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THE ACT WE ACT/2004年

初名古屋ライブ、限界破滅GIG

佐々木が大学編入の為に受験勉強をしていたのは以前書きましたが、実は顔さんもこの頃大学受験の勉強をしていました。確かセンター試験はブッチしてたような。

2月にclimb the mindの企画で初めて名古屋でライブをやりました。
場所はclub daughter(後のdomina)、この時期は結構daughterでハードコアのライブもありましたね。
この日のメンツはTIALA,3cm TOUR, SAME PLACE EMPTY,URTHONA,climb the mind,THE ACT WE ACT。
当時はYouTubeやSNSはまだ無く、情報はHPやBBS、人からのクチコミみたいな感じだったのですが、TIALAってバンドがやばいらしいって話は既にこちらに届いていました。多分結成したタイミングもジアクトと近いのではないでしょうか。
佐々木はHPの管理人をしていた事もあり、TIALAのボーカルの柿沼さんと対バン前から音源を送ったりやり取りをしていたようです。
余談ですが、この日オファーしてくれたclimb the mindの山内さんから最初、「もしかしたらこの日外国のバンドも出るかも」って聞いていて、「うわ、初の名古屋ライブが海外のバンドといきなり対バンすか?」とワクワクしてたんですが、蓋を開けたら外国のバンドっていうのが名古屋在住のアメリカ人、チャーリー(現NIC FIT)がやっていたバンドのURTHONAの事だと知り、ずっこけました笑
URTHONAはちょっとMASACREっぽいところもあってかっこよかったです。それ以降何度か一緒にライブしました。
ジアクトメンバーは初の名古屋でライブという事で、僕含めかなり浮かれていたと思います。記憶があまりないですがおそらく空回っていた事でしょう。
TIALAのライブの衝撃はすごくて、短い曲の中に展開を詰め込みまくり、物凄いテンションで放出していました。
この日から今に至るまでTIALAとの交流は続いていき、僕にとって特別なバンドの一つです。
この日はdotlinecircleのカトマンさんが私物のTシャツを放出していて、僕はあまり見かけない気がするデザインのVOIDのTシャツをゲット。VOID/CODENSED FLESHをリリースしたレーベル、eye95が出したTシャツで今でもたまに着ます。ohayo mountain roadの酒井さんがEXCLAIMをやってた時に着ていたのを見たことがあるような。
けいごはこちらもあまり見ないGUYANA PUNCHLINE(カトマンさんは略して「パンチラ」と呼んでいた)のTシャツをゲットしてました。正直羨ましかった…。流石カトマンさんです。

同月には岡崎の限界破滅GIGにも出演しています。
限界破滅GIGは岡崎で90年代から行われていたパンク/ハードコアの無料野外ライブで、三河には豊田の炎天下GIGと岡崎の限界破滅GIGに影響を受けて若い人達がバンドを始める流れがありました。
ビジュアル系っぽいバンドをやっていた中学の先輩がいつの間にかハードコアバンドをやっていたり、岡崎にライブを観に行ったらツインボーカルのグラインドのバンドが出てて、よく見たらボーカル二人とも中学のサッカー部の先輩で「え!?」ってなったり。
僕らもそんなバンドの1つなのかもしれません。

ジアクトが限界破滅GIGに出演したのはこの一度だけで、
メンツはCONTRAST ATTITUDE,ACROSTIX,EFFECT,PROLETARIART,INDIVIDUAL,PSYSALIS,KEEP AWAY
FROM CHILDREN,MANIFESTO,ASK,THE ACT WE ACT
って感じで、出順はくじ引きかじゃんけんみたいな感じで決めたような…。PROLETARIARTが主催の回の限界破滅GIGでした。
自分達のライブはどんな感じだったか忘れましたが、憧れの限界破滅GIGという事で気合い入ってたと思います。佐々木は受験の為、確かライブ後にすぐ東京に向かっていきました。
EFFECTはSTAN HANSENやANSWER CRYINGをやっていたミツルさんが上京してから始めたバンドだったような。ミツルさんは上京後FINALにも加入していましたね。そして今やZIGGYのドラマーであり、TAMAのカタログにも載っているようなスーパードラマーとして活躍されています。

