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十二階下の鬼

夜の帳が街に降りた頃、昼間とは違った喧騒が満ちる。
酔客の笑い声や女たちの嬌声に彩られた街の奥には、浅草の観光名所「十二階」が黒々としたシルエットで聳え立っている。
目的のステンドグラスで彩られたドアからは、オレンヂ色の優しい光が漏れ出ていた。
さながら舞い飛ぶ虫を引き寄せる誘蛾灯のように。
カフェー・ライオンの軋むドアを開けると、カラコロと来店を知らせるベルと蓄音機が奏でる音楽が重なった。
そして馴染みの女たちの甲高い声が迎えてくれる。
「あら、トワさん。お久しぶり!」
トワ、とはここでの僕の呼び名だ。
もちろん本名ではない。
名乗る必要もない。
ここは僕が心から寛げる、数少ない場所だ。
地元から離れての仕事を終えて数日ぶりで顔を出した僕に、女給達がわらわらと寄ってくる。
「随分とご無沙汰だったじゃぁないの。寂しかったわ」
「やあ、嬉しいことを言ってくれるね」
僕は帽子を取ると、脱いだコートと一緒に近寄ってきた女給の一人に渡す。
「最近やけに仕事が忙しくてね。こっちに顔を出す暇もなかったよ」
「まぁ、この不景気なご時世に嫌味なこと」
女はぷぅぅっと頬を膨らませて僕の腕をつねってきた。
「あいてっ! 酷いなぁ」
つねられた腕をさすりながらテーブルにつき、僕はビールを注文する。
「ほらほら、松子ちゃん、おやめなさいな。トワさんが困ってるじゃあないの」
盆にグラスとビール瓶を乗せた女給の小春姐さんが、僕に絡んでくる娘を引き剥がしてくれた。
「ここンとこねぇ、お客さんがとんと減っちまってさ。まったく弱っちゃうったら」
小春姐さんは僕のテーブルに座ると、頬杖をついて憂い顔でため息をつく。
「何かあったのかい?」
「あら、トワさんはご存じない? 最近この界隈で起こってる事件をさ?」
「しばらく東京を離れていたんでね。それで事件ってのは?」
店内に客の姿はまばらで、僕の他にはポツンポツンとテーブルが埋まっているだけだ。
暇を持て余した女給たちが僕のテーブルに寄ってきて口々に囀り始めた。
「鬼が出るのよ、鬼が」
「ちがうわ、あれはオバケよ」
「なによ、同じじゃない」
「おいおい、それじゃあ分からないよ」
集まってきた女たちを見回し、僕は見知った顔が幾つかないことに気がついた。
「おや、梅子ちゃんと櫻ちゃんの姿がないようだが、どうしたんだい?」
僕の言葉に喧しく囀っていた女たちの声が静まった。
物言いたげな顔で目配せしあっている。
「梅ちゃんと櫻ちゃんね、何日かお店に顔を出してないのよ」
空になった僕のグラスに小春姐さんがビールを注ぎながら、教えてくれた。
「トワさん、東京にいなかったんなら知らないかも知れないけど。この界隈で神隠しが流行ってるのよ。梅ちゃんも櫻ちゃんもそれに巻き込まれたんじゃないかって噂してたの」
「神隠し?」
「やだ、小春姐さん。だから神隠しじゃなくて、鬼が食べちゃったのよ」
「何馬鹿なこと言ってるの。きっと梅ちゃんも櫻ちゃんも、いい情人つかまえて出ってたのよ」
「そうねぇ、あたしたちだっていつまでも続けられる仕事じゃないしねぇ」
「でもあの二人が、何も言わずにいなくなるなんておかしいじゃない」
「そうよ、これまで一緒に働いてきたんだから、何かひと言ぐらいあるはずよ」
場が暫ししんみりとする。
「ほらほら、あんたたちいい加減におしよ。ほら、お客さん」
ちょうどドアが開いて、店内に新しい客が入ってきたところだった。
「みんなね、あれでも心配してるのよ二人のこと」
小春さんが自分の前に置いたグラスにビールを注ぎ、そのグラスの縁を指でなぞりながら僕に告げる。
「あたしたちはさ、『十二階下の鬼』って呼んでるんだけどね」
彼女の話をまとめると、こうだ。
先月の中頃から、浅草の十二階下界隈で若い女性ばかりが数人、行方不明になる事件が起こっている。
初めのうち警察は家出や駆け落ちなどではないかと考えていたらしく、あまり捜査には乗り気でなかったらしい。
家族にせっつかれて聞き込みを開始するも、周囲の人間から彼女たちの失踪に関する手がかりになりそうな情報は得られなかった。
少なくとも自分の意志で姿をくらまそうとするなら、親しい人間の一人や二人に何かしらの相談をしていても良さそうなものだ。
しかし、職場や学校の友人などに話を聞いても、何一つ心当たりがないという。
