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THE ACT WE ACT/2003年

THE ACT WE ACT結成

THE ACT WE ACTは高校を卒業した春休みに小学校からの幼なじみである僕(五味/Vo.)、けいご(Dr.)、てっちゃん(Ba.)、そして僕と同じ高校の同級生である関君(Gt.)で始動しました。
関君は高1の時に同じクラスになり、高校に入学してから早々に「五味君、パンクもいいけどKinKi Kidsもいいよ」と教えてくれました。
当時は全く理解できなかったけど今なら良く分かります。
人生は今なら良く分かるって事の連続で、気づいた時々でいかに次に繋げていけるかどうかが重要なのではないでしょうか。
今では僕もカラオケでKinKi Kidsの曲を歌えるようになりました。

実は最初のバンド名はTHE ACT WE ACTではなく、RADIO GYMNASTIC EXERCISEでそのまんまラジオ体操という意味なんですが、自分のベースに貼ってある小学生の時にラジオ体操で貰ったステッカーから名前をとったのだと思います。その名前で一度高校の同級生主催のライブに出てからすぐバンド名をTHE ACT WE ACTに変えたような。
その時のライブはコピーの曲ばかりでTOTAL FURY,JELLYROLL ROCKHEADS,YOUTH STRIKE CHORD,LOS CRUDOS,LIFE'S HALTとかの曲をやったと思います。
僕と関君は文化祭に出たり少しバンドをやったりしたけど(文化祭に出たバンドのメンバーにはSHUT YOUR MOUTHの井上君や、今や宇多田ヒカル、米津玄師、Official髭男dism等、数々の有名ミュージシャンの作品のレコーディングを手がけるエンジニア、小森雅仁君もいて、SPROCKET WHEELとSCHOOL JACKETSの曲をやりました)、けいごとてっちゃんはバンド初心者。ただ、みんなライブにはよく遊びに行ってたのでハードコアバンドを組んでライブをやりたいというエネルギーはめちゃくちゃ溜まっていたと思います。
同い年の友達の前でガーっと演奏してそれなりの満足感は得ていたのではないでしょうか。

初ライブ後、HUSKER DUの後にボーカルのBob Mouldがやっていたバンドという事で、何となく買ったSUGARのCOPPER BLUEというアルバム。一曲目のTHE ACT WE ACTという曲を聴いて、派手さは無いけどサビで視界が開けるような展開の良い曲だと思ったし、見た感じの字面が良いなと思った。言葉の意味はよく分からないけど多分自分達にフィットするような気もしてバンド名にどうかとメンバーに提案しました。
10代の頃のセンスとかって今振り返るとめちゃくちゃ恥ずかしい事も多いですが、このバンド名は今でも割と気に入っています。
余談ですが以前TANTRUMと対バンした時にメンバーの方から「バンド名からポリティカルなハードコアバンドだとイメージしてた」と言われた事がありました。

高校を卒業してから大学に入学するまでの長い春休みの間、僕達は地元のスタジオや時にはけいごの部屋で練習しました(案の定めちゃくちゃ音漏れしてたらしい)。
そういえばてっちゃんが最初に使ってたベース、途中から何故か下の方のフレットが剥がされて手書きで白い線が書いてあったけどあれ何だったのかな…。案の定そこを押さえても全然音出なかったけど…。
彼がメンバーで一番狂っているという事を証明するエピソードの1つですね。

初ライブ

大学に入学してまだ間もないタイミングで豊田の地域文化広場という公共施設の音楽室でライブを企画する事になりました。ライブの企画自体はジアクトを始める前からけいご、かおりさん(後にジアクトに加入し脱退、その後はジアクトのレーベルオーナーに)、なっつ(HALF SPORTSのベース、保育園からの幼馴染み)とNURSE GREENという名前で何度かやっていて、お金のない僕らは基本的に地元豊田の公共施設を使用してライブを企画していました。
後で知った事ですが地域文化広場では結構ハードコアのライブが企画されてたみたいですね。GANG UP ON AGAINSTやINSANE'N THE BRAINといった豊田の先輩バンドが企画した事があったと聞きました。
その時の僕達の企画のメンツはTHREE MINUTE MOVIE,THE HAPPENING,NAVEL,keep away from children,WE MUST BURNにせっかくの機会だからという事で、まだ結成して間もないTHE ACT WE ACTもTRAGATELOのコピー(LOS CRUDOSのMartinが監修したビデオ、Beyond the screamで流れるギターのフレーズが印象的な曲)と何とか間に合わせたオリジナル曲2曲という形でライブをやらせてもらいました。

