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多様性ってなくちゃいけないものなの?

自分の前職の会社も多様性を掲げていて、いまの会社もそれを大事なものとして捉えている。

多様性が大切であることは感覚的にはわかる。でも、なぜ大切なのか、本当に人々にとってなくては困るものなのか、そんな疑問が湧いた。

とりいそぎだが、『生物多様性 - 「私」から考える進化・遺伝・生態系』(本川達雄著、中公新書) を読んで考察したことを記しておきたい。

まず本を読んで思ったことは、そもそも「人々にとってなくては困るものなのか」という疑問そのものが、私自身固定化された価値観の中に生きていることを露呈している考えだったということだ。


多様性を掲げる

参考までに前職と現職でそれぞれどのような文脈で多様性を語っているかを記しておく。

前職モンスター・ラボは「多様性」を前面に押した会社だ。企業理念は「多様性を活かす仕組みをつくる」。世界には多様な才能を持った人がいるのだが、日の目を見られる人ばかりではない。インターネットによって、より多様な人に光をあてるとともに、受け手側もその多様な中から自分の好みに合うものを見つけられるようになった。同社の創業事業は、インディーズアーティストとリスナーをマッチングさせるサービスだった。同社の現在の主力事業であるセカイラボも、世界の多様な技術力ある人たちを活かそうというビジョンでやっている。つまり、人の多様性を活かすことに目を向けているのがモンスター・ラボである。

現職ポケットマルシェは、多様性を前面に出しているわけではないが、モンスター・ラボと近しいところは、多様な一次生産者と消費者とを結びつけようとしている。政府主導で推し進められる、特に農業の大規模化や画一化にある意味抗うようなところは、やろうとしていることの一側面にすぎないが、少なくともその波に乗っからない/乗っかることができない人たちに寄与しようとしていることは間違いない。

クラウドソーシングサービスなども含め、いわゆるロングテールのマッチングを目指す事業は、その背後に「多様性の尊重」という意味合いが含まれていることが少なくない。

ポケットマルシェが目指すのは、一側面として、多様な農家漁師が活きる場をつくることだが、一方で消費者に対してその多様な価値に目を向けてもらうことも目指している。


ここまでは、すでに述べている通り、「多様な人・仕事・働き方を活かす」話であるが、農業・漁業(とくに農業)の文脈においては、「作物の多様性」という話が出てくる。


作物の多様性

この仕事に関わるようになってわかったのは、つくられている食物は実際にはものすごく多様だが、大衆向けのスーパーには決まった一部のものしかほとんど出回らないということだ。

スーパーのすごいところは、「ベーシック」と考えられる食べ物が、旬に関係なくいつでもそこそこの値段で手に入ることだ。

いろんな技術の進歩と、生産の工夫と、流通の整備と、いろんな弛まぬ努力によって、食材の旬をコントロールできるまでになった。


この大きな流れに乗っかる者たちは一層の効率性を求められる。より安く、より見た目が良く、よりいつでも手に入る、という価値を消費者にお届けするために。
より少ないコストで、より失敗なく、よりたくさん、流通に出せるようにする。逆にそうしなければやっていくことが困難なのだ。

それは、自然相手で不安定な要素の多い生産活動において、その不安定要素を限りなく0に近づけるべく人間の手でコントロールするということだ。


人間が人間たる所以は道具を使うことであり、人間はその歴史の中でテクノロジーによってさまざまな障壁を乗り越えてきた、それを踏まえても当然の流れと言って良いだろう。それは否定できるものではない。


しかしその流れは、望むと望まぬとに関わらず、生産物を限する結果も生んだ。

誰かが、かたちや大きさや価格を含む「市場に出すためのわかりやすい規格」を定め、そこに乗っかっておけば、ある意味思考停止してもOKという枠組みをつくった。

あらゆる仕組みとはそういうものである。汎用的で、ものごとが効率化される。それが、良い仕組み。


長くなったが、こうした動きの中で生産される作物の多様性は、少なからず減少に向かうのである。

これが作物の多様性の話である。


多様でなければならないのか

ここで湧いてくる疑問は、さて、果たして、作物は多様でなければならないのか、多様性が減少することは悪いことなのか、ということである。

この疑問に答えていかなければならない。


なぜこうも多様なのか

その前にまず、なぜ世の中には多様性が存在しているのだろうか。

これは簡潔に言えば、多様な環境に適応するようにして生き物は進化をしてきたからである。


生き物には、子孫を残していくことがプログラムされている。これはなぜなのかと問われても、答えることができない。そういうものなのだ。

それを「生き物は続いていくものである」と本川氏は表現した。

人間を含む多細胞からなる生物は、「死」がプログラムされているが、それでもなお、遺伝子は子へと引き継がれる。

『利己的な遺伝子』などでは、遺伝子こそが本質で、私たちのこの身体はその乗り物にすぎない、遺伝子は乗り物をかえて続いていく、そんな表現もあるように、私たちは、分裂を繰り返す原核生物だった一番はじめをご先祖に、ずーっと続いているという考え方もある。

