ポーランド映画祭2019鑑賞記

(この記事は、あるウェブメディアからの依頼で執筆されたものですが、ポーランド映画祭側の都合により掲載が見合わされたものです。せっかく書いた原稿が、満足な説明もないまま日の目を見ないのは極めて無念です。そこで映画祭側・メディア側の承諾を受け、noteで原稿を公開いたします)

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ポーランドのことをよく知らない。ヒトラー率いるドイツによるポーランド侵攻から第二次世界大戦が始まり、悪名高きユダヤ人虐殺がもっとも陰惨に行われた(アウシュビッツ絶滅収容所があったのもこの国だ)ことなどをかろうじて世界史の教科書で知ってはいても、戦前のポーランドがどんな歴史を歩んできたのか、戦後の共産主義体制の時代を経てどのように民主化に至ったかについてはほとんど無知と言ってよい。

私が生まれる前の1950〜60年代の日本では、アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』(1958年公開、翌年7月に日本公開)などポーランド発の映画が熱狂的に迎えられた時代もあったが、日本の政治の季節が過ぎ、それももはや遠い過去の記憶となっている。あるいは、体制からの検閲・抑圧と戦っていた当時のワンダ監督らの不屈のイメージを、実質的な民主化の年となった1989年からちょうど30年が経ってもいまだに引きずっている人も少なからずいるようにも思う。

だから、「ポーランド映画祭2019から2〜3本の作品を見て、数千字のコラムを書いてください」という依頼を受けたとき、幸運だと思った。先ほど挙げた『灰とダイヤモンド』の時代の映画から、この数年で公開された近作までを通覧することができれば、ポーランドという国のかたちがおぼろげにでも見えてくるように思ったからだ。その結果、ほぼ丸3日間を費やして計12本を観ることを自らに(もちろん喜んで)課したのではあるが。そういうわけで、しょぼしょぼになった目をこすりつつ、この原稿を書いてる。


ポーランドと日本の国交樹立100周年という記念すべき年に開催された今年の映画祭は、ワイダと並んでポーランドを代表するイエジー・スコリモフスキ監督がプログラムの監修を行なった。ワイダの代表作に加え、彼が創設した映画学校の生徒による短編オムニバス上映。ポーリッシュ・ジャズにフォーカスした音楽映画特集。さらに現在進行系の同国の雰囲気を伝える2017年〜19年公開作品の特集など、バラエティ豊かなラインナップ。

私が観たなかでもっとも古い時代の作品から振り返っていこう。カジミェシュ・クッツの『沈黙の声』(1960年)は、戦火を逃れ、各地に亡命していたポーランド人たちが故郷へと戻ってきた終戦直後の時代を描いたもので、いかにも「暗い時代」のポーランドを象徴した一作。だが、妙に艶っぽくもある。ソビエト赤軍兵士の暗殺命令を拒否したせいで故郷の町・ジェルノに逃げのびてきたボジェクは、頼りなさげな優男風のルックスで次々と美しい女たちの寵愛を得ていく。同じ列車で逃げてきた姉妹、勤め先の年上の女所長、その直属の子持ちの部下をとっかえひっかえしながら、陰鬱な日々をサバイブしていく様は「ヒモ男の本懐ここにあり」といったところだ。そして、追っ手の追跡の手が及ぶと、ボジェクはあっさり街を去っていく。

やっとドイツから解放されたにもかかわらず、すぐにソ連の支配下に組み敷かれてしまったポーランドの「抵抗と挫折」のアイデンティティが垣間見える苦い結末だが、むしろ印象に残るのは女たちの強さだ。ポーランドの女性はたくましい。これは他の多くの作品にも通じる感覚だ。

https://www.youtube.com/watch?v=QZTsvN8Z3EE&t=85s

3本のオムニバス上映となった「ワイダ学校短編集」のうち、じつに2本が現代社会における女性の生き様を描いているのは偶然ではないだろう。

パルテク・コノプカの『彼女の事情』(2006年)は、シングルマザーの家庭を主題としている。母親の末期ガンで社会福祉局に預けられることになった3人の姉弟。だが勝ち気な長女はその境遇を断固として拒否し、弟と赤ん坊を連れていちども会ったことのない叔母の家へと向かう。大人からすれば明らかに無謀な旅だが、そこには社会の不条理に簡単には屈することをよしとしない、個人としての怒りが満ちている。

マチェイ・マルチェフスキの『ゲーム』(2013年)は、エレベーターに閉じ込められた女と男の閉塞した関係と状況を描く技巧が光る。どうやら映像作家/アーティストであるらしい男は、離婚調停に向かおうとしていたと語る女に「もしも自分たちが恋人、あるいは関係の冷めきった夫婦だとしたら?」という不可解なゲームを持ちかける。遠慮のない男に反感と攻撃の意志を剥き出しにしていた女だったが、やがてゲームにのめりこみ、現実とも虚構ともつかぬ対話を立ち上げていく。ラストは、暗闇に浮かぶ無数の狭いエレベーターに男女が一組ずつ閉じ込められている非現実的な風景。それは、これまでの対話がポーランドにおける異性関係の戯画であり、そこには男性から女性への暴力や支配が潜んでいることを暗示している。

