「デモ」について考えていること

なにごとにも億劫さを覚える性格なので、noteとかはてなとかブログ的なものは極力やらないようにして、Twitterのように短くパッと、直感的に書けるものに親しんできたのですが、自分のなかで必要に迫られてる気がしてnoteはじめてみました。それは何かといえば、2019年9月後半に自分からデモ的行為をやってみたからです。

すでに多くの報道、多くの反応があちこちで起きていますが、9月26日、文化庁があいちトリエンナーレ2019への補助金全額不交付を決定しました。

ここで詳しく述べませんが、ようは同芸術祭の「出品作品」の一つである「表現の不自由展・その後」の展示中止に始まった一連の動きに対して、これまで文化・芸術の担い手・守り手の大きな一角だった文化庁がまるで逆の動きを見せ、それに対して特に現代美術に関わる人たち(アーティスト、批評家、アートファンなど)が「それってやばいだろ?」と、あらためて声を上げ始めた、という状況が今です。

美術ライター/編集者を名乗って仕事をしている自分にとってももちろんこれは他人事ではありません。「作品をつくる」側ではなくても「作品を介して、そこから読み取れるメッセージを外に翻訳して伝える」という意識をもって自分は活動してきたわけで、その際に使える言葉に制限がかけられたり、あるいは自分の意思ではない内容のテキストを書くことを強いられる状況がこれからさらに強まるとすれば(そういった自己規制や検閲と呼ばれる摩擦はこれまでも常にありました。些細なことから政治的なことまで。でもそれは「ライター」という仕事の特性でもあるので、単純に「超イヤだ!」と嫌うだけのものでもない)、仕事もしにくいし、何より個人としての、人間としての「自由」が決定的に失われてしまいます。そのヤバい危機感を感じて、半ば衝動的に「俺、文化庁前に行ってくるわ」的なツイートをしたわけです。それが思いのほかバズって、なんと約2時間後には文化庁前に100人近くの人たちが集まる状況、つまりいわゆる「デモ」的な状況ができあがったのでした。

文化庁が補助金の全額不交付を発表してから、ほとんど間を置かずに起きたリアクションであるという即応性も大きかったと思いますが、しかし、やはり多くの人が「このままではヤバい」という意識を持ったというのは事実だと思います。それから約2日が過ぎて、すでに京都と東京でそれぞれデモと緊急集会が行われているのも、多くの人の危機意識のあらわれのあかしでしょう。

ここから個人的な思いについて書きます。

文化庁前に行く際の、最初のツイートで書いたように、僕自身は積極的にデモに参加するようなタイプの人間ではありません。人並み以上には政治や歴史、そこに生じる衝突や摩擦に対して意識的だし、その際に「公正さ」が失われる不条理な事態が起きたとすれば「それは問題だろ!」と思うタイプ、それをツイッターや原稿にバッと書き付けるそそっかしいタイプの書き手ではありましたが、実際に直接的な行動に出ることには抵抗を覚えるタイプの人間です。

その意味で、前回の文化庁前に集まったのも、いわゆる政治的な主張を伝える「デモ」という風には全面的にはとらえていないところがあります。実際「アートなめるな」「検閲反対」といったワードをシュプレヒコールに使ってもいるので、それがデモ以外の何かに見えることはなかなかないと思うのですが、やはりこれを直接的に、一般的に理解される「デモ」と見なす/見なされることには抵抗を覚えるのです。

今年の6月21日、香港を二十年以上ぶりに訪ねました。ちょうどその数日前から始まった逃亡犯条例改正をめぐる香港市民のデモのニュースを聞き、その状況や空気を経験してみたいと直感的に思って決めた短い旅でした。

その後、同市のデモ隊と香港行政府の対立はさらに激化しましたが、僕が訪ねたときは比較的まだ穏やかな雰囲気が街にはありました。しかし、南の香港島側の政府機関が集まるエリアのかなり広い範囲は、学生らを主体とするデモ隊で占拠され、一種の解放区のような状況が生まれていました。そして、その「解放」の雰囲気は決して恐怖や危険を感じるようなものではありませんでした。

警察本部を取り囲む、運動の「最前線」では約数千人が密集するような緊迫した雰囲気がありましたが、そこから少し離れると、デモの冒頭で亡くなった被害者を追悼する列があったり、あるいは自分がつくった映像を小型のプロジェクターで壁に投影して即席の「作品展示」を行う若者がいたり、水や食べ物を無償配布するボランティアグループもいたりする。もちろん、何をするでもなくスマホをずっとチェックしたり、雑談に興じる若者もあちこちにいる。そんな集中と散漫が同居するような、しかしここに長く留まることが多くの人たちによって認められ、許されているような「居心地のよさ」がそこにはありました。

デモ=抗議運動、みたいなイメージを想像していた自分にとって、これはとても衝撃的な風景でした。そして、こういった「個人が自由であることが許容される」空間がもしも「デモ」と呼ばれるものなのだとしたら、それって本当は自分たちの生活や生きることに密着した、地続きの行為ではないだろうか? と思ったのです。


だんだん書くことに疲れてきたので、手短にまとめます。来週のどこかで、また次のデモをしたいと考えていますが、僕が実現したいのは上記したような空間の立ち上げです。文化庁や、現状の行政的な手続きの不合理さに対して抗議の声をあげるという目的はあくまで一部であって、本当にしたいと思っているのは、自分たちの意思で、自分たちが主体的な自由な存在でいられる時間と空間を「デモ」的な営為を媒介にして実現することです。その意味で、昨夜(9/27)東京藝術大学前で行われた緊急ミーティングの、静かに各人が自分の思いを語る場と、僕がなりゆきではじめてしまった動的なデモは同じものであると思っています。

SNSの反応を見ると、やはりデモに対する違和感、拒絶感の声を散見します。よくわかります。僕もはじめて自分でデモを企画してみて、そこに政治家だったり、市民活動を熱心に行うグループの人たちがいらっしゃって、彼ら/彼女らなりのグルーブ感で語り始めるときの「あ、これは自分の知らない世界だぞ。ひょっとするとけっこう苦手なやつかも」という感覚は、なかなかザラリと、ゴツゴツとしたものがあります。しかし、香港のデモが、集中と散漫のなかでいろんな人たちを受け入れていたように、日本の路上で行われるデモを、異なる考え、異なる価値観を持つ人たちがいっとき集まり、同じ空気を吸い、ときに一緒に声をあげてみたりする、そんなゆるくて寛容な集まりの場とすることもできると思っています

(もちろん、ヘイトスピーチみたいな人を萎縮させるだけさせて、それに暗い喜びを覚えるようなものには、断固ノーと言いますが!)。

、、、以上が、自分が「デモ」について考えていることです。後日(といってもすぐになると思いますが)、二度目のデモの告知をする予定でいます。それはどんな集まりになるかまだわかりませんが、参加したことを後悔するような? 変な集まりに参加してしまったなあ、、と思うような? そういうものにはならないのではないかなと思います。

自作のプラカードを持ってきてね、とすでに告知していますが、もっと個々人のクリエイティビティが目に見えるかたちで並ぶような、本来あるべき(?)芸術祭のような、文化と芸術の多様性を示すような時間になるのではないか、と密かに期待しています。こんな時代だからこそ、もっと楽しみたいじゃないですか。

ぜひ、見に来てみてください。そこで得られる体験や経験が、一人ひとりの創造性や自主性を刺激するものとなるような機会にしたいと思っていますので。






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