むしろ、その続いていくために死がプログラムされていると言われている(続いていくために不都合なものを排除するため)。


話が逸れたが、生物はそうして「続いていく」ために、その環境その環境に応じて、姿形を変え、栄養の摂り方を変え、生き方を変えてきた。

そうして進化する生物はまた、それ自身が他の誰かにとっての環境にもなる。つまり、互いに関係し合っている。

植物が日向や日陰をつくったり、酸素を作り出したり、動物が植物を食べたり、呼吸して二酸化炭素を生んだり、虫が受粉して植物を繁栄させたり、誰かが誰かを食べ、また食べられる。すべてが関係しあい、激しい生存競争のなかで、戦略を変えながら子孫を残していく。それが生き物。


続いていくために多様になった。それが答えである。


私たちが多様性を軽んじてしまう理由

すべてが関係しあっている、つまり、まわり回らなくても人間の生活にも影響する話なのであるが、基本的にそんなことは実感からほど遠い。

少なくとも自分が生きている時代に、自分が生きていくのに困難なるまでの影響があるとは考えづらいし、未来は未来でテクノロジーが解決をするだろうし、もっと大事なことがあるからはっきりいってどうでもいい。

とまでは明言しないものの、実際は他人事だと思う人が多いだろう。私自身はもともと社会派だから、そう楽観的には捉えないが、それでも普通に考えてそうだよなあというのはわかる。

遺伝子を操作する術さえ身につけはじめているのだから、もはや全知全能の神的な存在になれると勘違い?しているかもしれない。そう考えている人もきっといるのだろうけど。


多様性なんか知らん

「多様性なんか別になくていい」と考えている人を私は説得しきれる気はしない。人間(自分)中心論に立ったときには、多様性が失われていく脅威について、現代を生きる者にとっては腹落ちできない。

これまで増加し続けていた生き物の多様性が、私たちの生活によって急速にその数を減らしているといったって、もともと数百万と言われている種類のうちの、毎年0.01%〜0.1%が失われているくらいで、そのくらい減ったからなんだって言うんだ、っていうお話かもしれないし。

私たちの生活が悪いと言われたって、それは私が悪いのではなく、そのように仕向ける仕組みが悪いのだからどうにもできない、という話なのかもしれないし。


人間が多様性から受ける恩恵

人間中心的に考えたときに(結局人間中心にしかなかなか考えられないから)、それでも、生物が多様であることから私たちが受ける恩恵とはなんなのか。

それは「衣食住が多彩で豊かなものになる」ことであると、本川氏は述べている。いろんな食を楽しめる、いろんなファッションを楽しめる、いろんな音楽が楽しめる。暮らしの幅を広げることができる。

そもそも私たち人間は、というかすべての生き物は、他の生き物のおかげで生きている。どれだけ科学が発展しようとも、素材=生き物がなければテクノロジーもほとんど成り立たない。

生物の種が一つ二つ消えようと、生活への影響は実感できないかもしれないが、それが「かなり」減ったときには、気づくはずだ、「あ、やばいかもしれない」って。そのときには「かつて」のくらしの豊かさは失われている。


減ったら減り続ける

ちょっと減るくらいだったら、人間にとっては実際は大丈夫かもしれないのだが、「ちょっと」が、誰か(生き物)にとっては致命的で、生態系はバランスを崩し、その連鎖によって、結果としては「ちょっと」じゃすまない状況になっているかもしれない。

実際にはどうなのか、私にはわからないけど。


人間は多様さを求める?

これは先輩と話していたときに指摘されたことだが、「主流を求める人がいれば、そうでないものを求める人が必ず出てくる」と。

それはその通りだと思う。人間社会は、本来的に"ロングテール"なのだ。マスがあって、マスじゃない多様な価値観がある。それが幾重にも重なっている。

同調もするけど、違っていたい。

。1人として同じ人間はいない。人間みんな価値観が違う。近い人もいるけど、必ず異なる部分がある。

遺伝子レベルの違いもあるけどやっぱり育ってきた環境が人それぞれだから価値観もそれだけ多様化する。

そんな多様な私たちは、やっぱり選択肢も多様な方が嬉しいし、楽しい。自分らしい選択ができるから。


多様性が失われ、画一化するということ

画一化とは、極端な話、私もあなたも同じ価値観に従わなければならないということ。

それっていうのは、押し付けている誰かと押し付けられている誰かがいるということ。

常に押し付けている側は気にならないが、押し付けられている側は、その抑圧に耐えているか、順応するか、声を上げて反抗するか、屈してグレるか、である。


私たち人間は社会的な生き物であり、他人と社会的な関係を持ちながら生きていく。だから、実はその抑圧と被抑圧は必ず生まれる。

しかし私たちはそれでも様々なコミュニティと様々な関係性を持ちながら、バランスをとって生きることができる。あまりにも抑圧に耐えられない場合は、逃げることだってできる。自らが働きかけて、変えていくこともできる。