この日の限界破滅GIGにはNさんという女性の方が来ていました。Nさんはハードコアが好きな方で、年齢は僕の親とさほど変わらないくらいだったと思います。
この時に初めてお会いし、正直自分の親くらいの歳の人がライブを観に来てくれた事に驚きましたが、それ以上に友達や知り合い以外の人が自分達に興味を持ってライブを観に来てくれた事がとても嬉しかったです。
Nさんは熱心にハードコアの音源をチェックしている人だったのですが、とあるライブか何かでクソみたいな嫌がらせをされて以来、ハードコアのライブから足が遠ざかってしまったと聞きました。
流石にここは見ていないと思いますが、僕達がまだ何とか活動している事をお伝えしたいです。

佐々木脱退

ギターの佐々木は東北大学への入学が決まり、バンドを脱退する事になりました。
当時の編成では4月に東京、豊田と二日連続でライブをしたのが最後だったのですが、どちらも自分にとって忘れられないライブです。
東京のライブはeye on the finish lineというバンドや限界破滅GIGの初期主催メンバーだったアマチンさんとcomolevaというバンド(顔さんがレーベル第一弾でリリースしようとしてた)をやっていた西崎さんが企画してくれました。
メンツはECD,Gofish,2up,赤い疑惑,climb the mind,airport festival,the warm,タジマジック(マジシャン),THE ACT WE ACT。
今見てもすごい並びです。
ECDさんの事は当時名前を知っている程度だったので、自分達よりも周りの友達や先輩達がECDと対バンはやばい!みたいな感じで盛り上がっていた記憶があります。
会場は中野の公共施設のホールでした。
初めての東京のライブに浮かれまくった僕らは午前中に中野に到着。
腹が減ったのでカレーも食べれるローカルな立ち食いうどん屋に入店したらいきなり店員のおじさんが「うどん?うどん?天かす?」と癖のある口調でまくし立ててきたのが自分のツボに入ってしまい、しばらくそのおじさんの物真似がメンバー内で流行りました(僕だけかもしれません)。
会場入りした時にちょうどECDさんがリハーサルをしていて、少し俯きながらキーボードをサンプラーのように叩いてラップするECDさんと、めちゃくちゃアグレッシブにターンテーブルをいじくり回すillicit tsuboiさんの姿が目に入りました。
予備知識があまりなかったこともあり、全く新しい音楽体験にリハの段階でものすごい衝撃を受け、同時にとんでもない所に来てしまったという実感が湧いてきたのを覚えています。
そこからさらにライブを観て、HIPHOP以前にめちゃくちゃやばい音楽を体験してしまったという感覚を味わいました。
この日以降、ECDさんのアルバムや本を買い集めるようになり、自分にとってとても大きな存在になりました。確かこの日のライブの事はECDIARYにも少し書いてありましたね。  

この時に買ったのかは忘れたけどECDさんのアルバムで一番最初に聴いたのが「失点IN THE PARK」でした。

ECDさんのアルバムはどの時期も独特な暗さがあってそれが魅力の一つにもなっていると思いますが、自分的にはECDさんのアルバムの中でもこれが一番暗くて重たい質感のアルバムだというイメージがあります。
アグレッシブなライブの印象と違って、音もこもってて全体的にドンヨリした感じだったので最初聴いた時は少し戸惑いました。
「ホームレスだけにゃなりたくなかった」
「にごった目いつか鏡で見た」
「この世はもうじきおしまいだ」
などリリックも暗いフレーズが出てくるし、いかにも宅録って感じの音質からもヤバい人がやってる音楽っていう雰囲気が漂ってきますが、
ジャケットが反戦と落書きされた公園のトイレだったり、歌詞カードに
「Anarchy,Peace,Freedom.2003」
とクレジットされているようにメジャーを離れ自主レーベルでの最初のアルバムという事で確かな意志も感じられるアルバムだと思います。

自分が歳を重ねる程、ECDさんが最期までフレッシュな感覚で音楽をやり続けた事の凄さを実感します。音楽をやり続ける事は勿論凄いことだと思うけど、ずっと音楽に夢中でいられる事は本当に物凄い才能だと思う。
メテオナイトのようなたくさんバンドが出る日を除けばECDさんと対バンをしたのは2回、もうこの数が増える事は無いですが、本当に自分にとって忘れられない経験です。