↑LOS CRUDOSのマーチンがドラムを叩いて
いたバンド。最高。
↑LOS CRUDOSのマーチンが監修したラティーノパンクドキュメンタリー。
Youtubeに上がってる映像は英語ですが、日本語字幕付きのビデオも販売されていて相当影響を受けました。
流れている曲全てがかっこよく、このビデオで色々なバンドを知ることができました。

当日ギターの関君が居酒屋のバイトがどうしても抜けられないという事で、1番目にNAVELに演奏していただき、2番目にTHE ACT WE ACTがライブ。関君は居酒屋のバイトからそのまま会場入りしたため、厨房で着る白衣を着たまま演奏していました。
学生時代の友達で、この人がもしハードコアバンドをやったらやばいだろうなって思わせてくれる人とかって何人かいたりすると思うんですけど、関君はまさにそんな奴で、並外れた身体能力を誇り(高校時代に前方を走行している自転車の荷台に助走をつけて飛び乗って、そのまま荷台に立った状態で二人乗りした時はマジで驚愕した)、独特すぎるファッションセンスでいつも楽しませてくれたのですが、流石にこの時ばかりは実質THE ACT WE ACTとしての初ライブという場でバイトの白衣は無いだろうとちょっと思いました…。今となっては全然アリです。

↑関君はこんなのを着てライブしていました。

案の定ライブはそんな簡単に上手くいく訳もなく散々な結果に終わり、当時付き合ってた女の子から「もっとノリノリで演奏したら良くなると思う」という感想を頂いたのをよく覚えています。
でも初ライブをこんな豪華メンツの中でやらせてもらえたというのはとても贅沢な経験だったなと今となっては思えます。
この時にdepression recordsの唐木さんも僕らのライブを観ていたようで、10数年後にこの人とDO NOTというバンドを組む事になるとは…人生は不思議ですね。
唐木さんは割と早いタイミングでジアクトを企画にも誘ってくれて、とてもお世話になりました。
例えばTURTLE ISLANDやORdER,ROTARY BEGINNERSといった豊田の先輩バンドは当時の自分にとっては芸能人みたいな存在で、その先も接点は無いだろうと思っていたんですけど、唐木さんの周りのシーンの人達は僕達のようなバンドにも気さくに接してくれたし、BANNED IN NAGOYAのリリースとかもそうだけど自分達は自分達で楽しくやりますっていう感じに勝手にシンパシーを感じさせてもらってました。とても有難い存在です。

この時のライブは公共施設という事で飲酒禁止だったのですが自分含めみんなお構いなしに飲んでいたら施設の人にバレてしまいその後使用禁止を通告されてしまいました…。

早くもメンバーチェンジ、デモテープ製作

春に企画した勢いで夏にもライブの企画をする事になりました。
豊田市の公共施設は締め出されてしまったので、みよし市のサンアートという公共施設の音楽室を借りてのライブ。
確かこの日で関君が脱退したのかな…?本人は音楽性の違いと言ってたような気がしますが他にも色々理由があったかもしれません。当時の関君はジャパコアが徐々に好きになっていたようなイメージがあります。ジアクトを脱退してから音楽はやっていないと思いますが今でもたまに会う飲み友達です。
そしてこの日からカオリさんがメンバーとして加わったような…。カオリさんは僕が高校生の時から良く遊んでもらっていた2つ歳が上の友達で、一緒にライブの企画もしていたし、良く車に乗せてもらって東京までライブを観に行ったりしていました(金が無かったから高速を使わず基本下道の移動だった…)。
高校の帰り道によく家に寄らせてもらってCDや漫画を借りたり、料理をご馳走してもらったりしていたのですが、当時トヨタ自動車の仕事を辞めてフラリとアメリカに旅行に行き、何故かティム・キンセラと友達になってJoan of Arcのレコーディングに参加して帰ってきたりするような人だったので、僕らからしたら憧れの存在でもありました。というかこのアメリカ旅行の流れ、今考えても本当に意味が分からない。
とりあえずそんな人からバンドに入れて欲しいと言ってもらえたので、こちらとしては是非是非!って感じでした。

