N. リスタート(2020/3/27)

あれから3年

まさか世界がこんな状況になるなんて想像もせず。生きてたら母は何て言ってたかな~なんて思う今日この頃。2017.3.27の21時過ぎ、レッスン中に一本の電話が鳴った。おみっちゃん(母のお姉さん)からやった。

母は七人兄弟の真ん中、おみっちゃんは上から2番目のお姉さん。母が子供の頃はめっちゃ怖かったらしいww 父に癌が見つかり闘病生活が始まる前に、父から直接おみっちゃんに電話があったらしい。「淳子(母)の事が心配なので自分の入院中おみっちゃん徳島から出てきてもらえませんか?」と。よしたかさん(おみっちゃんの旦那さん)も2つ返事で「洋次郎さん(父)が回復するまで徳島帰って来んでええぞ!」っておみっちゃんに言ってくれたらしい。父の闘病生活から庭瀬家にとっておみっちゃんの存在はとてつもなく大きく、父の死後も母がなんとか踏ん張って生きていけたのはおみっちゃんの存在がとても大きかった、と僕は思ってる。

そんなおみっちゃんから電話が来た。平日の夜9時を過ぎた時間に電話が来るなんて事はまず無くて、、、嫌な予感しか無かった。普段レッスン中に携帯に出るなんて事は無い。でもこの時ばかりは生徒さんにお詫びしつつ電話に出た。

淳子の電話が繋がらんのんじゃ、家も携帯も。幸ちゃん何か知らんかな?

受話器越しの声は尋常じゃ無かった。毎週月曜と木曜の19時に母とおみっちゃんは電話で話すのがお決まりになってたらしく、その日(2017.3.27)は月曜やった。父の他界後ずっと続いてた恒例行事の電話に出ない事で心配で僕に連絡してくれてた。普段なら「大丈夫ちゃう?」で終わるのが胸騒ぎが止まらず、嫌な予感しかなく、レッスンを中断させてもらいセンター北にあった母の家まで横浜から第三京浜を走った。あの日は覚えてる事と覚えてない事がごちゃごちゃになるほど頭が混乱したけど第三京浜の景色はハッキリ覚えてる。なので未だに第三京浜を走ると気持ちと呼吸が乱れる。人間って不思議。

母のマンションに着き駐車場に車が停まってるのを確認して心拍数があり得ないほど上がったのも覚えてる。嫌な予感しかしなかった。頼むからただ買い物に行ってただけ、とか友達とお茶してた、とかであって欲しかったから。車を停めて玄関まで走った、はず。どうやって鍵を開けたのか覚えてない。次に覚えてるシーンはトイレの扉から見えた横たわる母の姿。そこからも記憶は途切れ途切れ。悲しさと恐怖がブレンドされた感情。救急車を呼ぶのに110番してて「119はにかけ直して!落ち着いて!」と励まされたのも覚えてる。119番に繋がったら救急車が到着するまで心配蘇生の為の心臓マッサージをして下さいと言われ「もう手遅れです、冷たいんです、カチカチなんです」と泣きながら震えながら伝えたら「それでもやって下さい!あなたの義務です」的な事を言われた、はず。ハンズフリーの受話器越しにオペレーターの方が「いち、にい、さん!もう一度!いち、にい、さん!」って言ってくれてたのも覚えてる。さっきまでレッスンしてた自分と冷たい母の心臓マッサージをしてる自分が同じ世界の住人とは思えず脳が完全にパニックを起こしてた。同時に「悲しみ」だけじゃなく冷たくなった母を心臓マッサージしてる現実にとてつもない「恐怖」を感じてる自分が何て冷たい人間なんだろう、と悲しく情けなくなったのも覚えてる。

しばらくして警察の方が来て、検死の方が来て、マンションは物々しい空気に包まれた。恐らくご近所の方も怖かったはず。今思うとお詫びに回るべきやったと反省。当時は人のこと気にかける余裕が全くなかった。事件性を調べる為の検死が進む中、僕は警察の方に事情聴取されてた。そこからの記憶は全てある。色々質問される中で

お家に着いた時に電気は点いてましたか?