ようやく警察が「連続失踪事件」として動き出した頃には、行方不明者は五人を越えていた。
まったく捜査に進展がないうちに、今度はカフェーの女給である梅子が、ついで櫻が姿を消した。
二人とも仕事が終わり、帰宅途中にそのまま消えてしまったのだという。
「若い女ばかりってのがミソじゃない。で、うちの子たちが『きっと鬼に攫われたんだ』って騒ぎ出して。ついた名前が『十二階下の鬼』ってわけ」
「『十二階下の鬼』ねぇ……」
ちょっと離れている間にそんな事になっていたとは。
近代化の象徴として鳴り物入りで建設されたレンガ造りの高層建築物が、得体の知れない妖怪変化の起こしていると目される事件の冠になるとは、なんという皮肉か。
「でも自分からいなくなったとは考えられないのかい? まあ全員が、ってのはないかも知れないが、消えた女たちのうち幾人かは自分で姿を消したのかも知れないよ。梅ちゃんと櫻ちゃんも、もしかしたらいい情人が出来たのかも」
「そりゃあね、もしかしたら誰にも何も告げずに行方をくらました人もいるだろうけどさ。でも梅ちゃんと櫻ちゃんは違う。絶対にあの子たちが自分から姿を消したりするわけがない」
僕の意地の悪い問いかけに、小春姐さんは力強く言い切った。
「へぇ、どうしてそう言い切れるんだい?」
すっかり泡の消えてしまったビールを一気に喉に流し込み、小春姐さんは僕から視線を逸らして口を開いた。
「梅ちゃん、病気のおっかさんと一緒に住んでるのさ。母一人娘一人でずっと暮らしてきて、二年前におっかさんが肺病みになっちまった。働けなくなって寝付いたおっかさんを養うために、梅ちゃんはこの店に来たんだよ。おっかさんの薬を買うには大金がいる。学のない小娘が金を稼ぐには体を使うしかないじゃない。ここなら街に立つより稼げるし」
カフェーや酒場で働く女たちのほとんどは、無給だ。
彼女たちは一銭でも多く稼ぐために、客と関係を持つ。
「櫻ちゃんだって同じよ。あの子、誰にも言ってなかったけど子供がいるの。悪い男に騙されて、捨てられて。親からは勘当されてて頼れないし、自分だけじゃ育てられないからって子供は乳児院に預けられてて、そこに毎月お金を送ってるのよ。あの子たちがおっかさんや子供を捨ててどこかに消えるなんて、あたしには考えられない」
僕の前に置かれたビールは、ほぼ全部、小春姐さんが飲んでしまった。
追加のビールを注文すると、思い出したように僕のグラスに注いでくれた。
「これもね、まだ誰にも話してないんだけどさ。警察がお店に事情を聞きに来た時に話してくれたのよ。櫻ちゃんの靴が片方だけ見つかったって。片足だけ靴を履いて、トワさんだったらどこかに行きたい? 梅ちゃんも櫻ちゃんも、自分で消えたんじゃないわ。誰かに連れ去られたのよ」
声を潜め、僕にだけ聞こえるほどの小声で教えてくれた。
「二人とも無事で戻ってきてくれるといいんだけど……」
グラスに落とし込むように呟いてから、小春姐さんはぐっとビールを飲み干した。
店の奥から呼ぶ声がして、「ゆっくりしてってね」と言い残して彼女はテーブルを離れていった。
自分のグラスを満たしながら、僕は今聞いた話を思い返していた。
随分とややこしいことになっているようだ。
蓄音機から流れる音楽、これは梅子と一緒に踊ったことのある曲だ。
弾けるような笑顔のかわいい娘だった。
甘いものが好きな櫻は、たまに差し入れたお菓子を大層喜んでくれたものだ。
カフェーの女給たちの中でも年嵩だった彼女は、華やかさこそないが落ち着いた雰囲気の目鼻立ちの整った女性だった。
二人がこの店で僕を迎えてくれるのが当たり前のことで、こんなふうにいきなり姿を消してしまうなどと、考えたこともなかった。
店内を見回しながらぼんやりとそんなことを考えていると、段々と胸の奥の方からせり上がってくる感情がある。
黒々とした感情を持て余していると、不意に声をかけられた。
「少しお話させて頂いてもよろしいかな?」
いつの間にか僕の卓のそばに一人の男が立っていた。
腕に上着をかけ、脱いだ帽子を胸にあてて、眼鏡の奥の細い目を、さらに細くして笑っている。
カフェー・ライオンでは見かけない顔だ。
「こちらに座っても?」
男は僕の返事も聞かずに隣の席に腰を下ろし、近くにいた女給を呼び止めてビールを二人分注文する。
「いやぁ、先程から拝見していましたが、貴方は人の話を聞かれるのが非常にお上手でいらっしゃる。そこで是非、私の話も貴方に聞いて頂きたく思いましてな」
男の顔には仮面のように張り付いた笑顔、否、これが地顔なのだろうか?