カオリさんは最初スタジオではギターを持参していたのですが、ギターを弾かずにずっとフィードバックさせてノイズを出すという演奏をしていました。その時はジアクトの曲もよく知らなかっただろうし、とりあえずそんな感じで様子を伺いながら徐々に曲に参加するのかなと思いきや、ひたすらフィードバックノイズを出しているだけで一向にギターを弾く気配がない。
最初はその前衛的な演奏に「流石だな。やっぱりセンスがぶっ飛んでる」なんて思ってたんですが、しばらくしてから、
「…この人、実はギター弾けないんじゃね…?」
という疑念が生まれ、実際にカオリさんは全く楽器が弾けないという事が判明しました。
本当に絶望的に楽器が何もできないのでFUGAZIのギーのようにとりあえずSpaceという役割を与えて好き勝手にやってもらう事になり(最終的には主に曲に合わせてフライパンを叩いていた)、僕の憧れの眼差しは180度逆の方向に向いてしまいましたが、なんだかんだで一緒にやっていて楽しかったような気もします。
というかJoan of Arcのレコーディングでは一体何を録音してきたのかって感じですが…。
余談ですが、一昨年カオリさんが名前を正式に「顔」に改名した事件は本当に衝撃的で、改めて友達の中で一番エッジーな人だと再確認した次第です。

話が少し脱線しましたが、この2回目のライブのメンツがDANCE WITH ME,WE ARE!,DAY BREAK,CURIOSO,AMOK,LIFT UP YOUR HANDS,MBOMA,THE ACT WE ACTだったかな…?
東京からのバンドは全て愛知初上陸だったと思います。WE ARE!はこの頃まだデモしか出てませんでしたが既にWE ARE!の音楽でした。
同じく愛知初上陸の三重のAMOKのライブの衝撃がすごくてヘイトフィーリング溢れまくったキレキレのライブが印象に残ってます。当時はまだデモテープしか出ていなくておそらくノーチェックの人が多かったと思いますが、ライブが終わった後に会場がザワついていた。

↑AMOKのギターボーカルの寺田さんは、来日していたMOGWAIのメンバーにenvyの音源を手渡し、それがきっかけでMOGWAIのレーベルからenvyがリリースする事になったという逸話の持ち主。


LIFT UP YOUR HANDSはSTAN HANSENやMOO MOO、後にACUTEでもギターを弾いていた加納さんや、NOT A NAME SOLDIERSのドラムの久保ちゃん(けいごの高校の先輩)がやっていたバンドで625のコンピ「日本スラッシュ革命」にも参加してましたね。ほとんどライブをやらずに解散してしまったバンドでしたがめちゃくちゃかっこよかった。加納さんは本当に独特なセンスを持った人なのでまた音楽をやって欲しいです。

↑LIFT UP YOUR HANDSが収録されているこのオムニバスには前述したSTAN HANSENも入っています。活動していた当時は高校生のバンドで、初めてライブを観た時は衝撃だった。
今聴いても個性的な音だと思うし、めちゃくちゃ愛知のハードコアパンクの音だと思います。

この日を最後に関君が脱退してしまったので新たにギターを探さなくては行けなかったのですが、同じ中学の同級生の佐々木がやってくれる事になりました。
佐々木は中学の時にサッカー部でも一緒だったのですが、当時からギターが上手いというのは知っていて、高校は別だったけどたまに一緒にライブに行ったりする友達だったので割とすんなり入ってくれました。
とりあえず音源を録ってみようって事で作ったのが最初のデモテープ。当時練習していた豊田のWAONというスタジオでテープレコーダーで一発録りした極悪な音質でした。
ジャケットは地元の友達のY'menに書いてもらい、中ジャケのメンバー写真はカオリさん以外みんな竜神中学校出身という事で中学の卒業アルバムの写真を使いました(カオリさんは校長先生の写真を使用)。
今聴き直す事はまず無い音源ですが、ANSWERやBASEにも置いていただいた事もあってこれをキッカケに有難い事にライブのオファーも少しずつ増えていきました