この日は初見のバンドがたくさんでしたが、自分達以外の全アクトが日本語で歌っていたというのも今考えると後々自分にかなり影響を与えたような気もします。
当時の日本のパンク/ハードコアシーンは自分の印象だと日本語詞で歌うバンドも増えていましたが英語を中心とした外国語で歌う人も多く、自分も何となく英語の方が曲に乗せやすい感じがして深く考える事もなく英語で歌っていましたが、自分は英語をちゃんと理解している訳でも無いし、歌詞を英訳すると自分の言葉の筈なのに記号を叫んでいるような感覚になり、不自然に感じたのでやめました。
あくまで自分の話なので海外の言語で表現しているバンドにもたくさん好きなバンドはあります。

去年「Debacle Path 別冊 1 - ハードコア・パンクの歌詞を読む」というジンが出版され、海外のハードコアバンドの歌詞を様々な方達がそれぞれの解釈で解説をしていくという内容で、自分の知らなかったエピソードやストーリーも知れたりしてめちゃくちゃ面白かったのですが、同時に現地の人達と自分では絶対に聴こえ方が違うんだろうなとも思いました。
ECDさんのどうしても耳に残るフックや、BREAKfAST/眩暈を初めて聴いた時にまず森本さんの声と歌詞に耳を持っていかれた感覚は自分にとって大きな音楽体験だったのですが、言葉と音が一体となって聴こえてきて燃えるって感覚は自分にとって特別な感覚だし、それをハードコアでもっと体感したいなーとも思います。

さて、自分達のライブですが、かっこいい出演者の皆さんやたくさんのお客さんの前で怯みそうな気持ちに負けないように思いっきりやりましたが、おそらく空回っていたと思います。

少し苦い気持ちを抱えながら豊田に戻り、翌日ジアクト企画のライブ。
メンツはSTRANGE OVER THE SUN,AMOK,OTORI,SAME PLACE EMPTY,果無,KEEP AWAY FROM CHILDREN,THE ACT WE ACT。
果無(はてな)はclimb the mindの山内さんと顔さんのデュオで、当時、顔さんは山内さんの家に行って一緒に曲を作っていると嬉しそうに話していましたが、この日以降、果無は山内さんのソロになったような気がします…。
初めて観たSTRANGE OVER THE SUNのライブが猛烈なテンションでめちゃくちゃ凄かった。ライブ後に意気投合し、ギターのたかゆきさんは後にジアクトを福岡にも呼んでくれました。
これまで自分達は気持ちが空回りするようなライブばかりだったのですが、この日は佐々木のラストライブという事もあってメンバーの気持ちがまとまったのか全員納得のいくライブだったと思います。
ライブ後、佐々木は人影でこっそり泣いていました。
数年前にてっちゃんは未だにこの日がベストライブって言ってたんですが、流石にそれは更新した方がいいのではないでしょうか…。

その後、佐々木は東北大学に進学したものの、仙台で雀荘に通いだし、しまいには雀荘でバイトを始め、遂にはせっかく受かった大学を中退してしまいます…笑
仙台に行った当初はバンドもやる気で、仙台のシーンのバンドと交流があったりもしたようなのですが。
現在は豊田に戻って普通に働いているようです。去年僕らのライブに来てくれてめちゃくちゃ久しぶりに会いましたが元気そうでした。

ここまででバンドを組んでから約1年間。
書いてて自分でもびっくりしたのですがメンバーの半数が初心者のバンドが1年でよくこんな活動をできたなと思います。

ダーフク加入

佐々木が抜けて、未だにまともにギターが弾けない顔さんに後任を任せる訳にはいかないので新しくメンバーを探すことになりました。
すると、てっちゃんがバイト先にギターが弾ける奴がいると言い出し、どんな奴か聞いてみるとびっくり。
小学生の頃にたまに近所の公園で一緒にサッカーをやってた福田君でした(以下ダーフク)。
ダーフクは歳が一つ下で、子供の時以来特に絡みは無かったのでギターを弾けるとは知らなかったのですが、高校時代にバンドもやっていたとの事。
どんな音楽が好きなのか分からないけど、同じ地元という事でとりあえずスタジオに入る事になりました。

