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人間とは命とは死とは愛とは―ロボットとの対比から考える(DEATH FES. memo)

WIRED主催のDEATH FES. に行ってきたのでその備忘録として。

▼DEATH FES. by WIRED / Dec. 3, 2014 / Speaker: Hiroki Ishiguro, Keiichiro Shibuya (Special Guest)

最初に自分なりのまとめを。

まとめとか感想

長年連絡を取っていなかった人がいたとして、その人っていうのは私の意識の中では生きていて、つながっている。時々思い出したり、ほとんど思い出さなかったりする。突然その人の「死の知らせ」がきたら、その瞬間あるいは暫くの間、悲しんだりその人の存在を惜しんだりするかもしれないけど、その人の死を永遠に意識し続けることは難しい。だって暫く会っていなかったし、実感としても持ちづらい。肉体がずっと自分の傍に在ったわけでもなかったら。

自分の家族や愛する人、より身近な人が死んだら、もしかしたらずっと引きずるかもしれない。じゃあもしその人の肉体が滅びても、意識がここに残っていたとしたら?一回滅びても、まったく同じ姿をして、まったく同じ意識を持った存在が、再び現れたとしたら?悲しみは半減するだろうか。もしくはもう悲しまなくてもいいのだろうか。それはわからない。

そして、今のところまだ多くの人は、そもそもそんなことが不可能だと考えている。だからこそ、まだ人間の物理的な身体や命というものに対して、価値を感じている人が多いのだろう。

しかし石黒博士は終始、物理的な身体にも、命にも、ひいては人間自体に、絶対的な価値はないのだと言っていた。

だから人間の存在価値や、生きる目的も、ないといえばない。あるとしたら、人間とは、自分とは、自分の価値とは、ってなことを探すことだと。

アンドロイドをつくろうとすると、人間とはなにかを考える。人間にとっての死とはなにか、理解するとはどういうことか、なぜ行動するのか。それで、例えば、行動とは意図と欲求のネットワークによって引き起こされるものだから?そのモデルをプログラムしていく・・・

ようわからん。

最近もやもやと考えていた、ロボットと人間の共存問題については、石黒博士は以下のような感じのことを言っていた。

人間がロボットを恐れ、すなわち仕事を奪う存在のように考えるということは、能力主義に陥っており、そういう意味では人間はロボットに勝てなくなる。本来人間は技術によって様々な「身体的制約」を超えてきたのでり、つまりそうして道具を使うということ、それこそが人間たる所以である。それなのに、人間とロボットを比較して、「何が違うか?」と問うことはナンセンスである。

この人は人間のことをもう理解しすぎてしまっていると思った。脳科学者とかもそうなのかな。でも探求は終わらないんだね。

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※以下は主に引用ですが、私の理解不足とバイアスにより、色々とズレている可能性がありますので、ご了承ください。責任はとれないよ。

技術によって進化する人間

道具を使うのが人間である。人間は機械によって、様々なあり得ないことを可能にしてきた(身体的制約の克服)のであり、人間と機械は切り離すことができない。人間とロボットの違いは?と問うのがナンセンス。人間は機械にできないことはほとんどやっていない。

命の価値

命に絶対的な価値は無い。自動車の事故で毎年5,000人が死ぬけど、それでも車を使うのはやめない。原発の事故で2万人が死んだけど、それでも死んだのが他人であれば、比較的簡単に忘れてしまう。
物理的な身体が死ぬことにあまり意味はない。
社会的に「死んだ」ら、それが「死」。

自分の経験は社会にある

人間の経験は社会の中にあるのであって、自分の中にあるのではない。社会の中でどれだけ経験が残るかである。

アイデンティティのピーク

人間には(能力の?)ピークがある。例えば歳をとると、勝てなくなってくる。じゃあ、それっていうのは「価値が下がっている」ということなのか?この時点で、人間の価値に絶対性は無いと言える。

非人間に憧れる人間

たとえば、疲れを知らない綺麗で完璧な歌手。人間は非人間的になれるように努力する一方で、人間でありたいと言う(機械との違いを見つけたがる)。

自分を知るために他人と関わる

身体は全て外を向いているので、自分の内側のことが一番わかっていない。周りに映し出すことを通じて自分を知る。本当に自分に興味がない人しか孤独になれない。

技術が進歩して人は不幸になったのか?