ただ、圧倒的に世の中を支配する仕組みからは、逃れられないし変えられもしないことがある。

みんながみんな幸せになる仕組みはあり得ないが、現状我々が乗っかっているシステムは多くの不幸を生んでいることは否定できない。

そして、そのシステムは、多様性を許容しづらい仕組みとなっている。


お金という共通価値

お金は、人間の活動を便利にする道具として生まれ、そしてあっというまに世界を支配した。

さまざまな組織、国と、あらゆるレイヤーで指標にされるお金の存在。国にとってのKGIは、GDP。それもお金で測られる。
そしたらそれに紐づく施策も、当然そのためのもの。

「結局それでなんぼ儲かるの?」

その思惑で、国際社会との調整が行われ、各産業へ施策が落とされる。


お金という価値によって、正解が決められている。私たちはもうそこへ疑問を持つのも難しいくらいに、その価値観を受け入れてしまっている。(グローバル資本主義がまだ浸透していない"フロンティア"はのぞく)

圧倒的に支配力を持つこの仕組みから、逃れる術をわたしは今のところ見つけられない。そして、そうではない仕組みをまだ誰も提案することができない。


そうして単一的な価値を正解とする思想に則った国の政策のなかで、私たちは「自由に」経済活動するのである。


私たちはお金以外の価値を認識しつつも、お金を越える価値を実際に認めることができていない。


そしてまたお金は、自然に存在する多様な価値を受け入れることも評価することもできないのである。

お金にとって多様性はあってもなくてもいいものだし、そしてまたお金を指標として生きる人間社会にとっても同様なのだ。

そういう社会にとって多様性が必要なのはそれがマーケティングのネタとして使える時くらい?

私たちにとって多様性が必要ないと言い切ることはあまりに簡単なのだ。


"ダイバーシティ"

しかしやはり人は、そうして多様性を蔑ろにされることを見過ごすことはできなかった。

ダイバーシティとうたって、女性の働きやすさ、障害者の雇用率、そういったものの基準値を定めるようになった。

自由にやらせて暴走してしまうことについては、ルールで縛って規制をかける。

このダイバーシティのための規制がいいか悪いかについては別の機会に譲りたいが、「多様性を活かそう」という考えが組織運営において少なからず浸透していることは見て取れる。

そして、「ダイバーシティが豊富な方が組織として強くなる」という理論もこうした動きを後押ししている。


人材の多様性と生物多様性は別のもの

人間は、同じ人間に対しては強く共感力を発揮するが、それ以外の生き物に対しては微妙だ。

ありんこについて自分たちと同じ土俵では考えない。鯨のことは擁護するが、豚や牛や鶏のことは気に留めない。ましてやゴキブリに対しては、敵対心剥き出しだ。


これまで散々殺しておいてあと100しかいませんとなると、やばい、守らなきゃ、となる。


ミニトマトの品種が200種類、必要ですか?

必要か必要でないかと言われれば今の自分にとっては必要ない。

物事が単一化されていこうとも、多様性が減少して行こうとも、たいていの人は無関心だ。

どうでもいい、関係ない。

でもヤバくなったときに慌てふためいたって、それは自分の責任だ。自分たちの何気ない日常生活、日々の判断、それの積み重ねでしかない。


こういうひとを責めるべきか、という問いは常に私にとって難しい。そして責めたい気持ちはあるけどたぶん責められない。私もまったくもって完璧ではないから。


人間様ではないということ

人間中心→自分中心主義-つまり、自分自身は自然や周りにいかされているという意識を持てない-でいる限りは、多様性の必要性をみとめることはできない。

かといって人間中心主義や経済合理主義的な考えを否定したり覆そうとすることはとても難しい。

でも、よくよくよく考えてみれば、人間>その他の生き物 ではない。他の生き物がいなければ私たちは生きることもままならない。多様な選択も許されなくなり、すごく究極的には人間自身も個性を奪われ、互いを認め合う関係性も難しくなる。


流れに抗う

つねに生物は環境に応じて進化をするわけだから、日々日々、生き物は勝手に多様になっていっていく。でも、今の状況は、多様性が増す速度よりも失われる速度が上回っているという話だと思う。

我々が先進国レベルの経済活動を今後も同じように続け、それに新興国も続いていくとなると、ますます減少の速度は速くなる。


生物の多様性が失われると同時に私たちの多様な価値観も脅かされる。


難しいのは、昔と比べて今は、そういう犠牲のもと良くなっていることもあるし、悪くなっていることもあるということだ。

常に何らかの犠牲はつきものだから、いまの状況はむしろ称賛すべきことなのかもしれない。そう考える人も多いだろう。

でも常に現状満足ではいけない。課題が見えたらよいよい未来のために力を尽くすこと。それが必要。だから私は疑問を持ち理想を描くことは大事だと思う。


でも

でも、私だってそんなにストイックに生きられない。目の前のことに精一杯で理想の生き方ばかりを追求できない。

だから今はまだ皆にも強要しない。好きに生きたらいい。でも、自分や周りが生きづらさを少し感じていることに気づいたなら、そのときは自分の生き方、社会との関わり方を見直すとき。

そういう人が1人ずつ増えていけば、多様性の保護を越えて、もっと良い未来をつくれると思う。

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