練習スタジオに現れたダーフク。乗ってきた車の後ろにはB'zのステッカーが貼ってありました。
久々の再会というほどの関係性ではなかったですが、昔の話などをしつつ、おもむろにダーフクが取り出した白のレスポールのギターの後ろにもB'zのステッカーが。
「ん?」と思いつつ特に気にせずスタジオのセッティングを進めていると、ダーフクが上着を脱ぎました。するとその下に着ていたTシャツには…B'zとプリントされていました。
初めての練習、且つツッコんでいいのか分からない関係性というのもあり、それについて何も言えなかったような気がしますが、とりあえずかなり不安に思ったのはよく覚えています。
案の定ダーフクは当時ハードコアはあまり聴いた事がなかったようですが、てっちゃんが事前に僕らの音源を聴かせてくれていたので、曲を合わせてみるとかなりしっかり弾いてくれていました。
その後、当時通っていた中華料理屋「大三元」で通過儀礼とも言える激辛台湾ラーメン(真っ黒な鷹の爪が大量に入った湯気を嗅ぐだけでむせる程の暴力的な辛さのラーメン、注文が入ると店員さんは布巾で口を覆いながら作る) を食べてもらい、メンバーに迎え入れる事に。

↑地元で中華と言ったらここです。右側の女性の絵のよく分からないポーズもポイント。

そして新編成になってからすぐにライブが決まります。dotlinecircle招聘によるCHALLENGERの来日名古屋公演にいきなり出る事になりました。
CHALLENGERはex.MILEMARKERのメンバーによるバンドでMILEMARKERよりもっとストレートなロックバンドという感じで渋めでしたがかっこよかったです。
これ以降、顔さんがdotlinecircleのツアードライバーをたまにやっていた事もあり、dotlinecircle招聘のバンドの来日ライブのサポートを頻繁にやらせてもらうようになりました。
この頃のdotlinecircleのツアーのペースがすごくて、今でいうBLACK HOLEの小坂さんや、The Lost Boysのハジメくんみたいな感じでしょうか。
多い時は年に4,5回くらいツアーしていた気がします。
dotlinecircleが招聘していたバンドはパンク/ハードコアに留まらず幅広い音楽性を持っていたバンドが多かったのですが、正直当時は自分の耳がまだ追いついていなかった感じもありましたし、お客さんのリアクションもそこまでだったような気もします(特に名古屋は結構集客が厳しめな日が多かった)。
対バンしたバンドを今観るともっと衝撃を受けたんだろうなと思ったりもしますが、それでも自分にとっては本当にかけがえのない経験です。dotlinecircleのカトマンさんにはとても感謝しています。
ちなみに今やお茶の間でも耳にする、「エモい」とか「バイブス」といった言葉ですが、僕がそのワードを初めて聞いたのはカトマンさんの口からだったような気がします。
カトマンさんは何でも早かった。
今カトマンさんが働いている渋谷のBeat cafeにもいつか遊びに行きたいです。

ライブの本数が増え始める

ダーフクがメンバーに加入してから有難い事にライブのオファーが増えていきました。
DIMMAKやcatuneからリリースしていたUSのインストバンドのFROM MONUMENT TO MASSESの来日ライブ(ベースがSquierを使っててビビった)、札幌のgreen!とCHAOTIXのツアー名古屋編(EASIESとrecord shop ANSWERの合同企画でした、ANSWERの中村さんにライブを観てもらえて嬉しかった)、fountain of rich aromaの企画で東京に行ったり、メンバー全員好きなBRAIDの復活来日ライブに出たり。
BRAIDの来日ライブでは完全にキッズになり、本人達の前でBRAIDの1stアルバムの曲をカバーするという若さという事を考慮してもどうして誰も止めなかったんだ、という暴挙に出てしまったのですが、僕らのスキルがなさ過ぎてBRAIDのメンバーは全く気づかなかったという…。
今もそうですけど常にイメージに届かないというか、再現したくても上手くできないから妙な感じになってしまうのですが、良く言えばそれが個性になっていたり自分達らしさになっているのかもしれません。