ただ奇妙に心をざわつかせる表情であることは間違いない。
僕は胸ポケットからタバコを取り出すと、紙マッチを摩って火を点ける。
男が物欲しそうにこちらに視線を向けてきたが、無視して煙を吐き出す。
カフェーで客同士が知り合いになるのは珍しくない。
僕自身、酒や音楽の話で見ず知らずに客と意気投合し、会話を楽しんだことは何度もある。
だがこの男とは「仲良く」なれる気がしない。
「虫が好かない」端的に言ってしまえば、そういうことだ。
何が、とは詳しく言いたくないが……とにかくこの男とは合わない。
テーブルに届けられたビールをグラスに注ぎ、でもそれを口に運ぶでもなく、グラスの縁を指先で叩きながら男が話し始める。
「私はね、以前、人を殺したことがあるんですよ」
最初の一言はそれだった。
そして僕の反応を確かめるように目線を向けてくる。
「おや、驚かれないんですか?」
自分のグラスにビールを注ぎ、それを半分ほど喉に流し込んでから男を見た。
「こういった所だと、自分を必要以上に強く見せようと話を盛る輩が多くてね。そのくらいのことじゃ、驚きませんよ」
僕の反応が、自分の思っていたものと違ったからだろうか。
動かしていた指を止めると、グラスを持ち上げて一気に飲み干した。
「ふふふ、そうですか。でもきっと、私のような体験をした人は他にいないと思いますよ」
僕が肩をすくめてみせると、その仕草を承諾だと受け取ったのか男は話を続けた。
「私が殺したのはね、自分の恋人だった女なんですよ。彼女もね、カフェーの女給だったんです。そう言えば店の雰囲気も、こことよく似ているなぁ。働いている女給たちの中でも、彼女は飛び抜けて美人でねぇ。彼女を目当てに店にやってくる男たちも沢山いたんですよ。でも彼女が恋人に選んだのは私でした。彼女に言い寄る数多くの男たちの中から、選ばれたのは私だったんです。あの時は天にも昇る心持ちでした」
当時のことを思い出しているのだろうか。
男はぐるりとカフェーの中を見回した。
「私は彼女を手に入れたことが嬉しくて、嬉しくて。彼女の気を引こうと幾人もの男たちが何日もカフェーに通ったり、高価な贈り物をしていたのを知っていましたからね。私自身、彼女に自分のことを知ってほしくて足繁く店に通いましたし、流行りの化粧品や香水なんかを贈ったりしていました。その努力が実って、私は彼女に選ばれたんですから。彼女は店の中でも、他の男たちに見せつけるように私に寄り添い、私は有頂天になっていました。一緒に食事に行き、キネマを観て、お祭りにも出かけました。美しい彼女と出歩くのは、非常に楽しかった。道行く男たちが振り返って彼女を欲望溢れる眼差しで見つめ、次に隣にいる私へ羨望と嫉妬の視線を送る。なんとも気分が良かった」
瓶を持ち上げてグラスにビールを注ぎ、唇を湿す。
「私は彼女と一緒に暮らすために新たに部屋を借りることにしました。それを知った家族や友人は一斉に反対しました。きっと私が彼女に騙されているんだと、皆はそう考えたようです。酷い目に遭う前に考え直したほうがいいと、忠告してくれる者もいました。でも私はそれらの忠告を無視して、新しい部屋で彼女と一緒に暮らし始めました。でもその幸せな生活は、長くは続かなかったんです」
声の調子が変わる。
「自分で言うのもなんですが、私の家は資産家でして。彼女が自分に言い寄る多くの男たちの中から私を選んだのは……金のためでした。そんなことも知らず、私は浮かれ騒いでいたんですから滑稽ですよねぇ。他の誰もが分かっていたというのに、私だけがそれを分からずに得意になっていたんですからねぇ」
自らを嘲るような声の色に、僕はようやく男の話に興味を持った。
「ほう、それでどうなったんですか?」
相手のグラスにボールを注ぐと、女給を呼んで追加のビールを頼む。
新しい酒瓶をテーブルに届けてくれた小春姐さんが僕に視線を寄越し、『大丈夫か?』と尋ねてくる。
それに対して僅かに頷いてから微笑んでみせた。
『こっちは大丈夫だから』と小春姐さんを安心させる。
「一緒に暮らし出すとすぐに、彼女の本性が私にも見えてきました。次々に高価な服や宝飾品を欲しがり、贅沢な食事に酒をねだるようになっていきました。最初のうちは彼女が喜ぶ姿が見たくて、言われるがままに金を使っていました。美しい彼女を美しい服や宝石で飾るのは楽しかったし、嬉しかった。着飾って女王のように振る舞う彼女に、蟻の如く群がる男たちの姿を見て優越感に浸る。美しい女神を作り出したのが自分だと思うと、とても誇らしかった。しかし彼女は私ではなく、私の持っている金にしか興味を示しませんでした。彼女にとって私の存在意義など、望めば自由に、いくらでも金の出てくる革製の財布くらいにしか思っていなかったのでしょう」
グラスを握る男の手に力が入る。
夢見ていた恋人との甘い生活が脆く崩れ去り、目にしたくもない醜い現実を突きつけられたことで激しい怒りと失望を感じたのだろう。
僕に声をかけてきた時よりも余程、人間らしい表情をしている。
「私の金を使い、勤めているカフェーで取り巻きを集めて乱痴気騒ぎを起こすようになっていきました。私がそれを咎めると、彼女は酷く私を罵るのです。私がどれだけ面白みがなく、クソ真面目で退屈な、何の取り柄もない男かということを。美しい顔を歪め、赤く塗られた唇で私を貶める言葉を吐く。私は何度もやめてほしいと頼みました。いくら家が資産家だと言っても、それは所詮『家の金』であって私の物ではありません。ああ、そりゃあいつかは私の物になるでしょうが……でもまだ先の話です」
三日月のように細い男の目に、暗い、昏い、闇い、冥い光が灯る。
