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食べるについての考察。なぜ(命を)食べないと死ぬのか、現代に共食は必要なのか

あけおめです。ぬのいです。

今年はアウトプットの量とスピードがテーマなので、がんばって苦手なアウトプットをしていこうと思います。


さいきん、日本文化に詳しい原田信男さんの『食べるって何?ー食育の原点』という本を読みました。

なぜ読んだかというと、「食べることは生きることだ!」って良く聞くし、たしかにそうだとは思う一方、実際どういうことなの?という疑問が湧いてきたからです。

あと食の事業をやっているわりに食のことが全然わからなくて、食を通じて暮らしを豊かをするという意味について考えたいと思ったからです。


この本を読んで2つくらいの気づきがありました。

1. 生き物は他の生命を食べ物として取り込む。そのことによって生命を維持できるし、それこそが生きているということであって、食べるということである。そしてそのために「おいしい」と感じるし、お腹も空く。

2. 人間は他の生き物とは違って共食をする。そうするようになった要因として、二足歩行がでかい。


食べること、生きること、死ぬこと

①の「生き物は他の命を食べて生きている」ということは、うちの代表も良く言っていることなので感覚的に知っていました。

今は生産現場と食べる人とのあいだに隔たりが大きいため命をいただいているという認識をどうしても持ちにくいものの、お肉しかり、お魚しかり、もちろん野菜であっても、それは他の生き物を食べている、ということになります。


ただその先が、とても難しい。一筋縄では理解できない。

実際にはこう書いてありました。


絶えず生物は、周囲の環境から、食物という負のエントロピーを取り入れることで、平衡状態を作ることなく、生命内部の流れを持続させなければならないのである

地球の環境と生命は、同じ分子を共有しながら、それをお互いに入れ替えることで共存しています。つまり炭素や窒素や酸素を構成する分子が、生命の体内組織の一部となって、環境との間を行ったり来たりしながら、時間の流れの中での生命活動の継続こそが、"生きている"ということの実態なのです。

そうした物質の環境と生命との交換の流れが停止したとき、生命は死を迎えます。だから私たち人間という生命は、タンパク質を食べ続けなければならないのです。そしてタンパク質は、植物が長い時間をかけて作り出したものか、動物そのものからしかえられません。



出たぞエントロピー!熱力学第二法則!!ぜんぜんわかんないやつ!!

私の非常に拙い解釈によれば、最初の引用の部分は、

食べないと死ぬ理由が書いてあります。


この世のぜったい逃れられない法則、「エントロピー増大の法則」というやつがあって、私の過去のメモによれば、生命というのは放っておくとエントロピーが増大して死んでしまうと書いてあります。

そのエントロピーというやつが何なのかというのは、私には全くもってよくわからないのですが、食べ物=マイナスのエントロピーを食べて排泄を行ったりすることによって、エントロピーを減少させ、生命活動を維持できるらしいです。

これまたメモに書いてあったことを引用すると、

私たちの生命や生活、経済的営みは、エントロピー増大の法則に逆らってエントロピーを減ずることによって成長している

とあります。

だから、死なないためには食べる必要がある。というのが最初に書いてあることです。(エントロピーがわからないと何もわからないけど)


そして引用の二つ目と三つ目に書いてあることは正直よくわかりませんが、自分の外側にある分子と自分の中にある分子、これが互いに入れ替わるその流れこそが、生きているということなのだと。


それと関係あるのかわかりませんが、人間を含む生物の中の細胞はこの瞬間この瞬間に死や再生を繰り返していて、細胞レベルで見れば今の自分と、昨日の自分はほとんど別物になっているんだ、という話ありますね。

また、生物個体としては死ぬことがあっても、遺伝子は基本的に次から次へと受け継がれますし、他の生き物を殺して食べるということも、他の生命がまた別の生命の血肉になるという捉え方もできます。

そう意味で我々人間も、はるか昔の単細胞生物だったときから命をずーーっと繋いでいるのです。

また個体として死ぬということも、それは地球の環境にとって必要なことだから死ぬ(不都合な遺伝子を消去する)のだと、そういう話もありました。


そこらへんはもう私の理解の範疇を超えてしまうけれども、それらの話と無理やりつなげて考えてみてもやはり、地球上の生きとし生けるもの全ては本当の意味でつながっていて、その中で命あるいは分子?の交換のやりとりをすることで個体は生命を維持するし、また命を次へ次へと繋いでいくために、常に地球という環境において誰かが死に誰かが生きるということを繰り返しているんだろうと思います。

命というのか遺伝子というのか、それが続いていくことがすべての目的であると、どこかに書いてありました。

そのために食べるということが必要とされるのだし、さらにそのために私たちはお腹を空かせるし、美味しいと感じる味覚を持つということなんだと理解しました。
(ああ下手くそな説明。まだまだ理解しきれていないので、今後の宿題とします。。)


「人は一人では生きられない」だから共食をする

つづいて二つ目の共食について。

餌を巣に持ち帰ってみんなで一緒に食べる。これは人間に特有のことだそうです。特に、誰かに乞われることなく分配を当たり前とする点が猿人類などとも決定的に異なる点のようです。