あとclimb the mindのレコ発ワンマンライブのオープニングアクトとして出演させていただいたりもしました。
climb the mindは僕達が高校生の頃にライブを企画していた時から出演してもらったり、何度も対バンしたりと、思い入れのあるバンドなので気合いを入れて臨んだライブだったのですが、てっちゃんが気合いが入り過ぎたのかライブ前に泥酔してしまい、演奏がボロボロでライブ後に初めて本気でてっちゃんに怒った気がします。
今では想像できませんが、ジアクト結成当初にてっちゃんは「とりあえず暴れてえからボーカルやりたい」と言ってたくらいなので、本来は割と目立ちたがり屋な性格がこの日は裏目に出たのかもしれません。
この日以降てっちゃんが泥酔してライブをする事はほとんど無くなったと思います(野外イベントの時に深夜の山の中で寝ていてライブ直前までステージに姿を表さなかった事はありましたが)。
そして確かダーフクはどういう関係性だったのかは知らないけどかなり年上の女性をライブに連れてきて驚愕したのですが、この日ライブ中にモニターに足をかけてギターを弾いていたのは覚えています。
ちなみにダーフクはこの時期よく「誠」とフロントに大きくプリントされたTシャツを着ていましたね。
昔大須の商店街で売っていたのを見たことがあります。


あとダーフクが加入してからスタジオ後にメンバーみんなで豊田の心霊スポットである六角堂に行った事がありました。


僕は高校時代に何度か行った事があったので多少勝手が分かっていましたがやはり怖く、建物の中や地下室を一通り見てからダーフクの運転で帰ったのですが、帰り道にいきなりダーフクが赤信号で突っ込んで行った瞬間がありました。
ボーッとしていたのか何なのか分かりませんが、とりあえず本当に事故らなくて良かったです。それ以来行っていません。
あれは本当に怖かった。

DEMO CD-R製作、顔さんの立ち位置の模索

当時ALLOWEDやNAVELをやっていた柴さんが、自らオファーしたバンドをMTRで録音/ミックスしてリリースするレーベル、willpower recordingsから話をいただき、DEMO CD-Rを作ることになりました。
willpower recordingsから他にリリースしていたバンドは、ALLOWED,same place empty,PROLETARIART, THINK BRIGADE,九狼吽,柴ヒロシ(柴さんの弟、ヒロシさんの弾き語り)、果てな(climb the mind山内さんのソロ)と、今見るとかなり幅広いラインナップですね。
レコーディングは豊田の練習スタジオに機材を持ち込んで行い、あまり細かく覚えていないのですが殆どギターを弾くところのないはずの顔さんのパートに思いっきり時間がかかり、みんなイライラしていた記憶はあります(最終的に顔さんのギターのパートは無くなったような気がする)。
ジャケットは高校時代からの友人の井上君が描いてくれ、テレビの絵の画面の部分に一枚一枚写真のネガを貼り付けるという凝った作りでした。
90's emoやDIYハードコアの7インチレコードのジャケットの感じとかを意識したのかは分かりませんが、顔さんのアイデアだったような気がします。
黒い画用紙をジャケット大にカットし、そこにプリントゴッコで一枚ずつ絵を刷っていき、乾いたらテレビの絵の画面の部分をカッターで切り抜き、そこにネガを貼り付けるという作業をけいごの家で行いました。
今考えるととても手間のかかる作業でしたが、メンバーで集まって作業をして音源を作るっていうのが何かハードコアバンドっぽくてテンションが上がりました。LOS CRUDOSとかもこんな感じでやってたんじゃね?みたいな。
このCD-Rは色々なお店やディストロで取り扱っていただき、1stプレスは完売、同じようにジャケを作るのも大変なので、2ndプレスは顔さんがなっつ(HALF SPORTSのベース)の写真が粗く印刷されたジャケを作り販売しました。

DEMO CD-R 1stプレス。
井上君はこれ以降ジアクトの音源やTシャツ等のデザインをずっとやってくれています。いつもありがとうございます!