「それでもまだ、私は彼女のことを愛していました。金で彼女が満足するのなら、私の持っている財産はすべて彼女のために使ってもいいとさえ思っていました。私の、彼女への想いを知ればきっと、私の想いが通じればきっと彼女は変わってくれる。私自身の魅力に気付いて、私を受け入れ、理想の恋人同士になれると」
「でもそんなことにはならなかった。所詮は金で繋がっている二人だ。金の切れ目が縁の切れ目。でしょう?」
「ええ、そうです。貴方の仰る通りだ。彼女の金遣いは増々酷くなっていきました。一体、いつ着るのかと思うほど大量の衣服に宝飾品、毎晩毎晩、高価な酒を浴びるように飲み、大騒ぎを繰り返します。そんな生活をしていたら、私の持っている財産などあっという間に底をついてしまいます。もうこれ以上は金が続かないと彼女に告げると、まるで厭らしい虫螻でも見るような目つきで私を見やりました。金がないならもう私には用はないと言い放ち、部屋から出ていこうとしました。別れたくないと縋る私を足蹴にし、唾を吐きかけさえしました。私はもう無我夢中で……」
ごくり、と男の喉が鳴る。
「気がつけば彼女は私の手の中でグッタリとしていました。私の手首や腕には、彼女の爪によるものでしょう、引っかき傷が幾つもできていました。私は彼女を引き止めたい一心で、泣きながら彼女の頸を力一杯締め付けていたんですよ。私のこの両手で……彼女の細い頸を……」
眼鏡の奥の細い目に剣呑な光を宿しながら、男は自分の両手をじっと眺めている。テーブルの上で男の手は細かく震えていたが、ふと男が息を吐き出すのと同時にぴたりと動きを止める。
「動かなくなった彼女はね、とても、とても静かになっていましたよ。私を罵ることもなく、その細い腕は私を殴りつけることも、私を引っ掻くこともなく。その白い足は私を蹴ることもなく、部屋から出ていこうとすることもなく。ようやく私だけのものになった。これで他の誰にも彼女を奪われることはない。と、そう安堵さえしました」
「では貴方は、愛しい恋人をその手で殺し、物言わぬ骸を手に入れて満足した、と?」
「そう、思っていました。誰にも邪魔されずに、私と彼女だけの逢瀬を楽しむことができると。でもねぇ……人の骸は腐るでしょう? 生き物の肉叢は溶けるでしょう? どれだけ私が彼女の骸を愛し、慈しんだとしても、長い間一緒にいることはできません。美しかった彼女の体は腐り、溶け落ち、やがて激しく腐乱していきました。もはや部屋の中に置いておくわけにも行かず……。私は腐り果てた彼女の骸を布団にくるんで夜中に運び出すと、石をくくりつけて川へと放り込みました。不思議なものですね。あんなに愛していたはずなのに、彼女の骸を川へ投げ捨てる時には何の心も動きはしないのです。僅かに考えたことがあるとすれば、厄介で重たいこの『荷物』を早くどうにかしてしまいたい……ということくらいでしょうか」
この男の冗長で退屈な話は、一体いつまで続くのか。そしてどこへ帰着しようとしているのか。
僕は小さく手を挙げて女給を呼ぶと、エッグスオムネツと珈琲を注文した。
男の話に付き合ってビールを空けていたら、帰る時には正体をなくしてしまうかもしれない。
そんなことはゴメンだ。
もともとは帰る前に軽く食べていこうと思って店に寄ったのだし。
まあ、他の理由もあるにはあったが、それはさほど重要ではない。
もう目的の半分を達成したようなものだ。
「これで私の憂いの元はなくなったはずでした。余計な『荷物』を手放し、私は解放されたはずだったのです。しかし数日が経つと、私は徐々に落ち着かなくなっていきました。どうも誰かに監視されているような気がする。最初は官憲かとも思いました。私が彼女を殺して捨てたことを知った官憲が、密かに証拠を探っているのだと。ですがどうも様子が違う。もしも私のことを伺っているのが本当に国家警察なのだとしたら、対象者である私に気付かれるようなヘマはしないでしょう。昼夜の関係なく、人混みの中ですら、私を見つめる視線を感じ取ることは簡単でした。では一体誰なのか? その答えは程なく出ました」
男が自分のグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干している間に、僕の注文した品が卓に届けられた。
湯気を立てて震えている黄金色のオムネツにスプーンを差し込むと、豊かなバタァの香りが広がる。
食欲をそそる香気を胸いっぱいに吸い込むと、僕はおもむろにスプーンを口の中に導いた。
アツアツの卵が舌の上で蕩ける。
ああ、美味い。
僕がこのカフェー・ライオンを気に入っているのは、ここで働く女給たちの姿や店の雰囲気が好きだからだ。
他のカフェーのようにすぐに客を二階へ連れ込もうとしたりしない。
一銭でも多く稼ぐためには客と寝ることが必要になるが、この店の女たちはガツガツした様子を見せない。
そこがいい。
例えそれが生きていくために必要だと分かってはいても、客に気持ちよく疑似恋愛を楽しんでもらうことを重要視する。
店内に流れる曲のセンスも良い。
そして何より、料理が美味い。
カフェーにやってくる客の目的は主に「酒」と「女」。
金銭を稼ぐために店の上階で客を取る女給達を「十二階下の女」と蔑んで呼ぶこともある。
目的がソチラにあるせいか、安酒ばかりが並んでいたり、料理も珈琲も適当な店も多い。
だがその点、この店は文句なしだ。
あとは料理と珈琲に見合った、楽しい話題でもあれば最高なのだが……。
「私を追い回し、ずっと監視していた人物は誰だと思いますか?」
飲み過ぎじゃないのか?