↑1st demo tape。THE 初期衝動って感じです。自分の顔が異様にでかい。

幻の南山大学ライブ

デモテープを録音してから確か秋頃に南山大学でライブをやらせてもらう機会がありました。
僕が高校生の時から一緒にライブに行ったりしていたミサトシさん主催で、南山大学の学祭の期間中に学内の教室を使ってライブをするという企画。
メンツは調べても情報が出てこなかったのでうろ覚えですが、the SHUWA,eye on the finish line,POCAntonio three,war crimes,THE ACT WE ACT etc…って感じでした。
昼からのライブで1バンド目に出たのがPOCAntonio three。Antonio threeにPOCAさんがノイズで参加し、当時はたまにこの編成でライブをしていた印象があります。この時のAntonio threeにはサンラさんと呼ばれていたSaxの方がいましたね。ライブ中金色に輝く帽子を被っていました。
教室という特殊な環境にテンションが上がったのか皆さん昼から酒を飲んでいい感じのテンションでライブスタート!…と思いきや、POCAntonio threeのライブが始まってすぐに学祭の実行委員の学生の方々がかなりの勢いで突入してきました。
そしてそのままライブ中止の宣告。
POCAntonio threeの爆音と学内での飲酒がまずかったようです。突然の事態に戸惑う会場内。県外からもバンドを呼んでいる事もあり、何とかライブの続行を交渉してみるも学祭実行委員の決断が覆される事はありませんでした。
その時、痺れを切らしたAntonio threeの黒川さんが実行委員の学生に向かって、
「お前らこんな事してたらろくな大人にならんぞ!」
と言い放ちましたが、その叫びも虚しく学祭実行委員の人達の「いや、あなた達みたいな大人に言われても…」とでも言いたそうな表情が印象的でした。
ジアクトも30代に入ってからはメンバーの置かれた環境等によって動いたり止まったりを絶えず繰り返しているような感じなのですが、上手くバンドが活動できない時に頭に浮かぶのがAntonio threeの存在だったりします。学祭実行委員の人には声が届かなくても僕はAntonio threeの背中を見つめ続けていますよ。

1バンド目で早々に中止になってしまったライブは、当時名古屋にはスタジオライブができるような場所もあまり知らなかったので、急遽僕らがたまに練習に使っていた豊田市体育館の隣の音楽室に移動をして行うことになりました。
南山大学から車でも1時間以上かかるような場所だったので、そこまで移動して流れてきたお客さんはほとんどいなかったかもしれません。
しかも僕は当日夜に大学のサークルの方で抜けられない用事があったので結局ジアクトはライブをする事はできませんでした。
しかし打ち上げはけいごの家でやっていたような記憶があります。
当時はお金の節約の為、自分達の企画の打ち上げをよくけいごの家でやっていました。
けいごの家はとても広く、ホットプレートで焼きそばを焼いたりして振る舞っていました。
今思い返すとけいごのご両親には当時本当に色々と迷惑をかけていただろうなと思います。

その後岡崎市の隣の幸田町のローズカラーというライブバーで、後にジアクトの2ndデモCDRのレコーディングとリリースをしてくれた柴さん(allowed,当時はNAVELでベースも弾いていた)の企画に出演したような。
ローズカラーはアクセスはあまり良くなかったものの良心的な料金システムだったので、何度もライブをやらせていただきました。確かその日にclimb the mindの山内さんがライブを観て気に入ってくれて、後日企画に誘ってくれたような気がします。
当時若さ故のエネルギーが過剰に放出されていたのか、ライブ中にマイクスタンドを壊してしまう事が何度かあり、いつの日かローズカラーでもマイクスタンドを思いっきり曲げてしまった事があったのですが、その時は自分のライブ直後にお客さんの前でそのままステージ上でオーナーさんに説教されました。
あまりにも何度もマイクスタンドを壊してしまうのでライブハウスで曲げてしまったマイクスタンドを買い取り、自分のライブの度に持ち込んでいた時期もあったし、同様にマイクも壊してしまうので、けいごの家にあったよく分からないマイクを持ち込んでいる時期もあった(福岡のライブではその持ち込んだマイクの調子が悪く、軽く感電する)。
何であんなに物を壊してしまっていたのだろうか。