顔さんは本当に楽器が全くといっていいくらいできなかったので、サウンド面でバンドに与えた影響はほぼありませんでしたが、今回のdemoのジャケットのように色んなアイデアを出してくれたり、ツアーの運転や、顔が広いのでライブのブッキング等で貢献してくれました。そう考えるとやはりバンドよりもレーベルの方が向いていたと思わざるを得ません…。
ただ、本人はバンド内での立ち位置を模索していたようで、確かこの時期くらいから奇行が目立つようになります。
いきなり女性用のワンピースを着てステージに現れたり、ライブの曲間に文庫本を取り出してマイクに向かって音読し始めたり、ライブで使うギターをケースに入っていない裸の状態でライブ会場の傘立てにブッさしてたり…。
いずれも事前にメンバーに何も言わずにやっていたので僕らはただ戸惑うばかりでした。

初の野外フェス出演、ローズカラー

9月に当時G-FIGHTERというバンドをやっていて、現在レコーディングエンジニアやライブPAとして活躍されている松井さんに誘っていただき、犬山の山の中で行われたコダマというイベントに出演しました。
近くに川があり、メンバーで遊んでいたらアズマさんがやってきました。アズマさんはご存知の方もいると思いますが、ライブ中にテンションが上がるとフロアからデスボイスの声援を送ってくれるいわば名古屋の名物キャラクターなのですが、この年の4月に豊田で企画したライブに遊びに来てくれて初めて知り合いました。
それ以来頻繁に僕らのライブに来てくれて、おそらく一番ジアクトのライブを観てくれている人です。
まだ知り合って間もないのに1人で山の中までライブに来てくれてとても嬉しかったのですが、あろうことか僕らがふざけて(主にけいごが)アズマさんを川に落とそうとしたら物凄い勢いで怒られてしまった事を覚えています。あの時はすみませんでした。
ライブ中にアズマさんのデスボイスに勇気づけられた事は何度もあるのですが、一番印象に残っているのが、tokuzoで在日ファンク、ペトロールズ、THE ACT WE ACTというこの先二度とないであろう組み合わせのライブがあった時に、演奏中ピクリとも動かない満員のお客さんの中で一際大きく揺れる影、そして曲が終わった後に訪れる静寂を切り裂くデスボイス…!
ライブ中に姿はハッキリと見えなかったけど、その声で確かに存在を確認し、共に戦っているような感覚になりました。
サッカーのアウェイ戦とかあんな気持ちなのかも知れません。

話が逸れましたが、コダマではまだ弾き語りスタイルだった頃の二階堂和美さんが夜中にライブをしていて、その時に初めて観たのですがとても素晴らしかったのを覚えています。確かテニスコーツも演奏に参加していたような。

ジアクトはこれくらいの時期に幸田町のローズカラーというライブバーでよくPROLETARIARTとライブをしていました。
なぜ僕らのようなバンドを呼んでくれていたのかは分かりませんが、お互いどこにも属せないような感じがあったような気もします。
ジャパコアが好きそうな人がライブ後に音源を買ってくれたり、ここならではの経験がたくさんできました。
PROLETARIARTの打ち上げでの勢いがまたすごいんですよね…。
結成したてのD-CLONEのライブ、尾張のMOB47ことVENNUXのライブ(ドラムボーカルで日本語詞のマンゲルハードコア!メンバーの方のルックスも独特だった。depression recordの唐木社長ディスコグラフィー音源出してください)、mind of asianのお姉様方のパワフルな呑みっぷり…などなど印象に残っています。
PROLETARIARTのボーカルのゴローさんがMCで言ってる事全てに共感する訳ではないけど、単純に思った事や言いたい事があるなら言ったり歌ったりすればいいと思うし、サウンドは比較的ストレートかも知れないけど(とはいえ正統派のクラストコアではないと思う)ゴローさんの言いたい事を言うスタンスが、逆にパンクは自由であるべきという事を表現しているようにもこの前久々にライブを観て思いました。
関係ないですが、ギターのガッシュさんってリポビタンDのCMに出てた西村和彦に顔似てないですか?
↑書いた当時はそう思ってましたが、最近観たライブではガッシュさんのルックスに渋みが増して寺島進に寄っていました。

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