こちらを見る男の目はドロンと濁り、すっかり出来上がっているようだ。
「彼女ですよ、私が殺した彼女。殺して冷たい水の底に沈めた彼女。私を見つめていたのは彼女だったんですよ! 信じられますか!?」
「酒の飲みすぎで幻覚でも見えたんじゃないですか? それとも恋人を殺してしまった罪悪感とか」
「ええ、貴方がそう考えるのも分かります。私だって誰かからこんな話を聞いたら、貴方と同じことを言うでしょう。でもね、違うんですよ。私には分かったんです。あれは彼女でした。紛れもなく、本物の。間違いありません」
僕の嫌味は通じなかったようだ。
男は熱に浮かされたようにしゃべり続ける。
「物陰から、暗がりから、昼となく夜となく、彼女は私のことを監視し続けました。どうしてそんなに私の後をつけ回すのか? 何故、私の前に姿を現したのか? その答えを探して私は悩みました。考えて、考えて……そして私は答えに辿り着いたのですよ! 何だと思いますか?」
知ったことではない。
だが相手にとって、それは質問でも何でもなかった。
後に続く言葉の前振りだ。僕がなんと返答しようが、そんなのはどうだっていい。
なにせ、話したくて仕方がないのだから。
「彼女が私をつけ回す理由。それは私に殺されるためなんですよ! 彼女は私に殺されたくて、私に殺されるために、ずっと私を見つめていたんです! その事に気がついて、私は躍り上がりました。喜びに震えました。彼女は私に殺されたがっている! なんと素晴らしい!」
卓の上で握りしめられた男の両手は、力を込め過ぎているのか白く色が変わり、ブルブルと震えている。
僕はそんな男の様子を横目で見ながら食事を続ける。
己を大きく見せたいがための虚言なのか、日々悶々と育んできた妄想が溢れ出して止まらないのか。
いずれにせよ、男の言葉は止まりそうにない。
「それで? それで貴方はどうしたんです?」
さっさとこの不毛な会話を終わりにして、ゆっくりと寛ぎたかった。
「彼女は本当にどこにでも姿を現しました。僕の職場、行きつけの食堂、銭湯、私が出かける所になら、どこにでも。ある夜、私は暗い路地を自宅に向かって歩いていました。その日は職場で嫌な事があったので、したたかに酔ってもいたのですが。そんな私の前方を、一人の女が歩いています。その後ろ姿は紛れもなく、彼女のものでした。駆け寄って彼女の肩を掴み、顔を覗き込むと私の事を驚いた顔で見返してきます。彼女です。私は嬉しくなって、彼女を抱き締めようとしました」
言葉が切れるとビールを喉へ流し込み、唇を舐めてから再びしゃべり始めた。
男の目はドロンと濁り、店内の照明を気持ち悪く反射している。
額には汗が光り、時折体を震わせて、とめどない言葉を吐き出し続ける。
「彼女は短い悲鳴を挙げて咄嗟に私を突き飛ばしましたが、次の瞬間には私が誰だか分かったようです。両手を広げて微笑みを浮かべ、私を迎え入れようとしました。ええ、確信しましたとも。やはり彼女は私に殺されたがっている。私の手にかかって生命を終えるその瞬間を待っている! ならばそれを彼女に与えてやるのが私の義務というものでしょう? え、そうじゃありませんか?」
しゃべり続ける男の目に、僕の姿は映っていないだろう。
きっと男の目に映っているのは、自分が殺したという女性の姿だけが見えているはずだ。
「私は彼女の願いを叶えてやることにしました。それ以外に、どんな選択肢が私にあるというんです? 彼女はあんなにも私に殺されたがっていたというのに。私は自分の内から湧き上がってくる衝動を抑える事が出来ませんでした。暗闇の中には私と彼女の二人だけ、他には誰も……私達を邪魔するような人間は他には誰もいません。私は大喜びで微笑む彼女の首に手を伸ばしました。指先に触れる彼女の首は期待と歓喜に震え、私に殺される瞬間を待ちわびているようでした。私は……彼女の細い首に……手を回して……」
卓の上に投げ出された自分の手をじっと見つめ、ブルブルと震えながら男は話を続ける。
「彼女は私の手の中で小鳥のようになされるがままでした。彼女は自分の息が詰まっていくのを、うっとりと待っているようですらありました。わずかずつ力を込め、私は伝わってくるその震えを楽しみました。ゆっくりと、ゆっくりと、私は彼女の首を締め、彼女の体から力が抜けていくのを感じていました。ええ、私は彼女の命を奪うその時を楽しんでいたんです。私の手で彼女の命を奪う、それが嬉しくて楽しくて、私は柄にもなく興奮してしまいました」
