス戸の出入り口をくぐった内側は冷房が入っているが、雨の湿気で蒸し暑い。水滴のついたガラス窓越し、すし詰めになった人の頭越しに、なにやら龍らしき動きを何百台だったかのドローンが作っているのが見える。

ショーは10分ほどで終わった。不完全燃焼だったが帰宅することにする。最初は地下鉄の改札口を目指して地下道を歩きはじめてみたが、歩く距離が割と長いのと混雑しそうなのと疲れていたのが相まって、ライドシェアで帰ろうという話になる。呼んでみるといつもよりは混んでいたがそれでも10分後くらいに到着する車両がつかまった。乗る場所に指定した近くの建物の入口まで移動する。この頃にはもう雨は上がっていた。雨に降られに来たようなものだ。

車が到着した。乗り込んでみると後部座席にスマートフォンが一台置いてある。前の客の忘れ物だ、と言って運転手に渡す。車が出発してすぐにその端末に着信があって、運転手が出る。いや、もう次の客が乗っていて今から…方面に行かないといけないから、云々と英語の短いやり取りがあったあと、運転手は助手席に座っていた自分に「Japanese」と言って電話を渡してくる(僕が家族と日本語で会話していたのを聞いていたのだろう)。

若い男の声だった。どうやら近くにいるらしい。ホーカーのあたりで受け渡すことにし、運転手にそこまで行ってもらえないか、こちらはそんなに急いでいないから、と頼んで、ナビの道筋とは違うがホーカーを目指してもらう。

数分で到着した。交差点に手を振りながら立っている二人の若い男がいた。一人が通話をしている、その通話相手の端末がいま僕が持っている忘れ物だ。車はハザードランプを出して二人の前で停まる。電話を渡す。ありがとうございました、と二人が言って、一人が僕に向かって現金を渡そうとしてきた。いや別にいいですよ、と断ったがそれでも差し出してくるので、運転手さんにあげてください、といって彼に受け取ってもらい、出発する。

運転手とはその後降りるまでに少しだけ世間話をし、最近大阪に観光に行った、日本はどこへ行っても街が綺麗だ、シンガポールは中心部は綺麗だが他はそうじゃない、とかそういう話を聞く。

忘れ物のスマホの待受画面には東京の天気情報があったので、おそらくローカル在住の人ではなく、卒業旅行かなにかでシンガポールに来ていたのだろう。帰国してから友人たちにこんなことがあった、と話すだろうか。二人組の名前は知らないし、万が一どこかでもう一度会ってもわからないだろう。運転手の名前もわからない。もう一度彼の車にライドシェアで当たってもわからないだろう。アプリ上では過去の乗車記録は3日分しか遡って見れるようになっていない。会社のサーバーのどこかには記録があるかもしれない。乗車してから数分の間に、ナビのルートに合わない走行があった、ということが、それを詳細に分析すればわかるだろう。置き忘れられたスマホのアプリの位置情報を重ねれば、何が起きたかを理解することまでできるかもしれない。でも誰も気にしない。

ほとんど起こらなかったに等しいライドシェアの話である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?