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甘さ

夏休みの課題で課されたもので、やっつけ仕事でやったものですが、自分の経験を書いています。長くなるとは思いますが、読んでくれると幸いです。

私は幼稚園の頃から今までサッカーをやって、かれこれ12年。その中でも原点と言っていい小学生時代の辛かった話をしたいと思う。

私はクラブチームFC LEEZUというところでサッカーを始めた。始めた頃をボールを蹴るのが楽しくてしかたがなかった。4年生になり秋田コーチという人に見てもらっていた。当然ながら学年が上がる事に練習は厳しくなり、走りのトレーニングも増えた。練習終わりにグラウンドの周りを外周するのは当たり前。走るのが嫌いな私はサッカーに行きたくなくなり、少しサボリ癖がついた。それでも他のチームはまだ全然走っていなかったのでちょっと走ってる私でも持久力は他のチームに比べては少しあった。その年に区大会で優勝、2ブロック4位(葛飾、江東、江戸川)かなりの好成績。この調子でやれば勝てるだろと甘い考えをしていた。

5年生になりサボリ癖は少しづつなおっていた。5年生の体育の日記念大会(2ブロック)大会。1、2回戦を順調に勝ち進み3回戦。0対0で迎えた後半終了間際に相手のクロスは自分の足に当たり、ディフレクトしそのままゴール。自分のオウンゴールでチームは敗戦。試合後はチームメイトに申し訳なさで一杯で、涙が止まらなかった。負ける相手ではなかったのにそう思いながら泣いた。だけどこれでやっとふっきれたものがあった。自分たちがやってきたものはまだ完璧ではないと。

6年生になり小学生時代の集大成の都市となり目標も都大会出場と決めた。4月の始めに待つ全日本を前に春は合宿などにも行った。そこでは大雨で練習試合の相手がいなくても泥んこサッカーをした。正直嫌だったが、勝つためだった。合宿から帰り中1日空けて三鷹の方でジュエンカップ。そこには都大会常連のチームも来ていた。その中で2位。この2位という数字から最終的には抜け出せなくなるのはひとまず置いとく。ついに全日本当日。1回戦は勝ち上がり、2回戦。優勝候補の強豪のチームだった。前半早々にクリアミスで先制点を許してしまう。そこからはどちらも譲らない展開だった。やっている時は楽しかったし、終わらないで欲しかった。結果的に0対1で敗戦。残す大会は3つ。その時もう負けたくないとそう思った。B&G大会が始まった。これもトーナメントまで行くもののPK負け。ここで前期の大会は終了。地獄の夏休みに入る。今では考えられない丸一日練習、練習試合なども沢山あった。それも負けたら走り。これはお決まりだ。負け×5のシャトルラン。しかも相手は格上の強豪ばかりだった。もう走りのない日なんてなかった。そんなこんなで夏休みは終わり、さわやか杯になった。目標である都大会に行ける最後の大会だった。1、2回戦は危なげなく勝ち上がり3回戦。圧倒的に自分たちのゲームなのに1点が遠かった。後半終了間際に自分のサイドからクロスを上げられ中でファールの判定。そのPKを決められ敗戦。目標だった都大会出場はそこで終わった。PKを与えた人が悪いと雰囲気が出ていたが、クロスを上げさせた自分が悪いと心の中で思いながら帰宅した。自分は練習の走りが軽くなったのが嬉しくなったと同時に目標を失った感じだった。最後の送別大会。予選は難なく通過。トーナメント1回戦。この試合は負けられない理由がいつも以上にあった。主力が怪我で出れない。勝ち進めば来週は出れるかもしれない。最後の大会だけに少しでも出してあげたかった。だがこれもPK負け。家に帰り風呂に入りそこで号泣だった。泣きながら夏にもっと走ってれば、妥協しなかったらと考えた。結局まだ自分は甘かった。卒団式は楽しくやり遂げた。同時にコーチ、チームメイトから沢山学んだ6年間だったなとも思った。けど自分の甘さは変わらなかった。

自分は中学生で腐り挫折した。これも甘さからだ。だが何かの縁で拾ってくれた駿台で今はサッカーを続けている。小学校時代の仲間も正智深谷、東海大高輪台、成立学園、都立駒場、修徳、昭和第一、都立小岩などでサッカーを続けている。今でもみんなでご飯に行くが、小学校時代同様刺激されることは沢山ある。トップで出てるやつ、全カテ経験したやつ沢山いる。そんな話を聞くと今の立ち位置で満足してる自分は甘いなと思う。けどそこを指摘してくれる秋田コーチと仲間。本当にいい人達と出会ったなと思う。

自分を甘くした先にはなにもない。読んでくれた人は何事にも辛い方を選びいい結果を出して下さい。


ご静聴ありがとうございました。