その瞬間の事を脳内で再生しているのだろう。
きっとこれまでも、何度もそうしてきたように。
微に入り細に入り、繰り返し思い出すたびに、記憶は鮮明になっていく。
吐息の一つ、眼球の揺れの角度、もがく相手の爪につけられた引っかき傷の筋の一本。
「私はもう考えるのをやめました。彼女は私に殺されたがっているんです。それなら彼女のその望みを叶えるのが、私に課せられた使命だと思いませんか? だから私は、その使命に従う事にしたんですよ。なんと心の軽くなったことか。その夜から私は、彼女の姿を探し求めて夜の街を彷徨いました。不思議ですね、いざ彼女のことを探すとなると姿を見せなくなるんですよ。あれほど私の前に姿を現していたというのにね」
男は口の端に唾液の泡を溜め、眼鏡の奥の目を血走らせてしゃべり続ける。
ゆらゆらと体を揺らして熱っぽく言葉を紡ぎ出す男の吐き出す毒は、静かに店内を汚染していくようだ。
「何度も何度も私は彼女の命を奪いました。この手で、彼女の細い首を締めて……ああ、あの瞬間の素晴らしさと言ったら。……おや、ビールが終わってしまいました。いやぁ、長々とお話してしまいましたな。私はこの辺で失礼するとしましょう。楽しい時間をありがとうございました」
男は最後まで一方的にしゃべり終えると、財布から金を取り出して卓へ置いて席を立った。
既に僕への興味は失せてしまったようで、一瞥をくれる事もなくコートを羽織って店を出ていく。
「何だい、ありゃぁ?」
卓に残された食器類を下げに来た小春姐さんが、閉まったドアの方へ視線を投げながら、心底呆れたように吐き出した。
「どうやら連続殺人鬼が己の所業を誰かに知って欲しくて語りに来たようだよ。たまたま彼が選んだお相手が、僕だったという話さ」
ブルッと体を震わせて「おお、嫌だ嫌だ。連続殺人鬼だなんて、冗談にしても笑えない」と、露骨に顔を顰めて呟いた後、僕へと視線を戻して小春姐さんは小さく頭を下げた。
「ごめんなさいねェ、トワさん。お客様なのに、あんなおかしいヤツの相手なんかさせちゃって」
「いや、いいんだよ。僕の方も暇つぶしくらいにはなったさ。ああいうのはね、しゃべりたいだけしゃべらせて、黙って聞いてやりさえすれば特に害はないよ。まあ、その分小春姐さんとおしゃべりできなかったのは残念だが」
「あらやだ、嬉しい事を言っておくれじゃないか。ンフフ、珈琲をもう一杯いかが? 変なお客に付き合わせたお詫びに、あたしが奢らせてもらうからさァ」
「それじゃ、ありがたく」
「それにしたって、最近は変なお客ばっかりでヤんなっちゃうよ。帝都の治安も大したことないねぇ」
「本当だよ。官憲もさ、あたしらみたいな善良な一般人捕まえていじめてないで、もっとヤバい連中をどんどん捕まえてほしいもんさ」
「十二階下の鬼とかね!」
店内にいた女の子達の笑い声が戻ってくる。
あの男の撒き散らした毒で淀んでいた空気が、ようやく元に戻ったようだ。
小春姐さんが持ってきてくれた珈琲を飲み干し、僕は元気なコマネズミよろしく働きまわる女給達の姿を堪能してから、カフェー・ライオンを後にした。
季節はこれから冬に向かう。
せっかくカフェーで温まった体に冷たい空気が忍び込んでくるのが、コートの布越しにでも分かる。
ゆっくりと夜道を歩く僕の靴音が街にたむろする酔客達の喧騒に紛れる。
それも一本脇道へ入ってしまえば、聞こえてくるのは僕の足音だけ。
コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ……。
僕の靴音に重なるように、もう一つの足音が後を付いてきた。
「やっぱり来ましたね」
足を止めて、背後にいる人物に声をかける。
「ああ、私の思っていた通りだ。貴方からは、私と同じ匂いがする」
嬉しそうに言葉を返してきたのは、先程までカフェー・ライオンで僕に熱く恋人殺しについて語っていた男だ。
「貴方とはもっと仲良くなれると思っていました」
「仲良く? 僕と貴方が?」
「ええ、そうです。ひと目見て分かりました。貴方と私は同じ種類の人間ですよね」
眼鏡の奥の瞳は底無しの黒い沼だ。
「心外ですね、僕と貴方が同じ種類の人間だなんて。僕は貴方のように人殺しを得意げに、誰かに話したりしませんよ。貴方は殺しを心から楽しんでいる」
