因果応報

 私の勤めている病院に、1人の女性が運び込まれてきた。年の頃は70歳位。呼吸は浅く、額に脂汗を浮かべ、全身が小刻みに痙攣していた。苦しいのだろう、両手で胸を掻きむしるように抑えている。
「おふくろ! しっかりしろよ、病院に着いたぞ! おふくろ!」
 息子らしき男性がストレッチャーに寄り添いながら声をかけている。その後ろから心配そうに眉根を寄せた中年の女性。
「処置を行いますので、ご家族の方はこちらでお待ちください」
 リノリウムの廊下に擦過音(さっかおん)を響かせてストレッチャーは処置室へ向かった。
 ドクターの指示に従い、器具や薬剤を準備しながら、私は『ああ、これは無理だな』と思っていた。医療従事者の立場とすれば、いかなる時でも生存の可能性を信じて治療に当たらねばならないのだろうが。……視える私は、どれだけ頑張っても医学の及ばない領域があるのを知っている。
 この時も、酸素を送るために挿管され、処置器具に囲まれた患者の顔を覗き込むようにしている人影が視えた。ドクターでもナースでもないその人影は、和服をキチッと着こなした年配の女性だった。癇(かん)の強そうな雰囲気が目元に漂っている。瞬きもせずに患者の顔を覗き続けていた。
 そちらに気を取られていた私は、ドクターの声にハッとなった。慌てて点滴のスピードを調節するためにベッドの側に近寄る。
『……だよ』
 薬剤の落下スピードを確認していると、私の耳に言葉の欠片が飛び込んできた。
『もう……だよ。もうすぐ……だよ』
 いつもなら無視を決め込むのだが、その声に含まれる「何か」に反応して私は振り向いてしまった。
 患者の傍らに屈みこんでいた人影は、いつの間にか増えている。5、6人、全てが女性だ。着ている服装から年代は様々で、若い人もいれば年配の人もいる。期待に満ちた目をして、全員が患者を取り囲み、瞬きもせずにじっとその顔に見入っているのだ。
『さあ、すぐよ。もうすぐ』
『さあ、さあ、いらっしゃいな』
『今度はあんたの番さ』
『逃げられないよ。もうすぐさ』
 背筋に氷を投げ込まれたように鳥肌が立った。
『『『『早く、こっちにおいでなさい』』』』
 そして私の方へ顔を向け、ニタァァッと気持ち悪く笑ったのだ。
 その瞬間、患者の容態をモニターしていたナースが声をあげた。
「血圧下がってます!」
 周囲の機器が一斉に警戒音を発し始める。慌ただしくなる医療チームを尻目に、和服の女性が患者の鎖骨の部分に手をかけた。そのまま両手はズブズブと体の中に沈んでいく。ゆっくりと引き抜かれた手の先には、今、ベッドに横たわっている患者の姿が。

ずるり。

 そんな音が聞こえそうな気がした。横たわった体から半透明の幽体が引っ張りだされ、嬉しそうに笑った者達が次々に手を添える。何が起こっているのか理解できていない表情でもがくその幽体がすべて体から引きずり出された瞬間。

ピーーーーーッ!

 心停止を知らせるブザーが響き渡った。ドクターが必死で心臓マッサージを施すが……止まった心臓が再び鼓動を始める事はなかった。
 ドクターから残念な結果を報告された家族の悲嘆の声が聞こえてくる。私はそれを背中に聞きながら、そちらに目を向ける事が出来なかった。
 処置室から出た時に見てしまったからだ。助からなかったと告げられた瞬間、泣き崩れた奥さんの背後で、同じ人間が満面の笑顔を浮かべたのを。あれはきっと……彼女の生霊だ。踊りださんばかりに全身を震わせて喜びを表している女性の生霊。
 あの患者は生前、どれだけの事をしてきたのだろうか。これほどまでに「死」を喜ばれるようになるまで、凄まじい確執があったことだけは理解できる。その場を離れようとした私の横を、先ほどの人影の集団が通り抜けた。思わずハッとして振り向いてしまう。
「ごめんなさい! 私がもっとお義母さんの体調に気を配っていればこんな事には!」
とご主人にすがって泣く奥さんの周りをぐるりと取り囲んだ。既に彼女の生霊の姿は視えない。思いを遂げて本体の中に戻ったのかも知れなかった。
「ああ、お義母さん!」
『嘘つき……』
『死んでもいいと思って、何もしなかったくせに』
『早く死ねと思っていたくせに』
『喜んでいるんだろう?』
『死んでくれて、せいせいしたと思っているんだろう?』
『知っているよ』
 つい先刻、息を引き取ったばかりの女性が憤怒の形相で奥さんを睨みつけている。
『苦しんでいる私をじっと見ていたくせに。このまま死んでしまえと、何もしなかったくせに。死ねば楽になりますよと言ったくせに!』
 私は聞いてしまった事を後悔した。知ったからといって、私には何も出来ない。まさか「幽霊がこんな事を言っていました」などと上に報告する訳にもいかない。延々と恨み事を吐いている女性の後ろで、人影の集団が楽しそうに、嬉しそうにそれを見ていた。
『私もそうだった』
『姑が死んでくれた時、私も本当に嬉しかった』
『解放されたと思ったよ』
『散々、苦しめられたからねぇ』
『だから嫁にも同じ事をしてやった』
『だって、私だけが苦しいのは悔しいだろう?』
『不公平だろう?』
『同じ目に合わせてやらなくては気が済まない』
『こいつだけ幸せになんかしてやるもんか』
『苦しめ』
『苦しめ』
『苦しんで、苦しんで、私達と同じになればいい』
『私達と同じところに堕ちてしまえばいいんだ』
『あんたも同じさ』
『いつか、私達と同じ所へ堕ちてくる』
『その時は……』
 私は思わず耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。

私 達 が 迎 え に き て あ げ る よ 。