母へ

諸事情で母に手紙を書かなくてはならなくなった。

母に伝えたいことは感謝が少しと、それから今まで言えなかったこと。誰に似たのか私は案外根に持つタイプで、特に嫌だったことはずっと覚えてる。ちゃんと傷として背負って生きている。

母は楽観的でいつも笑ってる。いい意味で適当な性格で天然なところもある。でも昔は子ども達の前で泣いていた。本人は覚えているか分からないけど、まだ小さかった私には大人が泣いているのも見たことがなかったし、ましてや親が泣いているのは何とも表現しがたい、心にずっしり来るものがあった。だから忘れない。

あの時は父と離婚したばかりで新しい土地に引っ越し、新しい職場で働き始め、幼い娘2人を抱えキャパオーバーだったのかもしれない。

母が泣いていた時放った言葉も覚えている。
「1人親だからって馬鹿にしてるんでしょ」と。

昔は今ほど1人親が多くはなかった。母にしか分からない悔しさやプライドがあったんだと思う。

母は新たな職場でも一生懸命に働いてくれた。母も看護師だったが、看護師とシングルマザーの両立はかなりキツかったんじゃないかと思う。
おかげで好きなことはやらせてもらえたし、姉も私も大学まで通わせてもらった。その点は本当に尊敬できる所で母には感謝しかない。

医者だった父と離婚して引っ越した先は雨漏りがひどく、冬になると室内が外のようにキンキンに冷えて、風呂は火で沸かすような家だった。

父がいた頃は沢山外食に行っていたし、旅行にも行った。洋服は海外ブランドのものを着てまるで医者の子ども。何不自由ない生活を送っていたが家庭がどこがぎこちなくて息苦しかった。

父と離婚してからは母の収入だけだったのでもちろん裕福ではなかったが凄く幸せだった。毎日笑っていたしのびのびと育った。

両親が揃っていることや裕福であることが必ずしも幸せに繋がるとは限らないと幼いながらに学んだ。

そのあとはお父さん候補が数人、家に来た。どの人も遊んでくれて嫌いではなかった。でも思春期になるとそれも辛かった。母は優しい人だったが、母の彼氏と仲良くできない時だけは強く叱られた。
「2人で出かけなよ」と言ったけど母はどうしても私を連れて行こうとした。彼氏に気を遣ったのか、家族ごっこがしたかったのか、それとも子どもを置いて彼氏と遊ぶことがまずいと感じていたのか...?真意は分からない。

母は男の人を連れてきても全く紹介しなかった。彼がどんな人で何をしている人で、母にとってどういう人なのか...一切説明されなかった。日曜の朝にただ突然現れて、何事もなく一緒に朝食を食べて、何事もなく家族のように暮らす。いつのまにかその人が来なくなって、また新しい人が来る。そんなことが続いた。

私もまだ小さかったが母の彼氏なんだろうと悟っていたし、「誰?」と聞いてはいけないんだろうということも悟って何も聞くことなく一緒にいた。家族のように出かけた。今考えると変な話だと思う。

私は幼稚園生のあたりから「空気を読む」こと「悟る」ということ、「感情を読むこと」を覚えていた。毎日そればかりしていたから。

母の顔色を窺って、母が泣いてしまわないように、喜ばせられるように勉強も習い事も頑張った。1人親であることがコンプレックスのように感じていた母に"自慢の娘"をプレゼントしたかった。

そう思って生きていたら母が敷いたレールの上を走っていた。母のためにいい高校に入って、母がなって欲しいと願った看護師になった。

一昨年私はてんかん発作を起こした。母には「病気のことを人に言うな」「恥ずかしい」「精神病だと自分で広めているようなものだ」と言われた。

そのとき、母のために頑張ってきた人生が崩れた。
自慢の娘になりたくて頑張ってきたけど、結局独りよがりだった。自己満足だった。母は自慢どころか恥ずかしいと思っていた。

じゃあ今まで何のために... 母のために捧げた人生が認められないと分かったその瞬間に今までの努力が無駄に思えて無性に泣けてきた。自分でもこんなことでこんなに泣くのかと驚くほど、私は泣き続けた。

母のためにやった努力が馬鹿らしくて惨めでカッコ悪くて恥ずかしかった。母の後を追って看護師をやっていることさえも無意味に思えた。

でもそれは自分が悪い。自分が勝手に"母のため"と謳って過ごした。自分のためにやったことで失敗したくなかったのかもしれない。言い訳にしたかったのかもしれない。自分の未来を決めることを怠って母が敷いてくれたレールに甘えていたところもあると思う。

だからこれからは自分のために生きるよ。

こんな内容で手紙を書かれたら嫌だよね。だからこれはここだけの話。手紙には書きません。

いつも母に頼ってばかりでごめん。自慢の娘になれなくてごめん。

幸せになります。 

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