「確かに私は殺しを楽しんでいます。でもそれは、たった一人、彼女に対してだけですよ。その他の女なんてどうだっていい。私にとって大事なのは彼女ただ一人なんです」
雲の切れ間から差し込む月の光が、オペラ俳優のように両手を広げた男の姿を照らし出す。下手くそな三文芝居だ。
僕はそんな男の様子に、声をあげて笑ってしまった。
「いい加減に、そんな茶番はよしたらどうです? 『彼女』だけが大事? 違いますね。貴方は分かっているじゃないですか。『彼女』のことなんかどうだっていいんです。ただ単純に、『彼女』はきっかけに過ぎない。最初の殺人を犯したことで、貴方は禁忌の壁を越えたんだ。今は貴方が殺したいから、殺しているに過ぎない。ねえ、『浅草の絞殺魔』さん? それとも『十二階下の殺人鬼』とでもお呼びした方がいいですか?」
僕が告げると、男は嬉しそうに天を仰いだ。
「素晴らしい! そう、女達の細い首を私の手で締め上げる時……命の灯火が消えるその瞬間が堪らないんですよ。どんなに生意気な態度を取っている女でも、私の手が首にかかると目を見開き、震えながら命乞いをするんです。許して、死にたくない、助けて、思いつく限りの言葉を並べて、私の慈悲を請う。私を見下していたその目で、見苦しく私にすがるんです。ああ、思い出すだけで心が弾む」
蕩けた笑みは醜悪に染まり、だらしなく開かれた口からは涎が糸を引いている。
「それで? 一体僕にどんな要件があると言うんです?」
「折角見つけた同好の士です。より深く知り合いたいと思うのは当然のことでしょう」
「同好の士? おかしなことを言う。たまたまカフェーで貴方のことを話していた僕に目をつけた。さしずめ今度は趣向を変えて、男を殺したくなったというところでしょう」
「そうですね。もしも貴方が私と分かり合えないというのなら、それも仕方がない。まだ男を殺したことはないんですよ。どんな感じがするんでしょう。流石に男を殺すのに素手というわけにもいきませんので、こういった物を用意したんですがね。何とも無粋な気がしますね」
男はそう言ってコートのポケットから細長い物体を取り出した。
月光を反射して冷たい霜色に輝くのは、鋭いナイフ。
「そんな物を持ち歩いていたのか、物騒だな」
ナイフの刃先を弄びながら男が近づいてくる。
「本当はね、こんなことはしたくないんですよ。貴方と仲良くなりたいというのは、私の本心なんです。ねえ、どうか私の申し出を断らないでくださいよ。貴方を殺したくはないんです」
「それは、どうも。でも表情が言葉を裏切っているよ。僕のことを殺したくて殺したくて堪らないくせに」
「貴方にはお見通しなんですね。貴方の体にこのナイフを突き立てたら、一体どんなふうに血が吹き出すんでしょう? きっと湯気が立つほど温かいんでしょうねぇ」
欲望に支配された男の顔。
「最後に一つだけ聞かせて欲しいな。カフェー・ライオンの女給、梅子ちゃんと櫻ちゃんを殺したのも貴方ですか?」
「梅子に櫻? 名前なんて知りません。でもあの店の女給なら、確かに私が殺しましたよ。子供がいるから助けてくれとか言ってたっけかなぁ? あれ、母親だっけ? まあ、どちらでもいいじゃありませんか。死んでしまえば関係ないですし。それにね……」
男は軟体動物のような舌で唇をべろりと舐める。
「この世に未練がある方が、長く楽しめるんですよ。さあ、貴方はどれくらい私を楽しませてくれるんですか!?」
「──それだけ聞けば十分だ」
ナイフを振りかざして飛びかかってきた男の、その刃が僕の体に届こうかとする寸前。
相手は「あれ?」と首を傾げて動きを止めた。
振り上げた彼の右手には……ナイフを握っていたはずの手首から先がなくなっていた。
「大上段に振りかぶって飛びかかってくるなんて、とんだ三流だな」
ぬめるナイフの柄を握り直し、僕は男に笑いかけた。
右手を失った男は鮮血が吹き出す傷口を押さえて、よろよろと後退った。
「懐に獲物を忍ばせているのが、自分だけだとでも思ったのか?」
路地を照らしていた月が雲に隠れ、僕の姿を闇に落とす。
「お前はね、僕の大事な場所で好き勝手しすぎた。ちょっとこの街から離れている隙に、こんな奴に荒らされるなんて。本当に腹が立つね」
男の目に僕はどんなふうに映っているのだろう?
