言い訳とナラティブの音色_100日後にZINEをつくる、95日目
買って積んでいた『兄の終い』を母に貸す。
本を返されるときに言われる。
「ものすごい言い訳じみてて、読んでて苛々しちゃった。こんな風に書くなら生きてるうちに助けてあげればよかったのに。迷惑かけられてたのかもしれないけど、助けてとかお金貸してって連絡を無視するのはひどすぎる。家族なのに。」
わたしはまだ未読なので本の中の著者の語り口調はわからないけれど、この本の後に出された『家族』を読んだ印象では<言い訳>は鼻につかなかったけど。
本人から見た世界を語り直すこと。
自分の振る舞いの理由を外に向けて語ること。
それが言い訳に聞こえる口調と、そうでない場合は何が違うんだろう。
聞き手の耳の問題なのか。語りが自己弁護に偏りすぎるのだろうか。
聞き手に「正当性を主張するも、正当性に乏しい」と判断されれば、それは言い訳じみた語りだとみなされるか。
その「正当性」に共感する聞き手であれば、語りは抵抗なく受け入れられる。
「泥沼に引きずり込まれる」感覚も、「存在自体を心の中から追い出していた」感覚も、自分の中に思い当たる節がありすぎて、この語りを<言い訳>と捉えるとわたし自身が否定されてしまう。
逆に言えば、これが言い訳に聞こえる母は、家族に関わることから逃げずに生きてきたんだろう。彼女はタフなのだ。
けれど、自分のタフネスを他人にまでおしつけてもらっては困る。
現在ナラティブの本を読んでいることもあり、物語の聞き手側について思いを馳せがちである。
わたしの大好きな映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
母は「こんな胸糞悪い映画、むかついて仕方なかった!」と観た後にずっと怒っていた。
一方、わたしは不思議の国のアリスばりに涙の池で溺れ、放心。
セルマの愚かさに怒りを感じる母と、セルマの無垢な善性が報われない現実に圧倒されたわたし。
そのナラティブが相手にどんな音となって響くのかは、語り手にどの程度コントロールできるのだろうか。
それにしても、「家族なのに」という言葉の破壊力。
著者の言い訳にいつまでも怒っている母に「それを言うなら元嫁のほうが傍に住んでたじゃん」というと「だって、妻は他人じゃない。血つながってないし。」
「血のつながり」という呪い。
「血」の価値が全く理解できないわたしは、血族内では忌み物とされるんだろうか。
親は子に責任はあるけど、きょうだいに責任なんてないでしょ。兄ちゃんの野垂れ死にに、妹が責任感じる必要なんてないじゃん。
「でもあなたなら、妹から「助けて」って連絡きたら行くでしょ?」
うん。でも別に妹だから助ける訳じゃないし、嫌いだったら行かない。
「・・・」
母はきっと「家族だから」我慢してきたことがたくさんあるに違いない。
親からも「家族なんだから」と言われながら育てられたに違いない。
そんな母に育てられた長女が「家族だからなんだ」になってしまったのは、なぜだ。
でも、妹は望み通り「家族だから」人間に育っているので、母よ、安心したまへ。
わたしはね、「家族だから」が命綱になるような世界なんて、そんなさみしいナラティブは心に響かない。
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