当時のメンバーの生活

THE ACT WE ACTのホームページを最初に管理していたのはギターの佐々木でした。
佐々木はメンバーの中で唯一コードだとか音楽的な事を理解して、ちゃんと楽器が演奏できる奴で、今振り返ると初期はかなりバンドを支えてくれていました。
が、実は佐々木はバンド活動をしながら大学の編入を考えていて県外の大学を視野に入れているようでした。そして翌年春には東北大学に編入し、バンドを離れる事になります。
佐々木が在籍していた時期はバンドも結構ライブが入って忙しかったと思うのですが、よく合間を縫って勉強して国立大学に受かったなと思います。すごい奴です。

メンバーはみんなそれぞれ別の大学に進学しており、僕は豊橋の大学に通っていました。
大学ではフォークソング研究会というバンドサークルに入ったのですが、サークルというよりは部活みたいな感じで、毎週木、土曜は部員全員が集まらなくてはいけない集会があったり、基本イベントも全員参加でした。正直ダルいと思う時もありましたが、自分の感覚を拡げてくれたし、何より良い人ばかりで居心地が良かったので4年間在籍しました。
当時は大学が終わったら豊田に戻ってバイトに行き、バイトが終わったら終電で再び豊橋に行き、サークルのバンドの練習、もしくは朝まで飲むという感じの生活を週に何日か送っていました。そんな生活だったので授業に出られない日も多く、通っていた車校もなかなか行けず、車校は1年程かけてやっと卒業できました。免許を持ってない間はジアクトで車で遠征に行く時には荷物呼ばわりされて肩身が狭かったですね…。
けいごは大学でジャズのサークルに入りました。そこでもドラムを演奏していたのですが、ジアクトの音のノリはけいごがジャズをやっていたのが結構大きい気がします。そしてこのサークルに1年後輩で入ってくるのが後にジアクトでサックスを吹くことになるサトゥー(現在はHei tanakaで活動中)です。
けいごがサークルに入ったばかりのタイミングの時にチックコリアのライブ盤を聴かせてくれて、「これとハードコアもあまり変わらないと思う」みたいな事を言ってた事がありました。
その時はよく分かりませんでしたが、しばらくしてからファラオサンダースを聴かせてくれた時に一気に自分の中でハードコアと繋がった感覚を持った事を覚えています。
けいごは昔から音楽を知識や情報量で聴くというより感覚的に聴いていた印象がありました。
以前京都でライブをした時の打ち上げで、最近聴いている音楽やカッコ良かった音源などの話を対バンの人達と話している時に、皆それっぽい音楽の話をしている中、けいごはドリカムの吉田美和のソロアルバムを挙げていてコウヘイさん(bed,当時scroll)を驚愕させていた記憶があります。確かドラムがめちゃくちゃいいって話をしていたような。今となってはちょっと敢えて感もあるような気もしますが、それも含めてそういった感覚的な部分もジアクトの曲作りやライブに大きな影響を与えていると思います。
あとけいごがジャズのサークルにいたからか、京都で一時期「THE ACT WE ACTというMILES DAVISのカバーをしているバンドがいるらしい」という噂があったという話を聞いた事がありますが、MILESのカバーなんて僕らにできる訳ありませんから…。
てっちゃんは回転寿司のバイトに明け暮れていましたね。月10万円以上稼いでました。当時はメンバーで一番音源を買っていたんじゃないでしょうか。オーディオもいいやつ買ってたし。
当時はよく皆でてっちゃんちに集まって飲んだりたこ焼きを焼いたりして遊んでいました。
昔、豊田にマイコレクションというめちゃくちゃ安い古着屋があったんですが(年に数回あるセールでは最大70%オフまで値段が下がる)、一時期メンバーでそこでいかにやばい服を買えるか競いあっていたような時期がありました。
さすがに今は自分の服装も割と落ち着いてきたと思いますが、てっちゃんは今でも相変わらずやばいセンスの服を着てますね…。
いつの日か、ポロシャツの襟を自分で切って丸首の状態で着て現れた時は爆笑しました。それ以来着てこなくなっちゃいましたが…。
顔さんはゲーセンのバイトをしてて、これくらいの時期からdotlinecircleのツアードライバーをやり始めるのかな…?
とにかく顔が広く、顔さんがライブのオファーを受けてくる事も少なくありませんでした。

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