と聞かれた。全く覚えて無かったから「気が動転してて覚えてません」と答えると一人の警官が「それじゃ困るんだよ」と。今思うと彼らはそれもお仕事でこういう事も日々沢山あっていつものルーティンの一つだったんだろうし仕方ないといえば仕方無かった。その時の自分にはそんな風に思える余裕が無く「お前自分の母親が倒れてて同じ状況でも覚えてるんやな?」って喰らいかかった。わめき散らした。他の警官に取り押さえられるほど暴れた。暴れたら冷静になって、ようやく自分を取り戻した。

検死が終わり事件性は無いとの判断。そこで検死官の方から言われた一言で再びパニックになった。

お母さん、癌だったんですね

はっ???

何一つ知らなかった。おみっちゃんも僕も弟も。世界の誰にも癌だった事を言わず、枕元には痛み止めの為か?バファリンだけ置いてあった。モルヒネなど無いと眠れないという痛みをバファリンで耐えてたなんて、、、どんな思いで最後の数ヶ月一人で過ごしてたのか想像もつかない。何故癌の事を言ってくれなかったのか?何故病院で治療しなかったのか?何故、何故、、、とやるせない想いはあったけど、、、今なら母の気持ちも充分分かるし自分が同じ立場なら同じ事するとも思う。

3年前の今日から僕の目に見える世界は少し色が変わった。自分も大切な人たちも生きていられるのは当たり前じゃないという大前提が先ず頭の中にあって、そこが全ての出発点として物事を捉える様になった。事務所を離れ独立して宇田と二人でリスタートを切る決意も間違いなく3年前の今日が大きなキッカケになってる。断固たる決意で動き出したはずが当時と大して変わって無い現状に情けなくなる日も少なくないけど、、、もう一踏ん張り、って思えるのも3年前の今日があるから、な気がする。

奇しくも今夜21時~アコフェスVol.11に関しての大切なお知らせを

N.U.tube(アコフェスYouTubeチャンネル)で生配信する。同時にN.U.の事についても大切なお話をさせてもらう予定。狙って決めたわけでは無いのに3/27になった。偶然とはとても思えない。

実はここ数日、やったるでー!って自分より、なんだかな~って想いに負けて余り頑張れてない庭瀬でした。僕の中で【世界は自分が思うほど自分に興味がない】って言葉が常にあって、それを良い意味で解釈して動いて来た。「そんな事気にせずやったれー!」って捉え方。でもこの数日はコロナの影響もあってか?悪い方に針が触れてた。世界に興味が無くなってたって感覚。やらないといけない事は山ほどあるけど、何か急に色んなことがどーでも良くなってしまって2~3日ダラダラと目の前の事をただこなしてた。特に書きたい事も無かったからブログも書かずにいた。で、気付いたら母の命日やった。今夜配信があるって事もあってか?何故か再びスイッチが入った。ホンマ不思議。

人は病院で最期を迎えると、家族に見守られながら何なら手を握り合って息を引き取ると、勝手に思ってた。現実は、、、全てある日突然起こる。

電話しとけば良かった
ご飯食べに行っとけば良かった
産んでくれてありがとうって言えてたら良かった
活躍してるN.U.を見せたかった
もっと親孝行してれば良かった

後悔しかない。3年経った今日も。
不甲斐ない。3年経った今日も。
時間だけが流れて、何一つ前に進めてる気がしないN.U.の現状にもがきながら、昨年末に宇田のお父さんも他界、ステージに上がる5分前に警察からの連絡で知るという宇田にとって余りにも酷な状況を何とか乗り越え、さあ結成20周年!と想いを新たに迎えた2020年もコロナウイルスに全て吹き飛ばされた感覚。

それでも身体が元気で演奏も歌う機会もあって気にかけてくれるファンの皆がいる今に感謝して生きて行きたいし、行かねばと思う。

今回のブログに関しては自分の為に書きました。特に意味ないです。聞きたくも知りたくも無いであろう事をつらつら書いてしまったけど、あの日の出来事を書く事でもう一度心の整理したかったのかも。ずーっと頑張ってる感にちょい疲れたのかも。SNSと違ってブログは興味ある人しか見に来ないから、そこに甘えさせてもらったのかも。都合良い事に今は全部コロナのせいに出来るからwwそこだけ便乗しようかな~って思ったのかも。

個人的に今夜のNUtubeからリスタートします♪
一人でも多くの人に観てもらえる事を願ってます。
ひとまず寝まーす!

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