そしてこれは、「人は一人では行きていけない。」という当たり前っぽい言説に結局は行き着きます。


むかしむかし、猿人から原人へと進化したくらいのとき、人間は狩猟をしていました。人間よりもはるかに巨大で強い動物たちに立ち向かうため、道具を使用したことはもちろんのこと、集団化することによって身体的な弱点を補い、狩猟をスムーズに行ったのだとされています。

もちろんその過程において頭脳の発達が重要であったことは言うまでもありません。


本書を読むところによると、まず完全な二足歩行によって、両手を自由に使える状態を手に入れ、道具の使用がはじまりました。

同時に頭脳の発達(それには肉食が必要であった)が起こっており、生存競争のなかで知性を活かした集団化や技術を発達させてきました。またその集団で意思疎通を図るために、特有の声帯と言語を発達させてきたとされています。


いま同じオフィスで仕事をしている同僚に猟師見習いの方がいるのですが、彼がある日、週末に狩に行ってきたと言って、たくさんのイノシシや鹿の肉を持ってきたことがありました。

そのときに聞いた話ですが、猟師の世界では必ずチームで狩を行い、その狩への貢献度云々は関係なく、獲れた獲物については全員で均等に分け合う文化があるのだそうです。


繰り返しになりますが同著によれば、狩は一人ではできないという大前提に加え、また「個体的には弱い人間が、集団で生活を営」むものなので、狩猟を行う者だけでなくそれを取り巻く人(女や子どもなど)にも食料が分配されるというのが当たり前であったそうです。

つまりその集団性こそが人間らしさであり、歴史的にはそのために共食を行ってきたのです。

人間は一人では生きられず、必ず家族や組織という集団で、それぞれに分業を受け持ちながら生活していく必要がある

その意味で共食は、人間関係の緊密さを確かめ合うものとして文化的にも根付いていったようです。


共食は今の時代にも必要なのか

共食の歴史的な意味はわかりました。では、孤食孤食と言われるなか、現代に共食は必要なのでしょうか。

同書を読むところによると、共食は人間関係(とくに家族)の親密さを確認し合うためのものという意味合いが本来的にあるようですが、ドライに考えれば、「人は一人では生きられない」という状況が、狩猟時代のように"食料獲得"と直結しているとはそもそも実感しづらくなっており、それゆえ「同じ釜の飯を食う」ことが果たして親密さの確認になるのかという疑問が湧いてきます。

同書にもあるとおり、食料獲得に占める時間が減少して社会的分業が進みそれ(食料獲得)以外の仕事が増加した今、共食の意味も同時に薄れたのではないかと思います。
その点においては、歴史的意味にとらわれて孤食はいけないと声高に叫ぶものではないとも言えそうです。

一方で、より情緒的な意味において、共食の時間が重要であることは、多くの人が認めるところかもしれません。

すなわち、家族が共に過ごす時間として、食卓を囲む時間を持つべきという考えです。

それが食の時間である必要があるのかというとキリがないので、その議論は割愛しますが、"食料獲得のための現金獲得"が忙しい現代人にとって、(子どもに現金獲得装置と思われないためにも、)共に過ごす日常の時間が必要と思われるのです。

かつて、男の仕事=食料獲得という時代、その成果が死活問題であったから、「食料を持ってきてくれて有難う」というのがあったと思います。
今も「食べるために稼いでくれてありがとう」というのはありますが、一方で「稼いでくれるけど、何もしてくれない」というのもあると思うのです。

とくに日本においては、いくつかの特定の他の国と比較して家族を大切にしていないようにみえる行動が取り沙汰されます。もちろん実際には大切にしていないわけないのですが。

とにもかくにも、金だけを重視するのではない、人と人との関係こそ重要なのだよということをお互いに確認し合うためにも、共に会話しながら時間を過ごす、できればご飯を食べながら、というのが理想なんだろうと思います。

それに関連して本書で納得したところは、「味覚を共にする」ということが文化を共有し仲間意識を持つことである、ということです。

もちろん好き嫌いの違いはあれど、ベースのお出汁は美味しいと感じ合えること。その非言語の共感性が、もっともハードルの低いコミュニケーションなのかもしれないということをふと思いました。

この辺りについてはもうすこし調べる必要がありそうですが。


まとめ

・地球全体の命のリレーを断つ者、生きるべからず?
・人間は一人では生きられないという歴史の大前提のもと共食の文化が育まれた。
・社会的分業が進み食料獲得のあり方も変わってきている中、共食の意味については改めて問い直してみても良さそう

いろいろとまだわからないことが多いので、引き続き学んでいこうと思います。
最近「不食のすすめ」というスピリチュアルな本も読み始めたので、おい、たんぱく質いらないのかよ!ということについてわかったらまた書きたいと思います。

あとはエントロピーと人間の老いと時間の流れらへんの関係について知りたくなってきました。

これが違うよとかオススメの書籍などあれば教えてください。

どろん。

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