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「社会はなぜ左と右に分かれるのか」—"Why Good People Are Divided by Politics and Religion"

人はなぜか、対立する。

それぞれの人が「これが正しい」と考えることが、なぜこうも食い違うのだろう。

人と分かり合いたいと思う一方で、分かり合うことはほとんど無理だと諦めている。

「だって、自分の方が正しいから。」


そして、可能ならば、意見の対立する相手を、納得させたいとすら考えている。

「原発は廃止すべきだよ。なぜなら人にこれだけ被害を与えるんだ。またいつ事故が起こるかもわからない。とても持続可能なエネルギーとは言えない。なあ、そうだろ?」

「原発を止めるべきでない。なぜなら今後日本で必要とされるエネルギーを原発なしで賄うことはできない。莫大な費用を必要とするし、他のエネルギーにだってこういうマイナス面もある。なあ、そうだろ?」

それで相手を納得させられたことはあるだろうか?


「まず直感、それから戦略的思考」

なぜなら、「原発はよくない」というのはまず基本的に「直感」なのだ。

「社会はなぜ左と右に分かれるのか」—ジョナサン・ハイト著よりいくつか引用する。

道徳的な直感は、道徳的な思考が始まるはるか以前に、すばやく自動的に生じる。そして前者は後者を駆り立てようとする。

つまり、「原発よくない」という直感がまず自動的に生じ、その直感が思考を開始させようとするのである。

また、「道徳的な思考」というのは、「真理を発見するための道具」ではなく、

自らの行動を正当化し、自分が所属するチームを守るために人類が発展させてきたスキル

だと言う。

人は何らかの判断を行うと、その正当性を説明すると自分が信じられる理由を作り出す。だが、この理由付けは、あとから考えられた合理化にすぎない。

「判断と理由づけは別のプロセス」だと。

直感は思考を開始させるが、後者による理由づけが成功するかどうかには依存しない。

また、「道徳的な判断は主観の表明ではない」と言い、

「なぜ自分がある特定の判断に至ったのか」を説明する現実的な理由を再構築するために道徳的な思考を働かせるのではなく、「なぜ他の人たちも自分の判断に賛成すべきか」を説明する、考え得るもっとも有力な理由を見い出すために道徳的思考を働かせる。


つまり、私たちは「これは正しい」と信じて思考を発展させたとしても、もちろんだがそれが真理であるとは限らない。そもそも直感から思考はスタートしているのだから。ただ、相手を納得させることが不可能というわけではない。

まず直感が生じ、思考は通常、判断が下されたあとで、他者に影響を及ぼすために働く。しかし議論が進行するにつれ、他社の提示する理由によって、直感や判断に変化が生じる場合がある。

道徳心理学の第一原理は、「まず直感、それから戦略的思考」である。これのメタファーとして、筆者は象(直感)にまたがる乗り手(思考)という例を用い、「乗り手の役割は象に使えることである」とした。

道徳や政治に関して誰かの考えを変えたければ、まず<象>(=心の自動的なプロセス、情動、直感)に語りかけるべきである。


筆者は、理性崇拝・合理主義をやめようとすら言っている。「どんな人物のものであれ個人の思考能力には、用心深くならなければならない」と言っている。なぜなら

思考する個人は、自分の立場を指示する証拠を見つけるという、一つの仕事に長けている

からであり、

思考は、自分が望むほとんどどんな結論にも導いてくれる。なぜなら、何かを信じたいときには「それは信じられるものか?」と自問し、信じたくない場合には「それは信じなければならないものか?」と問うからだ。その答えは、ほぼどんなケースでも、前者は「イエス」、後者は「ノー」になる。


「道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする」

なぜ人々は政治や宗教をめぐって対立するのかと言えば、それは

私たちの心は、自集団に資する正義を志向するよう設計されているから

であり、そのことが、

自分たちとは異なる道徳マトリックスのもとで生きている人々と理解し合うことを、不可能とは言わずとも恐ろしく困難にしている。
ひとたび何らかの政治グループに参加すると、人はそのグループの道徳マトリックスに深く関わりはじめ、グループの大きな物語の正しさを再認識させるできごとに、至ところで出会うようになる。そして、自グループの道徳マトリックスの外側から議論を仕掛けられても、自分の間違いを認めることはまずない。


おわりに

右派と左派が何に基づいて道徳的判断をしているのかについては、本記事中では省いた。興味のある方は、本書を読んでいただければ。

今思うと、私は学生の頃からだいぶ直感に基づいて、思考を発展させてきた。自分を取り巻く世界が灰色だったときには、「こんなに灰色な世界をつくってしまう、世の中の仕組みはおかしい」と言って、なぜ「世界は灰色なのか?」を探ろうとした。そしてその直感を助ける、多くの文献が見つかり私は安心して自分の思考を発展させた。

また時が経ち、自分の象に変化が表れ始めると、すなわち世の中をまた違った視点で眺めるようになり、今度はその視点を補強する書籍をあさるようになる。

「思考は、真理を発見する道具ではなく、あとづけの理由を探すための道具である」

このことを理解している人が増えたら、対立する人々はもう少し歩み寄ることができるだろうか。

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