6年くらい経つと世の中の仕事の半分くらいが変わる。技術が変わっていくので。じゃあ数年前とくらべて、不幸になったか?どんどん地獄へ向かっているか?そうではないと思う。どんどん新しい仕事をつくるだけ。

貨幣経済は人間が進歩していない証

結局カネってなるのは、アホでもわかる基準である。豊かになると、知識や繋がりといったものが大事であると実感できるようになるのでは。仕事という概念がダメ。仕事でなく人との繋がりに価値を感じられるようにならないと。人との繋がりというのは単純にお金にしづらいものである。

物理的な身体は薄れる

オリンピックよりもパラリンピックの方が人間っぽい(=道具を使って身体的制約を克服するという意味で?)。町中でハンマー投げている人は見たことがない。

人は想像で人と関わる

 声+体
 見かけ+体
 におい+体
 声+におい
といったかたちで、一つの表現がもう一つのことと繋がったときに人間の存在を感じる。cf. 人間の存在感を持つ最低限のロボット、存在感メディア「ハグビー」

人間の存在意義、生きる目的

生きる目的というのはわかっていない。あるとすれば、一生懸命人と関わって人とはなにかを理解しようとするということ。価値とは何かを探すこと。人と話すときには、自分や世の中を知りたい(客観視したい)と思って話している。客観的にものを見るというのは動物にはない人間特有の能力。客観視するにあたって技術を発達させてきた。

意図や欲求を持ったロボット

前提:欲求が意図をうみ、意図が行動・発話を生む。
一問一答を超える対話能力を持ったロボット=他人の意図・欲求を理解するロボット
人間は自分の理解できることしか理解しない。つまり自分の中にあるモデルを元に他人を理解する。
だから、ロボットに何らかのモデルをもたせ、それを元に人間の意図や欲求を理解する

人間はアンドロイドを恐れる

アンドロイドを怖がっているということは、自分の存在以上のものとして受け入れなきゃいけないと考えているから?ロボットがいて普通の世界になるし、ときが経つにつれて捉え方も変わるでしょう。人間はロボットより偉いのか?いやそんな偉くないんじゃない。

人間がロボットを好きになる/愛とは?

ロボットが人間の意図や欲求を理解するようになると、人がロボットのことを真剣に好きになるケースが出てくるかもしれない。いや余裕でありえる。意図・欲求が予測可能で、共有できるから、好きになる。つまり、愛とは「意図のネットワーク共有」問題なのか?

人間はたいして学習していない

ロボットはまだ「自律的学習能力」を欠いているというけど、人間もたいして学習していないかもしれない。もともと遺伝子にほとんど書いてある可能性もある。
学習するんだったらもっととんでもない人とか出てきてもいいのに、みんなほとんど予定調和的に育っていって、成長が止まるのだとすると・・・
ロボットにとっての学習もそんなに夢みたいな話ではないかもしれない。もしかしたらデータ量だけの話かもしれない。

人間は「信じたい」動物

人間はきっとこうだろうという予測だけで動いている。信じないと行動につながらない。

アンドロイドもオ○ニーする?

意図と欲求を入れたならするんじゃない?身体と心はリンクしている必要があるから。身体があるから、記憶もできる。

悲しいってなに?

悲しいという感情はトレーニングしないと生まれない?悲しいと言葉にするのは人間だけ。痛いというのは一番強烈で、そういった状態は共有しやすいが、悲しい・嬉しいは教えないとわからない人出てくる。

ロボットの死と人間の死

ソーシャル・ネットワークなどで、簡単に存在をネットワーク上から消すことができる。それって死っていうこと?バーチャルリアリティ的なものがあって、もう物理的なところだけで生きていない。(だから物理的な身体が意味を持たなくなっている)
「○年経ったら終わる」みたいにタイマーを持たせたほうがロボットらしくて綺麗かも。
学習するロボットは寿命があったほうがいいかもしれない。学習は適度な情報量を前提としているから、設計者の想定する情報量を超えると頭おかしくなる?だから頭のおかしくなったロボットは、死ぬみたいな設定とか。いろんなこと知りすぎてつまらなくなって自殺するみたいな。ある意味で人間のうつ病と近いかもしれない。人間はネガティブなことを考えていると、病気になる、寿命も短くなる。
ロボットは人間の脳の機能をベースにつくっているので、人間に似てくる。


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