サイボーグ化するか、自然回帰か。人間が幸せに生きる道って
最近ふと思う。
これだけ"知的労働でハードワーク"が当たり前ともなると、サイボーグ化したほうが"幸せ"な可能性も十分あるんじゃないかと。
私自身、体力もまるでなければ、心だって強くない。
自分の生産性にも限界を感じる。つい労働投入型になってしまい、さらに体力を消耗、休日はゆっくり休まないと体力的にはキツイけど精神的にリフレッシュするにはアウトドアもしなきゃと、またヘトヘトのまま次の平日を迎える。そんな繰り返し。
超高生産性で、かつ長時間労働してくれて、無尽蔵な体力を持つ人がいたとしたら、企業は大歓迎。でも知的労働がまだすべてロボットに置き換わっていないのは、技術やら制度やら何やらが追いついていないからなわけだけど。
どんどんどんどん個体の人間とテクノロジーが切り離せなくなっているなかで、すでにコンピューターがかなり人間の仕事を肩代わりするようになってきた。
今後コンピューター側のインターフェースはもっと進化してますます人間とテクノロジーの境目は曖昧になっていく。
やがて攻殻機動隊のような世界がやってくる。
そうしたら、頭脳の拡張はもちろん、体力の増強だって可能になりそうだ。精神力についてはわからないけど、それも可能な気がする。
さもなくば(サイボーグ化しないなら)、より動物的なところへの回帰である。
いま現在はその2つにきっぱりと分かれているように思う。
少し前まではとにかくテクノロジーが優勢だった。田舎に住む若者は田舎を遅れていると考え、都会を目指した。テクノロジーで便利になっていく世の中を、もちろん悲観視するひともいたけど、讃えるひとのほうが多かった。世界がそうやって進歩していくことは正しかった。
ところがここへきて、その流れに首をかしげるひとが増えてきたのだ。
あれれれれ、それでいいんだっけ。人間ってそうあるべきなんだっけ。
まだ主流だとは言えないものの、若者は「都会的なもの」から逃げるようにして、地方に向かい始めている。
結局世の中の流れというのは、進歩に急ごうとするアントレプレナーたちによって推し進められ、なんとなく行きすぎたなと思うと、また別な人たちが逆方向へ引っ張ろうとし、全体としてはバランスを取ろうとしているかのように見える。
でも落ち着くところというのは、どっちかというと「進歩サイド」である。
「進歩サイド」という言葉をいま使ったが、これは現在の流れの中では、「効率化」であり「より速くより遠くへ」を志向するものである。
なぜなら今世の中を支配しているのは資本主義だから、効率化は絶対的な「善」なのだ。その主義を取っ払ったとしても、効率化は世界が歩むべき方向であり続けるのかどうかまではわからないけれど。
何にしたって、世の中の多くの人が「より速くより遠くへ進めた方がいい」と考えている。
少し話が逸れたが、そうだとすると、田舎を志向する人たちは、どこへ向かおうとしているのだろう。
世の中の流れは、「より速くより遠くへ」を志向しそれをどんどんと実現していくであろうことは、わかっている。でも自分は、それを推し進めるつもりはないし、その流れに染まりたくもない。
だから、せめて自分と自分を取り巻く世界だけは、世の中の流れに逆らう、もしくはせめて今を維持する。どうせ外の世界は、進歩側のひとが描く形でどんどんどんどん進んでいくのだから。
そんなところだろうか。
なぜ逆の流れはないのだろう。
わたしたちはBの方向からAの方向へと歩みを進めてきた。Bへはもう戻れない。本質的には。正確には、Bへ向かう流れは再びつくることはできない。できたとしても、それは限りなくBに近いA'あるいはZである。
A'は既存の枠組みの中で、大衆の消費嗜好が変わるとき。Zは既存の枠組みをぶち壊す革命が起きたとき。
まあ、A'も、けっきょくそれが起きるときというのは、革命に近いものなのかもしれないけど。
とにかく、資本主義がひっくり返るような革命は基本起きないだろう、とみんな思っている。だからAの逆向き(あるいはスローダウン)を志向する人は、A'の方向を指し示そうとしている。
スローダウンのやり方としては1つは規制である。企業の行き過ぎた暴走を止めようとすること。
2つ目は、逆方向を向きたい消費者へ向けたサービスを提供し、徐々にその裾野を広げようとすること。
3つ目は、基本的に大きな消費者ニーズに応えつつ、そのプロセスにおいて社会的な責任を果たそうとすること。
4つ目は、先ほどの地方へ向かう若者のように、世の中の流れが変わらなくても自らが逆方向の生活を実践していこうとするもの。
と、ここまで書きながら、私の中でも、本当にそうだろうかという疑念が渦巻いている。
ここにあげたものはすべてA'にすら向かえなさそうなものばかりだ。
おそらく、Aのなかでの多様な消費者ニーズの展開にすぎないのかもしれない。
そして常に企業と消費者との関係は、「鶏が先か卵が先か」理論に終始するしかないのだ。
消費者のニーズが大きくなれば、それに応えようとする企業が増える。その萌芽なしに企業が大きく方向転換することはありえない。
消費者もまた、マスメディアに簡単に踊らされるようにして次々と物欲に駆られ消費することをやめられない。
本筋に話を戻そう。
いわゆる欧米的な考えが隅々まで浸透してゆくとき、それはサイボーグ化の流れである。日本は少なくともそういう方向に向かうことを止められないだろうと思う。それは潮流である。
つまり自然回帰のような方向というのは、主流にはなりえない。そうしたい人が、様々な程度で自然回帰的な生活を実践していくだけである。
何かを速くすることもない。経済的な付加価値や利潤を大きく産むわけでもない。
そうした営みが主流になることは、上に書いた通り、大どんでん返しがない限りは、ない。
「様々な程度で実践」というのがミソである。全てをサイボーグ化に順応させる必要もないし、反対に完全ヒッピーな生活をする必要もない。
ある意味良い時代かもしれない。
働き方の多様化も進みつつある。
半分の時間はサイボーグに、半分は人間らしい暮らしを、ということも可能である。
選択肢は多い。
ただ自然回帰したい人たちにとって、その余地はどんどんと少なっていくことも事実だ。
さて。選択肢の増えたこの世の中は、「良くなっている」と言えるのだろうか。
『社員をサーフィンに行かせよう』を読んでいろいろと思うところがあったので、次回はそんなテーマについてまた書きたいと思う。
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