「獣はね、自分の巣の周りでは狩りをしないんだよ。どうしてだか分かるかい? 血の臭いで敵に巣の場所を知られないようにするためさ。だから僕も自分の塒の周辺では狩りをしないことに決めているんだ。それにカフェー・ライオンは僕のお気に入りの場所でね。あの店の女の子達には絶対に手を出さないようにしていたのに」
指の腹でナイフの刃先に触れてみる。
ふむ、今夜も切れ味は上々だ。
「ああ、勘違いしないで欲しいんだがね。僕はお前の殺人を云々するつもりはないよ。そんなのは些細な事だ。僕が腹を立てているのは、お前が僕の『聖域』を荒らした事に対してだ」
「せい……いき?」
男がオウム返しに口の端に上らせた言葉に頷く。
「そう、カフェー・ライオンは僕の『聖域』だ。『仕事』を終えた後であの店に行き、賑やかな女の子達の声を聞いて、美味い酒と料理を堪能して心を休ませる。何でもない、いつもの『日常』へ帰っていくための大事な儀式。そうする事によって『仕事』の精度が上がるんだ」
お前のように衝動に任せて手当たり次第に女を殺すような奴には理解し難いだろうな。
まあ、理解してもらおうとも思わない。
どうせこの男は、ここで死ぬんだ。
「やっぱり、貴方は私と同じ人間だった! 私は間違っていなかった。だったら貴方には分かるはずだ。私は殺さずにいられないんだ。悪いのは私じゃない。私にこのような衝動を生み出させる相手が悪いんだ。なのにどうして、貴方は私を殺そうとするんです!?」
先に僕に刃を向けたのは自分の方だろうに。
完全に思考が破綻している。
「貴方も殺すんでしょう? なのに私も殺人を咎めるんですか?」
「だから僕は殺人について云々するつもりはないって言っているだろう。僕の大事な物を壊したから、それについて責任をとって貰おう、それだけの話だよ」
そこで少しだけ考えて言葉を繋いだ。
「もう一つあったな。お前のせいで官憲の目が厳しくなった。僕はこの街では『仕事』をしないけれど、変な所から僕の事を嗅ぎつける者が出るかも知れない。それは非常に迷惑だ」
なんと馬鹿な男なのだろう。
こんな所で長々と僕の話を聞いたりせずに、さっさと逃げ出せばいいものを。
もしかしたら──万が一くらいには──助かる可能性があるかも知れないというのに。
燃え尽きると分かっていても惹き寄せられる誘蛾灯の光に逆らえない、愚かな羽虫のようだ。
随分と血も失っているだろうに。
さっさと終わらせてやるのが慈悲というものだろう。
「貴方と、貴方と私なら、もっと沢山殺せるんです。貴方を殺そうとした事は謝ります。だから私と一緒に……」
今更、何を言い出すのかと思えば。
「お断りだ。『仕事』は一人でやるに限る。自分よりも劣るレヴェルの相手と組んだりしたら、そこから足がつく」
男に向かって一歩踏み出す。
「それにお前、その手でどうやって殺すつもりなんだい?」
僕の言葉に、男は思い出したように自分の右手を見下ろした。
そして悔しさと悲しさと残念さの入り混じった色を湛えた目を僕に向ける。
「さあ、幕を閉じよう。『十二階下の鬼』は今夜、この場で死ぬんだ」
路地にがっくりと膝をついた男にゆったりと近付くと、僕は手にしていた刃を相手の首筋へと食い込ませた。
優しささえ込めて、脈打つ血管を断ち切る。
ガクガクと痙攣する男の首から鮮血が吹き上がるが、月明かりのない暗がりではその色も冴えない。
カヒュッ、カヒュッと壊れた呼吸音がしばらく聞こえていたが、やがてそれも静かになる。
「自分の血は温かかったかい?」
路地を染める血溜まりの中、前のめりに倒れた男──「十二階下の鬼」──の遺骸に一瞥をくれると僕はその場を後にした。
言葉に出さず、胸の中で梅子と櫻の仇を打った事を告げ、二人の冥福を祈る。
そして自分の行動の矛盾に笑った。
僕だってこの男と一緒だ。
もしかしたら、知らず誰かのテリトリーを犯しているかも知れない。
これまで僕の手にかかって死んでいった誰かの遺族に、いつか見つけ出されて仇と狙われるかも知れない。
僕が殺した男と同じように、誰かの手にかかって命を落とすかも知れない。
きっと穏やかには死ねないだろう。
でもそれでいいのだ。
僕は僕の中にある彼女達への哀れみと、男への怒りから手を下したに過ぎない。
それらの行為は僕の中に矛盾なく存在している。
それでいい。
「ああ、随分と汚れてしまった。この服はもう処分しないと駄目だろうな」
月は隠れたままだ。
それでも殊更に暗がりを選んで帰路を辿る。
既に頭の中にあの男の事など存在していない。
「今夜のエッグスオムネツは美味かったな。明日は何を食べようか。そう言えば、まだビーフコロッケーは試した事がなかった。よし、明日はビーフコロッケーにしよう」
街の喧騒は遠くから背中に聞こえてくる。
靴音を響かせて、僕は夜道を歩いて行った……。


「浅草十二階」
明治23年竣工・大正12年解体
1887年に建てられた眺望塔で正式名称は「凌雲閣」だが、庶民には「十二階」の名称で親しまれた
日本で初めて電動式エレベーターを設置した高層建築物
レンガ造りで各階には絵画などが飾られていた
1923年9月1日に発生した「関東大震災」により、8階より上階が崩壊
同時に火災が発生したため立ち入りが出来なくなり、同年9月23日に爆破解体された