これらはかなり沈鬱なムードで終わる作品だが、もちろんポーランド映画は暗いばかりではない。アレクサンデル・ピェトシャクの『ユリウシュ』(2018年)は、破天荒な芸術家の父親や濃い個性の友人たちに翻弄される気弱な美術教師ユリウシュが主役のスラップスティックなコメディだ。人生の終わりを迎えつつあるのに女遊びをやめない父の死と、シングルマザーになることを前向きに選ぶ恋人の出産を通じて、親世代の男らしさに共感できない、いまどきのポーランド人男性の自分探しを同作は描いているが、この「旧世代と新世代の葛藤」という主題は次に挙げるヤツェク・プロムスキの『ソリッド・ゴールド』(2019年)にも引き継がれている。

スポンサーの国営テレビ局が制作から手を引き(ポーランド社会の腐敗をリアルに反映してしまったせい?)、ポーランドでの公開よりも今回の日本公開が先になってしまったといういわくつきの同作は、女刑事が犯人に誘拐されレイプされる衝撃的なシーンから始まって、ストーリーは一気に8年後へ跳ぶ。犯人の子どもを出産し、警察を辞した主人公はその娘と静かな生活を過ごしていたが、かつての上司から請われて民間銀行による不正事件の捜査に参加することになる。しかし彼女たちの極秘捜査は空回りするばかりで、けっきょく主犯である銀行代表はマフィアの報復にあって呆気なく死んでしまう。主人公の努力がほとんど報われずに終わるなんとも後味の悪い結末は、ある意味でいまのポーランドの状況をもっとも色濃く反映するものとしても見えてくる。

2004年のEU加盟から2014年までに計50%の経済成長を達成した同国は、資本主義化した中東欧諸国の顔としての存在感を示しているが、現実にはかつての共産主義体制の実力者たちがいぜんとして力を持ち、過去のスパイ行為から得たデータをネタに政治家や財界人に恐喝を行う事件などが起こっているのだと、上映後のアフタートークでプロムスキ監督は語っていた。西ヨーロッパやアメリカから持ち込まれた資本主義の恩恵を謳歌しつつも、民主化以前の負の遺産から逃れることもできない、さまよえるポーランド。『ユリウシュ』の昔気質の父親も、劇中で「父性」を象徴する『ソリッド・ゴールド』の年老いた主犯と女刑事の上司も、最後には「いま」という時代から退場する。そして彼らから希望を託されるのはその子ども世代、とりわけ女性たちだが、それは必ずしも祝福された未来とは言えないだろう。

2003年公開のイギリス映画『ラブ・アクチュアリー』風の群像劇を思わせつつ、実際にはラース・フォン・トリアー顔負けの大崩壊で終わるパヴェウ・マシロナの『パニック・アタック』(2017年)が「ポーランドの普通の人々」を描こうとしている事実からは、この国の一筋縄ではいかない性格が垣間見える。

これらの私が観た作品は、あくまで今年のポーランド映画祭の全体の半分にも満たないのであって、さらにここまで述べてきた感想が、ふだんの自分の関心にだいぶ寄せたものであることは念を入れて断っておきたい。

人生の挫折を経験した青年がトライアスロン選手として再起する、ウカシュ・パルコフスキの『ザ・ベスト』(2017年)のようにスカッと終わるドラマもあるし(とはいえ、青年が陥る麻薬中毒の描写は超ハードコア)、今回が日本初公開となったタデウシュ・フミェレフスキの『月曜日が嫌い』(1971年)はまるでジャック・タチ監督作品のようにおしゃれで植木等の「無責任シリーズ」のようにお気楽で、とても共産主義政権下で制作されたとは思えない(が、描かれたワルシャワの街の異様な明るさと国際性は、冷戦下のプロパガンダの巧みさを逆説的に伝えている)。いまの日本がそうであるように、その国に対して抱くイメージは人の想いと立場によって180度変わるものなのだ。

しかし、奇しくも映画祭と同じく東京都写真美術館で今年8月から10月にかけて開催されていた展覧会、「しなやかな戦い ー ポーランド女性作家と映像:1970年代から現在へ」が、70年代に映像表現に関わった女性たちのジェンダーバイアスに関わる苦闘に触れつつ、#metooムーブメントに代表されるSNS世代の言論形成、多文化共生、難民の時代としての現在へと思考をつなげるキュレーションを行なっていたことを思えば、今回の映画祭から感じられた「女性と社会」というテーマはけっして的外れではないように思われるし、多くの作品が共通して持っている独特のアイロニーが抵抗と挫折に彩られたポーランド史によって形成されたものであることも事実だろう。

『ソリッド・ゴールド』のプロムスキ監督に「なぜポーランド映画に描かれる女性はみんなたくましいのか?」と質問すると、こんなポーランドの格言を教えてくれた。

男性は家庭の頭。でもそれを動かしている首は女性。

男性優位に見えてじつは女性が影で取り仕切っている……という男女観は日本の「かかあ天下」にも通じるもので思わず納得しかけたが「いやいや、そもそも家庭や社会のトップが女性であってもおかしくないだろ」とも思った。

「しなやかな戦い」展においてヴィジュアル面で強いインパクトを受けた、ホノラタ・マルティンの映像作品『屋上』(2005年)は、高層アパートの屋上の縁ギリギリに立つ作家自身と、そのポニーテールを強く握りしめる男性の腕をとらえている。それは女性の投身自殺を必死で静止しようとしているように見えるが、見方を変えれば女性の生殺与奪が男性によって握られている社会のメタファーとしても理解できる。あるいは、そこから翔び立つことで女性は自由を得ようとしているのだ、とまた別の解釈をすることもできる気もする。その連想は、映画祭のフィルムのなかで目撃した何人もの美しくたくましい女たちの姿と私のなかで結びついている。



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