「創造」によって現実で生きる—『現実脱出論』
新しい自己啓発
私は自己啓発本があんまり好きじゃないからあんまり読まない。だいたい内容は薄っぺらいし、それを実践しようと思っても自分のスタイルには合わないことが多い。
でも、私が尊敬してやまない坂口恭平氏の新刊『現実脱出論』は、なんか新しい自己啓発本みたいだと思った。
だって、この本を他になんと表せばいいのだろう。エッセイ?「○○論」っていうタイトルだから小難しい学問書?なんか違う気がする。坂口氏の頭の中を晒して、「ほら、こういう考え方もあるよ」っていうのは、なんだか自己啓発本のスタイルに似ていると思ったのだ。
でもそんなのはどうだっていい。この「啓発本」は、私が嫌いなタイプの、陳腐な「啓発本」ではなかった。
そもそも私は元々坂口恭平ファンである。
私が「現実」が嫌だと思ってもやもやしていたときに、『独立国家のつくりかた』は一つの解を提示してくれた。私と似たようなもやもやを、とうの昔に経験し、彼の思考は私の遥か先を行っていた。そして思考するにとどまらず、彼はそれを体現しようとしていた(あるいは体現していた)。私が「現実」と、「夢」の間を行ったりきたりして煮え切らない生活をしているときに、彼は「現実」と見切りをつけているように見えた。
思考は完璧には表現できない
さて、ここで『現実脱出論』から一つ引用したい。
学習机の巣を作った僕は、結局それに一番近いはずの建築家という職業を選ばなかった。正確には大学で設計を学び、卒業後一年ほど設計事務所に通ったので、選ぼうとはした。しかし、最終的に選ばなかった。そのおかげで、どうしたらよいのか分からない混沌とした時期が長く続いた。
僕がやろうとしていることは、現実という世界には存在していなかったのだ。建築家が一番近いと思ったけれども、やはりそれは僕がやろうとしていることをかなり切り接ぎしないと合わないなと感じた。
これはまさに私が考えていたことだった。
私は以前、「仕事とは表現の場である」ということを言っていた。すなわち、自己あるいは、自分の価値観を体現できることこそが、究極的には理想の仕事なのではないかと。
しかし、自分の思考していること、あるいは思考によって築き上げたもの、坂口氏の言葉を借りるならば思考の「巣」なるものを完全に表現できる仕事などこの世には存在しないのではないかと思った。
思考を100%具現化することはできない。よって現実に存在する、具現化された「仕事」の中に、自分の思考とぴったり合うものなどない。それは仕事だけの話ではない。何かによって表現を試みたとして、それは「完全な表現」ではない。
現実に合わせて生きていくということは、このように自分の思考を切り接ぎしないといけないのか。
そういうことなんだと思う。
自分の頭の中にあるものを、文字に書き起こしてみる、誰かに話してみる、音楽にしてみる、絵に描いてみる・・・・それらをもってしても、私の思考の「巣」を完璧に誰かに伝えることはできない。
私はこの共感ができただけで嬉しかったのだが、坂口氏は、さらに「創造」の重要性について語っている。
現実とは、創造とは
しかし、それでも私たちは「現実」において他者と対話をするために「創造」をするのだと。
-----ここからは引用がつづく。-----
まず現実とは何であるのか。
現実とは、人間という集団が作り出した「生き延びるための建築」であると言える。それは人間が集団を形成するために創作した必要不可欠な空間なのだ。
現実は、「個人にとっては仮想空間」だが、「集団にとってのみ実体のある空間」であり、「他者と意思疎通するための舞台」として存在するという。
しかしそこでは、集団がうまく機能するために規律などが重視され、個人の多様な思考は追いやられてしまうと。
だからこそ、現実という空間において、個人同士の巣を無事につなぐ橋のようなものが必要になってくるのだ。他者の思考との邂逅、対話を直接的ではないにせよ、可能なかぎり滑らかに実現するための方法とは一体何か。僕はこれこそが「創造」であると考えている。
現実では、思考そのものが生のまま残ることはない。つまり、創造なしに、思考は現実において生き長らえない。創造という伝達装置によって、初めて思考は他者に伝わっていくのだ。
私たちは、現実において、伝わる形で、表現するしかない。つまり「創造」を。
*****
引用はここまでとしよう。
現実における違和感を出発点に、人は思考を深く発展させていく。私の場合はそうだ。その思考の行き着いた先の真偽はわからない。というより、永遠にどこかに行き着くことはない。
それでも、そのつど、私は創造を試みる。いや、試みなければならないのだろう。
現実において、それに近い仕事を選択し、それによって「創造」するも一つ。文章や絵や音楽によって「創造」するも一つ。ただそれは、手段でしかないのだ。現実という空間において、他者との対話をするための。
そういう次元で考えたときに、一つの仕事に固執したりすることはなんだか変だ。私からすれば思考は都度変化していくものだし、それに伴い、都度「創造」の仕方が変化していくのも当然のことだ。これは、自分に対してではなく、今いる場所での違和感が大きすぎて苦しむ人に言いたい。
しかし、そう簡単ではないのは、「現実」のせいではなく、思考そのものがあちこち行くことだ。Aが正だと思うときもあれば、Bが正だと信じたいときもある。
だから、現実の、今身を置いている場所において、「あれでもないこれでもない」ともがき行きつ戻りつすることも悪いことではない。そう思うことにしている。
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