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親は親、わたしはわたし

わたしはゴリゴリのひとりっ子である。
22歳で夫と同棲するまで、少し変わった父と少し変わった母と3人で暮らしてきた。

ひとりっ子はクソ甘ったれと思われがちだ。
両親の教育方針は、「他人様にひとりっ子だとわからせないような子育て」。
つまり、とにかく甘やかさないということだった。

確かに、まあ甘やかされなかったと思う。
わたしは親に褒められたことがない。
一度でも褒めると調子に乗り、付け上がるからだそうだ。
その教育方針の通り、わたしが選んだものは尽く否定され、希望は却下され、容姿から性格、頭の出来まで嘲笑われて育った。
そのおかげでわたしは自分が「怠惰のあまり頑張ることができない人間である」という思い込みから逃れられないでいる。

ひとりっ子の利点は経済的な余裕だと思うのだが、服一枚買ってもらうのも苦労した。
いま思い返せば家計は全く困窮してなかったのに、だ。

教育費に関しては掛けてもらったと思うが、
頭の出来が良くないので無駄に終わった。
それに関しては申し訳なく思う。


両親の共通項は「リスク恐怖症」であることと
「ものの見た目はどうでも良い」「ものは安く買い、ケシズミになるまで使う」ことだった。

子のわたしも同じ嗜好だったら幸せだったのだと思う。
何の因果か、わたしは物心ついた時から新し物好きで、見た目第一主義なのだ。

わたしが可愛い服が着たい小学生時代、与えられたのは3つ上の従兄弟のジャージのお下がりだった。
従兄弟は裕福でお洒落な家庭のひとりっ子なので物は良かったが、思春期に男の子もののダボついたジャージしか着れないのは悲しかった。

また、わたしは結構ひどいアトピーもちだったが、純粋な治療費以外は出してもらえず、化粧水やクリームなどの基礎化粧品はおばあちゃんからもらうお小遣いなど臨時収入から買っていた。

携帯も高3まで買ってもらえず、お年玉でプリペイド携帯を購入し、毎月3000円のお小遣いから1500円ずつ出して携帯代をチャージしていた。(3000円のプリペイドカード1枚でメールが2か月使えるので)
電話はテレカを持ち歩いていた。
同級生がみんなiモードでmixiしてるのが悔しくて、家のパソコンからいいねしていた
ちなみに高校がバイト禁止だったので月の収入は3000円です。

学生時代のわたしが試行錯誤して自腹で捻出していたもの、周りを見渡せばみんなは親が当たり前に与えてくれていた。
わたしもかなりの回数交渉したが、特に要望が通ったことはない。

父は家族に無関心でほとんど家にいなかったし、母はわたしの思春期と更年期が重なったのかどこに地雷があるかわからなかった。
ずっと、家にいるのが苦痛だった。

上記の話をすると夫は「なんて哀れな」という悲しそうな顔をする。

またありがちだが、わたしの母親は「否定から入る」人だった。
誰かが自分の考えを述べると「でも」と反論せずにはいられない病気らしい。
また、なにに関してもネガティブな側面ばかり強調し不安を煽る人であった。
わたしは何か希望したり、選択するたびに否定され、リスクを説かれ、わたしは不安のあまり希望のランクを下げてきた。

高校受験も大学受験も「受からなかったらこれだけのお金がドブに捨てたものになるんだからね」「浪人は許さないからね」と言われ、「それなら確実に受かるところに行こう」とランクを下げた。
その選択をしたのは最終的にはわたしだが、あの時もっと前向きに応援してもらえたらもっと頑張れたのかなと思ってしまう。

そんな母親が変わり始めたのはわたしが家を出て、結婚した頃からだ。
明らかにわたしの選択に口を出すことがなくなり、「良いんじゃない」というようになった。
わたしは「エッこの人誰?」と思っていた。

無関心だった父はわたしがSLEの再燃で入院した時に変わった。
父方がリウマチ家系なこととSLEという病気の重さを調べて思うところがあったらしく、突然我が家にエアコンを買ってくれた。
父に何か買ってもらうのが初めてだったわたしは「この人も誰?」と思った。
退院後は会うたびに「体調はどうなの」と聞いてくれる。

結婚してそろそろ3年が経つが、その間かなり良い関係だったと思う。
母の考え方はおそらく、大人になって結婚もしたなら後は自己責任、別世帯になったし個人としての付き合いをしていこう、ということと解釈している。
学生時代ものすごいケチられていたの、何だったの?ってくらい援助してくれることもたくさんあった。
だから私達夫婦は、このままわたしの両親の近場で暮らして恩を返して行きたいと思っていた。

しかし先日、ふとしたことでその歯車が狂ってしまった。
そのせいでわたしは不眠が精度を増し、情緒不安定になって涙がたくさん出て、鬱症状が加速した。

詳細は省くが、要はお金に関する価値観の相違だ。

「あんなに色々してあげたのに」と言われた。
「私たちを捨てるのね」とも言われた。
それはわたしが最も軽蔑する論調だった。

誰にでも「この一言で心が閉じる」一言があるのではないだろうか、
わたしにとってはそれが「してあげたのに」なのだ。

ああこの人もこういうこと言うのか、
なんなら母も、母の母こと祖母に同じことをたくさん言われて嫌がっていたじゃないか。
ここ数年「個人として」付き合っていたはずなのに、まーた「親の顔」を出してきやがったな。
言葉は悪いがわたしも彼女に失望してしまったのだ。

今では笑ってしまう話だが、学生時代も一度で心を閉ざしてしまったことがあった。
ある日母の嫌味や暴言に耐えかねて
「親だったら自分の娘に何言っても良いと思ってるの?」と聞いたところ
「思ってるよ」と言われたので
「思ってるなら仕方ないね…」と返して、その日から何も反抗しなくなった。
全て諦めてしまったのだ。

両親の言うことも、ある側面から見たら正論なんだと思う。でもそれは両親にとっての正解なのだ。
両親にはその考えがフィットしていて、それでやってこれたのだから、そのまま人生完走してくれたら良いんだと思う。
だからわたしは反論しなかった。

わたしには親の言う「正解」がフィットしないだけなのだ。だから口論する必要はないし、親にわたしの「正解」をわかってもらう必要もない。
わたしはもう学生時代の「親の所有物」ではなく「個人としてのなみき」なのだ。
傷ついて泣いたけど。

正しさは人によって変わるものであること、
もう一度思い出してもらえると良いな。

実家にいたときは、見た目にこだわることはダサくて恥ずかしいことだと一蹴されていた。
見た目で高い物を選んだりすることは愚かなのだと馬鹿にしたような態度で刻み込まれてきた。
それでもわたしは見た目が整っていないと生理的に嫌だった。

雑然と散らかった家、埃まみれの棚、ぐちゃぐちゃの冷蔵庫、いつのものかわからない食品、30年くらい着てそうな服、実家の全てが嫌だった。

わたしはわたしの全てを否定する家を出て、21歳で全てを肯定してくれる夫と暮らし始めた。
好きな家具がおける自由、いらないものを即座に捨てられる自由は、わたしにとてつもない快適をもたらした。
夫と暮らし始めて、家が居心地の良い場所となった。

夫はわたしの見た目重視の価値観を認めて、揶揄しないでくれる。それどころかなんでも褒めてくれる。
それでもわたしの根底では「見た目を繕うのはダサいこと」という価値観の両親に嘲笑われている映像が見えているのだ。

両親とわたしは別の価値観を持った人間だ。
それを否定する必要もなければ合わせる必要もない。
そんなことに気づくのに20年以上もかかってしまった。

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