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差別の裏のメルヘン~「シェイプ・オブ・ウォーター」感想

予告の「半魚人と清掃員の美しい純粋なメルヘン」的なイメージのみに期待して見始めると色々と面食らう映画だと思う。冒頭で清掃員の主人公がいきなりおっ始めるアノ行為(しかも日課のように淡々と描写される)とか、結構アグリーで時に酷い事をしちゃう半魚人とか、意外とグロテスクで邪悪な陰謀が普通に渦巻いてる感じとか、とにかくいわゆる美しいだけじゃない意外に大人な生々しい映画という印象を抱くこともあろう。
だがしかしその印象について一度立ち止まって考えてみて欲しい。もしかしてそう思っちゃう私たちはステレオタイプの美を求めるあまりそうでない者たちに対して無意識に差別的な眼差しを向けているのではないか?と。
この映画は一貫してそういう問いかけに基づく映画なのだと思う。

創作表現と差別はとても難しい関係にあると思う。なぜならば多くの人にとって面白い作品を作るためにはわかりやすくあらねばならないが、わかりやすい表現は差別を産みやすいからだ。
逆に言えば差別というのは「楽(快感)だから」起きる。例えば女性差別を行う男性は女性に対して一定の役割を抱いており、役割とは違う動きをする存在に対して思考することへの苦痛から苛立ちを覚えるわけである。障害者差別や職業差別を行う人間は、彼らを見たときの共感の苦しさや事情の重さやら対応する恐怖感から逃れるために差別が行われてしまう。犯罪者に対しては同胞と認めることがありえないからこれも差別が行われる。
自分と同じ生き物と認めてられない存在に対して、その人は今何を考えているのだろうと推し量る事は現代もなお難しい問題なのであろうか。

さて、「シェイプ・オブ・ウォーター」に登場する人物のほとんどは差別される立場である。言語障害、同性愛者、黒人、そして人外の半魚人。
冒頭で主人公の障害者の清掃婦は一人悦楽に耽っているわけだが、あたかも「オールザットジャズ」のショウタイム!のような日課の映像表現としてわざわざストーリーに組み込む意味を考えるに、満たされてない一方で自分のような人間が一般的な幸福(伴侶もしくは性的満足)を手にする可能性などほぼ無いというような諦めをもっているようにも感じられる。
障害者といってもお涙頂戴のようにその苦しみを表現することは殆どない。主人公はむしろ前向きにキラキラと生きている。だが、日常のどこかしこかに、彼女が被っている不利が蓄積してどこかそのたくましさに抱えたものを感じるのも確かなのだ。

そんな彼女が実験台の半魚人と恋をするわけだが、当然言語障害なのと相手が人間じゃ無いしで、コミュニケーションの不和に苦しんだりもするが、お互い手話で通じ合っているという奇妙な距離感でラブストーリーらしいラブストーリーをあゆむ。
実に不思議な映画だと思うのは、ぶっちゃけ主人公も半魚人も(映画的に考えれば)さほど美しく無い所である。主人公はいかにも清掃婦らしい、主役として考えると地味目な風貌であり、半魚人は完全にキワモノである。
にも関わらずこの映画には表面的な美しさにとらわれない美しい側面がある。
多分この二人の奇跡的調和がこの映画の中核であろう。二人が通じ合うのも手話があったからだし、そしてあのラストだ。一見お互い満たされない道を歩みそうな二人が奇跡的な調和を経てストーリーを築き上げていく。どうしてその奇跡が可能なのかというと主人公たちの多様性を認める仲間たちがいたからなのである。

ギレリモ・デル・トロは「パンズ・ラビリンス」でも苦しめられる立場の痛いリアリティを忘れる事なく愛をもって描写している"優しい"お人だと思う。この映画はその意味で「深い愛」に溢れた作品と言えるのではなかろうか。

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